Encounter

06
「うおぉぉぉりゃぁぁぁぁ!」

 掛け声と共に足音が聞こえ、直後にゴンッという鈍い音と共に弾き返される。遊龍はずっと、見えない壁に向かって体当たりをしていた。しかし、僅かな振動は感じるものの壊れる様子は全く無いようである。

「痛っぇぇ」

 見えない壁に行く手を阻まれ、手探りで辺りの様子を確認してみた所、どうやら閉じ込めているらしいという事に気付いた。何が起きているのかさっぱり理解できない遊龍は、とりあえず壁を壊そうと試みているらしい。残念ながら、結果は良くない。ふと竜神の様子が気になり顔を向けてみると、彼はこの異常事態に気を留めることなく両腕を枕に寝転んでいた。あの野郎…と小声で呟くが、こちらも彼の事は気に留めない事にした。ひとまずやりたいようにやってみる。

「つーか、涼はどこ行ったんだよ」

 辛うじて遠くに見える光麗は、ぺたりと座り込んだままのようで。恐らく動くに動けないで居るのだろう。けれど涼潤の姿はどこにも見えない。

「あと1回、それでダメなら…」

 その後の言葉は考えていないが、“ラストチャンス”を勝手にこの回に決め込み先程よりも勢いを付ける。壁があると思われる場所から10歩程離れたその位置から、遊龍は走り出した。

「うおりゃぁぁぁ!」

 何度かの体当たりで掴んだ見えない壁の位置に向け、タックルさながらに思い切り飛び込んだ。が。

「ってぇぇえ?!」

 壁に向かってぶつかるの覚悟で飛び込んだはずが、遊龍の身体は空を舞った。そしてそのまま地面へと転がる。顔面に鈍い痛みが広がった。
 ついさっきまで体当たりしていた壁が、無くなっているのだ。跡形もなく。見渡せばキラリと光る壁は、もうどこにも見当たらない。まるで今までもずっと、何もなかったかのように。

「な………何なんだよッッ!!」

 誰も居ないのは分かっているのに思わず振り返り、壁があった場所へと叫ぶ。ぶつかる事を予想した後に発生する痛みならまだ我慢できるが、地面に放り出されると予想していなかった場合の痛みは、物理的には我慢できても心理的には我慢できない。土で汚れた服を叩きながら立ち上がるが、苛立ちは募るばかりだった。

「やかましい奴」
「あぁ!?」

 そんな折りにぼそりと聞こえた声に遊龍が振り返ると、寝転んだままの竜神はちらりとこちらに顔を向け、嫌そうに視線を寄越した。

「お前がやかましいって言ってんだよ。耳遠いのか?それとも理解力がない?」
「はぁ?てめーに言われたくねーよ!」
「俺は煩くない」
「さっきまで喋りもしなかった奴がいきなりんな事言ってんじゃねーよ」
「静かだっただろ?」
「一生黙っとけッ!」

 繰り出される言葉を回避というよりも殴る勢いで返せば、落ち着いた口調の次が来る。寝転ぶのを止め立ち上がった竜神を真正面から睨み付け、苛立ちを全面的に出すが全て流されているような気がする。

「うるッさいな。大体さっきの壁、何ですぐに壊さなかったんだ」
「あ?壊そうとしてただろーが、壊れなかったんだよッ」
「アレ氷だったろ?炎で壊せなかったのかよ」
「……………は?」

 間が空く。―――氷?

「やっぱ気付いてねぇよな。馬鹿だしな」
「バカって言うんじゃねー!」
「あ、そっか。億が一気付いた所でちょろ火じゃ壊せなかったか」
「億ッ…、や、つかちょろ火とか言ってんじゃねーよ、あんくらい壊せるっつうの!」
「壊してないだろ」
「壊す前に消えたんだよ」
「一撃でやらないからだろ」
「んじゃお前がやれば良かったんだろが、いちゃもん付けんじゃねーよ」
「面倒臭い」
「あーそっかそっか、どうせお前も壊せなかったんだろ。だから八つ当たりしてるんだろ」
「有り得ない。天地がひっくり返ってもそれは無い」
「壊せなかったんだろ、口先でなら何とでも言えるんだよ」
「それはお前も同じだろ、明らかに今まさに」
「んないちいち強調すんなよ」
「お前こそムキになんなよ、ガキ」
「おぉぉお前に言われたくないね!」
「お前の暇つぶしに付き合ってやってんだ、感謝しろっつうの」
「だぁぁれがんな事で感謝してられるか!」
「ふ……俺もお前に礼なんか言われたくないな、後味悪い」
「てめっ………いい加減にしやがれ!!!」

