Encounter

26
「私は、罪を重ねる者へ罰を与える者」

 シンとした薄暗い部屋の中に、よく通るソプラノが響く。じんわりと反響した声は、その場には彼女以外の者はいないから誰にも届かない。外は闇、月はない。光のない世界に、ふわりと微かな光が舞った。空気が、冷える。

「目覚めさせて頂いた事、感謝しますわ」

 小さく微笑んで、そして声も彼女の姿も消えた。部屋に残されたのは、少しだけ冷えた暗い空気だけだった。



***

「お前らなんで………」

 予想通りの第一声に、言葉が詰まる。その声は、不機嫌というよりは驚き、そして驚きというよりは嫌悪だった。無理もないだろう、竜神の前に現れたのは遊龍と、涼潤の捜していたという蒼い髪の男、峻だったのだから。

 夜が明けた。陽が昇り、遊龍は方角を確かめ、水柱が上がった方角を目指した。歩いている間にも2度水柱は上がり、方角を見失う事はなかった。見えていた距離と実際に歩く距離には差があったようで、歩いている内に太陽はすっかり昇りきってしまった。森が広いのか、単純に道を逸れてしまっていたのかは分からない。峻曰く、森の至る所にはシーズの魔術が施してあるとの事で、彼らが近道の為に用意した仕掛けが、自分たちにとっては面倒な代物になっていると思わざるを得ない遊龍だった。そうこうするうちに木々が開けた場所に出て、そこにある泉のほとりに佇む竜神を見つけたのだった。
 「竜、」と呼びかけた時には彼は既に気が付いていたようで、遊龍の声と同時に振り返り、そしてあからさまに顔を顰めた。

「峻、だろ。なんでお前が一緒に居るんだ」

 蒼い髪、という特徴しか聞いていなかったが、それだけあれば十分である。一目見て彼だと分かってしまう。分かるからこそ、良い訳をするタイミングを逃してしまった。竜神の視線は峻へと移り、流黄へ移り、そして最後にまた遊龍へと戻ってくる。疑いと、嫌悪と、不審の込められている視線に、怒りの色がそんなに見えない事に安堵する。そう言えば彼の紫は、涼潤の赤紫とは少し違う、青紫なのだと気付いた。
 峻と流黄が無言で佇み、不安げに2人の動向を見ている。動くのならば、自分しかいないのだと遊龍は覚悟を決めた。そして次に彼が取った行動に、竜神は瞠目せざるを得なかった。

「頼む、話、聞いてくれ」

 深々と頭を下げる遊龍に、竜神は首を横には振れなかった。





 話を告げられる時、ある程度はその内容を予想する。予想をして、動揺しないようにして。冷静でいられるように努めるのは、竜神の癖のようなものだった。しかし予想とは大きく掛け離れた彼らの話に、ただただ呆然とするだけだった。

「だったらどうしろってんだよ」

 最初に思い付いた言葉は、遊龍のものと酷似していた。もちろん発した本人にその事を知るよしもない。
 長い長い昔話と、今の話。所々に峻や流黄の補足が入る中、遊龍は聞いた話と自分の考えを全て話した。非科学的な事に対して否定的なロザートで育った遊龍よりも、割と日常的に属性力だの魔術だのが飛び交っていたルオで育った竜神の方が、Mistyに絡む創世神話を理解する事が出来たらしい。返事こそはなかったが、彼は頷くだけの相槌を話の合間に繰り返していた。そして竜神も遊龍と同じく、過去を追究するよりもこれからの対策についてを口にした。
 竜神は口や態度で示すよりも意外と、遊龍の事を嫌ってはいなかった。ただ少々気に入らないのと、少々鬱陶しいと思っているのと、出来ればあまり深く関わりたくはないと思っている程度で、別に視界に入れたくない程大嫌い、という訳ではない。だからだろうか。彼が堂々と、そして長時間嘘を話すとは思わなかった。ましてや、嘘の為に彼が自分に対して頭を下げるなど。その遊龍に話をしたのが峻と流黄だという点を考えると、まだ信用出来ない話ではある。だがいっそ信じて敵陣へ乗り込んでしまった方が、手っ取り早いとも思ってしまうのだった。
 シーズ、という男の事は、竜神の中でも不審があった。真鈴から話を聞いた時、彼女と烈斗の表情はそうであると語っていた。それに、目の前で光麗を連れて消えてもいる。彼の考えている事が読めない以上、彼を疑う事は仕方のない事だと思えた。しかし、許したくないとさえ思えていた彼も、もしかしたら被害者なのかもしれないという仮定を聞いた時に、竜神の目指していた道は再び迷路と化すのだった。

