記憶に残らないお話
 男には、愛する者がいた。
 彼女の為なら、何だって出来た。何することも厭わなかった。
 彼女の幸せは自分の幸せ。彼女が笑っていれば、それだけでいい。
だからずっと彼女に笑ってもらえるよう、彼女の望みを叶え続けたい。
 男は彼女に尽くし続けた。




 けれどある日、壊れた。

 彼女は不意に、いなくなった。男に何も告げずに。本当に、突然に。
 男は呆然とした。
 彼女がいなくなった事を、信じられなかった。認められなかった。
 探すという行動すらも忘れ、男は嘆いた。
 男にとって彼女が自分の全てであり、彼女がいなくなるという事は、自分すらも失うという事だった。

 彼の中に彼女以外のものは無く、彼女が彼の世界だった。




†††



 生きる気力すらも失い、屍の様な姿身となった男は、ふと、一輪の花を見つけた。
 ずっとこの場に居座っていた男は、ずっとこの花を知らなかった。
 この花は今生えてきたのか、それとも男が気付かなかっただけで、ずっとこの場に生えていたのか、男には分からなかった。

 花は青く、自ら光を放つ不思議な花だった。夜闇に、妖艶に浮かんでいる。細い花弁が無数に集まり、さながら蓮の様であった。異なるのは、水面に浮いていないということ。葉の無い茎は、花の重みを耐えるには些か細すぎる。それでも、折れることも傾ぐことも無く、凛とそこに佇んでいた。


 男は、花に見惚れた。
 その姿、儚さに、女の影を重ねた。目を離す事が出来なくなった。
 男は、来る日も来る日も、その花を見つめ続けた。
 ただ無心に。女の姿をその花に見て。

 再び、心酔した日々が始まった。




 しかし、長くなかった。

 花は言葉を発しない。要求を口にしない。
 ただそこにいるだけで。


 男は見つめるだけで、動く事が出来なかった。


 元々衰弱していた身。
 そう、長くはなかった。




†††



 本当の意味で動かなくなった男を、その場に佇む青き花は、静かに見下ろしていた。
 そのまま幾日もが過ぎていき、やがて男は骨のみの存在となった。
 風が通り抜け、砂が舞った。

 幾度目かの大風が吹いた時、不意に変化が訪れた。
 花から染み出たかのような青い光が、辺りに立ち込めた。
 否。
 花が作り出す自然でない光。
 辺りに立ち込めた光は収束し、やがて男の骨に集まった。包み込む。


 骨はやがて身を持ち、男は生前の姿を取り戻した。風化していく、その前の姿を。

 花の光は次に、男の腰に付けられていた袋に収束した。鞄にしては小さいが、腰袋としては大きい、薄汚れた麻布の袋。
 袋はやがて消え、現れたのは、1枚の鏡だった。植物の蔦のような細やかな装飾の施された、円形の鏡。
 その鏡に、青き光は吸い込まれるようにして集まった。



 どれだけ時間が経ったのだろう。短かったかもしれない、長かったかもしれない。

 光を多量に吸い込んだ鏡自身も、青く静かに光っていた。
 やがてゆっくりと光は鏡から溢れ出し、再び男を包み込んだ。身を取り戻すも、記憶も意識も戻らない男を。
 哀しみと、絶望と、憎しみしか残らぬ、その男を。




 光が治まったとき、男の姿はどこにも見当たらなかった。

 ただ、1輪の細き花が、その場に凜と佇んでいるだけだった。



†††




 哀しみと、愛しさと。




 美しさに憂いを抱く。


 幽々と、幻の望みを与え続け、偽りの真実を掴ませる。




 憂美伽蓮のその色は、哀しみ背負う者を歓迎している。


 全てを忘れ、快楽に溺れる世界へ。