 次第に激しくなる口論は、それに伴って音量も上がり、既に遊龍は叫び声となっている。そしてそんな場に丁度足を向けた人物が1人。げんなりとした顔付きで視線を2人に向けた彼女は、頭の片隅で何かが切れる音を聞いた。

「あ、涼」

 ふ、と視線を竜神から外した遊龍は、そんな彼女の姿を確認する。竜神の後方、遊龍から見て右手側の茂みの切れ目から姿を現した事になる。遊龍の声を聞き、彼の視線を追い竜神も振り返る。そして、行動はストップした。

「どこ行ってたんだよ、涼。いつの間にか居なくなってさー、こっち大変だったんだから」

 遊龍が竜神の脇を通り過ぎ、涼潤の元へと足を向ける。通り過ぎたのを確認すると、竜神はそっと涼潤から遠ざかる。幸い涼潤は俯いていてこちらを向いていない、と思われる。1度見たら忘れない光景が、また脳裏に浮かんだ。

「大体竜の奴さ、あいつどうにかなんない……の………って、………涼?」

 その距離あと3,4歩程の所まで来て、遊龍はようやっと気付く。様子がおかしい、と。そして本能的に察する。
 ヤバイ。
 何がどう危険なのかは分からないが、これ以上近付いてはいけないオーラのようなものを感じる。とりあえず一言で纏めてしまえば、涼潤の機嫌は最悪だった。
 どうしたらよいのか分からず竜神を振り返ったが、彼は既に大分離れた所まで後退していた。え、と目をぱちくりとさせて、状況を整理する。
 ………もしかして、逃げ遅れた?

 ズドォンと壮大な爆音と閃光を迸らせて、何かが落ちた。雷。その場所は遊龍のすぐ近く………と言うより周囲。同時に数発落ちた雷は、丁度遊龍を囲むように地面に穴を開けた。何が起きたのか理解できないまま、遊龍は思わず閉じていた目を開き、周囲の焦げた地面を見て、言葉をなくす。

「ふっっざけんじゃないわよッッ!!!!!」

 直後の怒鳴り声に、ビクッと肩を竦める。それは遠くにまで下がっていた竜神も同じ事で。すぐ近くの遊龍はもちろん、離れている竜神ですら僅かにも動けなくなる。

「大体何であんな奴らにバカにされなきゃなんないワケ?あんな奴、このあたしが本気出したら一瞬で原型留めないくらいに粉砕してやれるってのに!あんの真鈴とかいう奴だってあたしの事完ッ全にバカにしやがって…!絶対許さない、次会った時は絶対に打ちのめしてやるッッ」

 涼潤の叫びはまだ続いている。呆然とその様子を眺める遊龍は、今自分がどうするべきなのか全く思い浮かばなかった。下手に動けば落雷が自分に向かってきそうな気がしたし、宥めるのもこの勢いでは無理だろう。結局は彼女が落ち着くまで待つしかないのだが、それまでにこちらの身が持つかどうかが定かではなかった。
 早口でまくし立てる涼潤の言葉の中には知らない単語も含まれており、叫びを聞いているだけでは一体何があったのか察する事は出来なかった。と、

「竜!遊!」
「「はいッッッッ!!」」

 突然の叫び声で呼ばれた2人は思わず直立不動で返事を返す。ビシリと伸ばした背筋を、少しも動かしてはいけないような気がした。涼潤の声は最初の叫びよりも幾分怒りが増しているように思われる。

「あんた達もいちいちいちいちやかましいの!遊!あんたは1人で叫びすぎ、反論する度怒鳴るのは止めなさい!」

 ―――いや、お前の方が叫んでるって。
 遊龍の心の内での突っ込みは、決して口に出される事はない。結果が目に見えているから。

「竜!あんたも!戻ったばっかでいきなり喧嘩腰になってんじゃないわよッ!大体あんたは人様に迷惑掛けておいて勝手に元に戻るな!あの蒼髪の男…!この涼潤様を騙しやがってッッ!!あいつこそ1番にぶちのめしてやるッッッ!!!」

 身を縮めながら聞いていた竜神だが、その方向は若干ずれていったようで。結局俺はどうすれば良いんだ、とでも言いたげな目で涼潤の様子を見守っていた。
 ―――ってか、涼潤………様?
 思った事をそのまま口に出しそうになるが、慌ててそれを押し止める。今は一言一言が、寿命に関わりそうな気がした。ちら、と光麗のいる方に視線を向けてみると、彼女もこちらの様子に気が付いているようで、しかし立ち上がったままの姿勢のまま停止していた。あちこちに落ちる雷に、どうする事も出来ないのだろう。