「オレも、よく分かんねーんだよ」

 言葉の割には落ち着いた口調で、遊龍は呟く。抱え込んだ膝に顔を埋めて、はぁと深く溜め息を零した。視線は誰も彼へと向けてはいないが、声は届いている。昇っていた太陽は、いつの間にか西陽へと変化していた。何度目の1日が過ぎるのだろうかと、遊龍は空を見上げた。

「だってさ、涼と会った時の最初の目的は、『峻を捜す』って事だったんだろ。捜してどーすんのかは聞いてなかったけどさ。それなのに今は、涼がいなくて峻がいる。しかも意味分かんねー問題付き。……なんなんだろーな」

 誰かに宛てている言葉ではない。この場にいる全員に宛てているのかもしれないし、自分に向けているのかもしれない。言葉は風に流されて、遠くへと消えていく。風の行方を、光麗は知っているのだろうかとふと頭に過ぎる。彼女は、そして今彼女の中にいるという邪神は、何を考えているのだろうか。
 遊龍の言葉のあと、しばらくの沈黙が続く。先程からその繰り返しだった。誰かが口を開いても、その返事は得られない。静寂の後に、また誰かがそれを遠慮がちに破る。静かに、ゆっくりと時間だけが過ぎていた。次に沈黙を破ったのは、峻だった。

「シーズを、止めて欲しい」

 決意とも懇願とも、願いとも祈りとも取れる声に、やはり誰からの声も上がらなかった。興味なく無視している訳ではない。「分かってる」と誰しも声には出さずに呟いていた。

「人任せにするつもりはない。俺の責任だってある。ただ、アイツをそのまま放っておく事は出来ないし、かといって俺に対抗出来る力がある訳でもない」

 話の中で峻は、自分にはなんの力もないと説明した。創造神が目覚めたとしたら大きな力は手に入るのかもしれないが、目覚めていない現在では扱う事は出来ないし、発動しても暴発のようなものにしかならない、と。そしてまた、流黄も。彼女が属性力を持っているのは事実だが、扱う事が出来ないというのもまた事実だった。彼女の場合、或いは精神状態の変化によっては扱う事が出来るのかもしれない、と本人は言っている。今まで能力が使えたのは、シーズによって人格を作られていたからだ。それでも引き出せなかったのが、峻の中に眠る創造神の力だった。

「だが」
「分かってる」

 続けようとした峻の言葉を遮って。竜神は短く言った。ゆらゆらと揺れる視界の中で竜神を捉えた峻の瞳は、即座に伏せられた。一瞬とはいえ目があった竜神は、彼は本当は酷く弱い人間なのではと思った。自分の守りたい者を自分で守る事が出来ないという、卑屈な感情。視線は外されたが、竜神は言葉を続けた。

「俺たちだってもう、無関係じゃない。止めてやろうじゃねえか、シーズって奴を。それが涼たちを捜す方法にもなるってのなら尚更だ」


 偶然に神に選ばれ、偶然にその力を手にしてしまった
 偶然に力の存在を知り、偶然にその力と出会ってしまった
 偶然が重なれば、出会いは必然になるから

 よそ見したって、逃げたって、もう意味はないんだ


「アンタたちはさ、優しすぎるんだよ」

 久し振りに口を開いた流黄は、素直ではない礼を述べた。



***

 陽が落ちて、闇に帰す。
 暗い中を、真鈴たちは歩いていた。夜の中を手探りで歩き続けるつもりはない。目的のものを見つけると真鈴は足を止め、そして後方に続く3人も足を止めた。

「これが、シーズが作った魔法陣。コレに入ったら彼がいる離島にまで飛べるのよ」
「離島?」
「そう。あの人、森の中に“本拠地”作るのは嫌だとか言って、大陸から少し離れた小さな島に篭もってるの。島にはここと同じく森があって、真ん中に石造りの塔がある。塔自体は昔からそこにあったものだとは思うんだけど、今じゃMistyの住処って所かしら。その島の森にある魔法陣とこの魔法陣は、繋がってる。消えてたらどうしようかと思ったけど、光ってるって事はまだ繋がっているのね」