 遊龍たちは学んだ。涼潤を怒らせてはいけない、と。



***

「あはははっ、面白い奴らだねぇ」

 ひとしきり大笑いした後の赤メッシュの男は、すぐ隣へと歩んできた峻に気付くと即座に表情を消し、目を細め、そして静かに顔だけで笑った。対して峻の表情は何一つ変わらない。

「涼潤様、だって。今度はあの勢いで僕にも向かってきて貰いたいね」
「お前はまだだからな、シーズ」

 シーズの言葉が終わるか終わらぬかの間に、鋭く制止が入った。笑みを浮かべ話していたシーズの表情は一瞬で消える。視線は峻へと向けられたが、ちらりと見た後またすぐにガラス板へと移された。言葉がない事が肯定を指しているのか、否定を指しているのか。彼の表情からは読み取る事が出来なかった。
 シンと静まりかえった空間に、コツリと音が響いた。峻も、シーズもゆっくりと振り返る。

「峻くーん、秦ちゃん連れてきたわよぉ」

 甲高く甘えたような声が、暗い塔内へと大きく響く。アーチ型で開かれた塔の入り口にはオレンジの少女、真鈴が立っている。そしてその横に、そっぽを向く秦羅の姿。2人はゆっくりとした足取りで広間の中央付近へと向かうと、峻の正面で足を止めた。

「秦羅。なぜ勝手な事をした」

 峻の声音はとても静かで。激しい怒りでも優しい問いかけでもなく、ただ、淡々とその言葉は連ねられた。けれど露わになっている左目だけは、冷たい光が宿っていた。
 対面した秦羅は下を向いたままで、肩が小さく震えている。表情は見えない。

「闘いたかった」

 バァンと音が響く。同時に秦羅の身体は後方へと吹き飛ばされる。真鈴は思わずそちらへと駆け寄ろうとしたが、峻の視線がまだ秦羅へと向いていた事から走り出せずにいた。彼の今の瞳は、あまりにも冷たすぎる。
 そう高くはない位置から床へと叩きつけられ、それでも不意の衝撃で秦羅はうめき声を上げる。視線は誰にも何にも向けず、ぎゅっと目を瞑ったままだった。衝撃で起きた音が広間に反響し、それが治まるのを待って峻はゆっくりと口を開いた。

「ただそれだけの理由で、勝手な行動をとるな。お前にはお前の役がある」

 そうとだけ言うと、背を向け歩み出す。その背中が螺旋階段へと消えるまで、広間では何の動きもなかった。そのままの体勢でいた秦羅は、峻の姿が見えなくなると小声で彼を罵る。

「ちっくしょー…」

 駆け寄った真鈴は彼女の前で足を止め、掛けるべき言葉が分からずに立ちつくした。見たところ外傷はない。ただ吹き飛ばされただけで済んだのだろう。けれど、打ち付けた部位はきっと痛むのだろう。彼女を起こそうと真鈴が手を伸ばしたその時、いつの間にかやってきたシーズの声がかけられた。

「殺されないだけ、良かったんじゃない?」

 口調も、表情も柔らかいのに。細められた視線に穏和さは全く含まれておらず。変わりに、言葉の指す意味とその視線には冷たい刃のようなモノが含まれていた。短い言葉のあとすぐに、彼は白く仄かな光と共に消えた。

「私、あいつ嫌い………」

 真鈴の手を借りながら秦羅はそう呟き、シーズの消えた辺りを冷たい目で睨み付けた。その様子を、真鈴はただ静かに、少し淋しそうに眺めていた。



***

「Mistyとか峻とか………なー涼、何があったんだよ」

 口を閉ざしたままの涼潤に、焦れったそうに遊龍が問う。今のこの場はようやっと静まっており、騒動の当事者である涼潤は怒りを静めた後、木に寄り掛かるようにして座り込んでいた。ゆっくりと息をつく涼潤は酷く疲れ切っているようで。それもそのはず、一連の騒動で皆忘れかけていたが、彼女はまだ病み上がりだった。しかしそれでも不可解な事ばかりで、遊龍も光麗も彼女への問いかけを控える事が出来なかった。

「涼ちゃん、さっきすごかったよ。本当に、何があったの?」

 涼潤の包帯を取り替えながら、光麗はゆっくりと尋ねる。雷の連投により疲れ切った身体を再び酷使したせいか、傷の数ヶ所が開いていた。じんわりと血の滲んだ包帯は、涼潤がこの森に来てから見慣れてしまったと、遊龍は思った。
 涼潤はまだしばらくの間口を閉ざしていたが、やがて顔を上げると、先程起きた出来事を順に話しだした。





「つまり、その蒼髪の男ってのが峻って名前で、そいつがまとめてるのがMistyで。その中に冷気の秦羅と音使いの真鈴がいる、と………」

 簡潔にそう纏めた遊龍は、

「って、名前だけじゃ何も分かんねーだろ!」

 結局自分で叫んだ。しかし誰も彼のまとめに期待を持って接していたワケではないので反応は皆無で、その場には空回りという名の沈黙が落ちた。数秒後、落ち着いていられないのか遊龍はまた言葉を繋げる。

「ったく、どうすんだよ。向こうから来るの待ってたらいつになるかも分かんねーし、どんな連中なのかも分かんねーし…」
「うっさい。も少し静かに出来ないのかお前は。大体、落ち着きなさ過ぎ」
「あー?なんだと」
「煩い」

 非常に嫌そうな表情を向け言葉を発する竜神に対して、更に音量の上がった声を上げた遊龍。彼に対して放たれた一言は、振り向かずとも分かる涼潤の言葉で。けれどその言葉は竜神にも向けられていたのだろう。萎縮した2人は大人しく地面に座り込んだ。フン、と、お互いに顔を背け合って。
 結局、手がかりは1つも得られなくて。ただ漠然と、なにかが始まっていると感じる程度。ターゲットはこの場にいる4人全員。それだけは確実に言えた。Mistyの正体も、目的も、そしてこれから何が起きるのかも、何も掴めていなかった。

「つまり、もう後には引けない」

 声のトーンが変わる。淡々とした、それでいてどこか淋しげな声が、そう告げた。3人の視線がすっと集まる。

「あたし達だけじゃなくて、遊も光も。きっともう、引けない」

 静かに、俯き加減にそう言う。俯いた途端に、彼女の長く焦げ茶色の髪がはらりと頬の横へと流れる。風が長い髪を揺らし弄び。長い睫と赤紫の瞳を思わず凝視していたら、隣に座る竜神から冷たい視線を感じた。

「大丈夫だよ。それに、着いていくって言ったの光だもん、平気だよ」
「そうそう、オレらだって、嫌々着いてくワケじゃねーんだし」

 少しでも涼潤の気分が晴れればいい。遊龍も光麗も、彼女へと言葉を向けた。風がくるくると回るのは、おそらく光麗の気持ちに呼応しているからなのだろう。竜神は不安げにその様子を眺めていたが、ふと涼潤の表情が変わった事に気付く。全ての靄が晴れたわけではないが、涼潤は1つ頷くと小さく笑みを見せた。


 場は静かに、風の音だけが響く。涼潤は空を眺めたまま思案する。けれどコレといった良策は浮かばず、思わずそれは言葉に出る。

「ほんとに、これからどうしよっか」

 対する返事はなく、遊龍も竜神にも考えはないようである。と、そこに慌てた口調で光麗が声を上げる。

「ねえね!質問!」

 声と同時に手を挙げる。思わず立ち上がりそうになってはいないだろうかと3人同時に思うが、誰もそれは口にせず。3人の視線を同時に受けつつも尚挙手を続ける光麗に、涼潤が問いかける。

「え、何?」
「なんで竜くんは喋ってるの?」

 そういえば至極当然の質問。“喋れない”。竜神の事を紹介された時に言われたのは、その事だった。現に喋る事の出来ない彼と1週間以上接し、それ故に彼を静かな少年なのだと認識したのは光麗だけではなく、遊龍も同じだった。そしてそんな彼は今現在、とても賑やかに会話している。主に遊龍と。

「あぁ、このバカ、あたしの雷がスイッチになって元に戻ったみたい」
「バカって言うな」

 涼潤の言葉に反論する竜神の声は控えめで、遊龍へ対する嫌みとは全く異なる声量だった。そんな様子に思わず遊龍は失笑。当の竜神は、戻ってくる言葉が無い事にとりあえず難を逃れたと安堵する。
 尋ねた光麗はというと、その一連の流れに返事をしかねているのか首を傾げ。けれど一言だけ、にっこりと言った。

「よかったね」

 思わず竜神と涼潤は顔を見合わせ、目を瞬かせる。別に不快な言葉ではない。喜んでいるという感情がこちらにも伝わり、しかしどこか慣れないくすぐったさを感じ、竜神は表情を隠すかのように彼女に背を向け、ごろりと横になった。

「(また寝るのかよ………)」

 遊龍はこそりとそう思った。
 ふと見た涼潤の表情はまた、思案を浮かべたものへと変わっており。きっと何かを考えているのだろうという事だけは分かったので、その結論が出るまで遊龍は待った。彼女が口を開くまでの間はそう長くはなかったと思うが、シンとした、風の通る声だけの空間は時間を遅く感じさせる。

「あいつらさ、」

 涼潤の言葉に、2人―――竜神は既に寝ている―――は同時に顔を上げる。2人のどちらにとも視線を合わせないまま、森の奥を見つめたまま涼潤は続ける。

「どうせまた、あたし達の所に来る。だったら、あたし達がここに留まる必要なんて無い。動き回って、少しは探して貰おうと思うんだけど」
「それって、ここを動くって事?」
「そう」

 ここでようやく光麗に視線を合わせた涼潤は、肩を竦めて笑った。あまりにも光麗が顔を顰めているから。様子に気付いた遊龍も、光麗へと視線を移す。彼女はまだ表情を変えなかった。

「やっぱり、ずっと居たこの場所を離れるのは嫌?」

 遊龍も口を開きかけたのだが、涼潤の方が一歩早かった。言おうとした言葉を飲み込み様子を見る。因みに彼は、「面白そうじゃねー?」と言おうとしていた。言わなくて良かったかな、と遊龍は胸をなで下ろした。

「嫌………ってわけじゃないんだけど………」

 言い淀む光麗だったが、丁度その時、彼女のすぐ横を一陣の風が吹き抜けた。そして、ゆったりと回る風が彼女を包む。風がくるくると回るうち、光麗の表情はまた明るさを取り戻していった。

「そっかぁ。うん、大丈夫。動こう?」
「は?なんなんだ突然」

 突然変わった光麗の言葉にポカンと遊龍は問い返す。顰められた顔は今はもう満面の笑みで、先程の困惑した顔はもう想像できない程である。首を傾げた涼潤も彼女の言葉の続きを待った。この場に、風の言葉を聞けるのは光麗しか居ない。

「ほら、あのさ。前に涼ちゃんがいた所、何もなかったじゃん。どこか別の所に行って、そこに食べ物とかお水とか無かったら大変だなぁって思って。そしたら、他の所にも泉とか木の実とかたくさんあるって、風さんが」

 あ、と。彼女の話を聞いていた2人は思う。すっかり慣れきってしまっていたが、森の中での暮らしは、朝に泉から水を汲み、周辺に育っている木の実を集めて食事とする、というものだった。泉がなければ水は得られないし、食料がなければ飢えてしまう。広大な森なのだからどこかにはきっと食料となる実もありそうだが、その“どこか”という点が不安要素だと気付かなかった。

「そう………。有り難う、風に、礼を伝えて」
「うん。みんな、ありがと」

 くるくると回る風は一層スピードを増し、そして楽しそうに笑っているのか、カサカサと木の葉を巻き上げて空高くへと昇っていった。
 食料だなんて、考えてなかった。涼潤は思った。少し、焦り過ぎかもしれない。冷静にならないと、きっとまた―――

「さーて、決まったんなら行きますか!」

 遊龍がおもむろに立ち上がると、合わせて光麗も立ち上がった。うん、と頷きながら涼潤へ手を差し出す。支え切れはしないと気付いていた涼潤は、光麗の手を借りつつ自分の足に力を込めて立ち上がった。彼女の傷も、もう大分塞がっているようだった。
 立ち上がった3人が一斉に向けた視線の先には、彼らの行動とは裏腹にすっかり眠りに落ちている竜神の姿。置いてくか?と冗談混じりに問おうと、遊龍は涼潤へと視線を向けた。向けたがしかし、そのまま視線をもとの位置へと戻した。彼女の笑みは時に恐怖となる。

「オレ、荷物片付けてくるわ」
「あ、光も!」

 くるりと背を向けた遊龍に、パタパタと光麗は着いていく。片付けと言っても沢山の物品があるわけではない。そりゃいくつかは持って行かないと途中でお腹は空くだろうけど。それ以外には個人個人の私物が数点、といった所で、実際にはその役割は必要なかった。だがそれでも、その場を離れるための口実は欲しかった。
 2人がその場から離れて数秒。
 雲ひとつ無い青空の下、日が少し傾いた昼過ぎ。

 今日何度目かになる雷が落ちた ―――