 そうやって霧氷に説明して、不思議そうに真鈴は仄かに白く光る陣を見つめた。期待していた訳ではなかった。離島への移動手段にはこの魔法陣しか知らされていないが、シーズの作ったものである。彼の都合で消す事も移動させる事も出来てしまうのだ。残っていた事にほっとするが、逆に何故残っているのかという疑問まで抱いてしまった。不安げに目を伏せると、不意にポンと肩に手を置かれた。思わず振り返った途端、頬に人差し指が刺さる。

「な…!」
「辛気くせぇ顔」
「あっ…あなたそう言う事しかできないの!?」

 頬を押さえながら振り返った先に、明後日の方向を向く雨亜がいた。4人の立ち位置を考えても、犯人は彼しかいない。唖然としてやり取りを眺める烈斗は2人の会話に入り込めないし、霧氷に至っては止める気もサラサラ無い。
 誰も、無駄な時間だとは思っていなかった。ともすれば重い空気を纏ってしまう真鈴に感情を与える為には、単純な言葉よりも行動の方が効果があった。深く考えて雨亜がそういった行動を取っているのかどうかは霧氷には分からなかったが、それでも場の空気がガラリと変わるのは目に見えて分かる事だった。真鈴本人がそれを良しと思っているのかは別として。
 気が済むまで喚きフンと顔を逸らした真鈴を見て、雨亜は小さく溜め息を吐いた。彼の態度に気が付いた霧氷は、呆れたように肩を竦めるのだった。

「もう、行くわよ」

 少しだけ棘の混じる声で、真鈴はそう言った。魔法陣の周りを4人で囲み、全員が頷く。真鈴の固く握られた手を、烈斗が小さく小突く。彼の身長から見たら、真鈴の手が小刻みに震えている事など容易に分かる事だった。ハッとして烈斗を見やり、ひとつ息を吐き、真鈴は頷いた。

「ちゃんとあっちに辿り着けるかどうかは分からないけど、行くしかないから。いいわよね」
「オレっちもう怖くないから!絶対峻サマに会う!」

 力強く頷いて。4人は白い光の中へと足を踏み入れた。ふわりと光は4人を包み、そしてその場には誰もいなくなった。



***

 そう、例えば。
 コレが全て夢だったら、と思う。
 全てが夢で、目が覚めて。そしたらそこは何も変わらない日常で。
 開いたドアの先には、暖かい光と家族がいて―――



 目が覚めた。
 しかし映る世界は望んでいた暖かなものではなかった。夢ではない、という現実だけを突きつけられる。

「寝ちゃってたんだ………」

 小さく呟いて、涼潤は身を起こす。全身は重く、あちこちに激痛が走る。魔力の回復はどうやら間に合っていないようで、治癒した傷も開いている箇所が多々ある。痛みさえ我慢すれば動けない事もない。まだ生きているのだと、実感した。

「どうする?シーズの所に行って光を取り戻す?それともアイツを殺す?峻を見つけ出す―――?」

 自問自答。そうやって自分の答えを確認して持ち続けていなければ、すぐにその答えを見失ってしまいそうで怖かった。今一番したい事が、やらなければならない事が、分からなくなりそうだった。決意した事を、自分で覆してしまいそうだった。
 何が正しいのか、何が間違っているのかが、分からない。一般常識としての善悪に従う事が善なのか、自分の感情に正直になる事が善なのか。ゆっくりと立ち上がりながら、涼潤は自分へと問い掛けた。
 木々の揺れる音がしない。すっかり暗くなった世界からは、音が消えている。森も木も、眠りにつく時間だった。ちらりと瞬く星だけが、時が止まっていない事を告げる。

『誤った道を進むなかれ』

 脳裏に直接語りかける声が、そう告げる。しかし涼潤はふるふると首を横に振る。

「分かってるけど、………分からない事だってあるんだよ」

 呟いてから、呆然と足下を見やる。一筋だけ涙が頬を伝い、ぽたんと地へと落ちた。この涙は誰のものだろうかと、誰に向けられているのだろうかと、涼潤はそっと頬に手を添える。自分のやっている事、やってしまった事が正しいとは思えなかった。けれど自分を悪だとはしたくなかった。自業自得、自分勝手。自分を罵る言葉ばかりが、少女の脳裏を支配する。

「あなたが、感情を消し去ってくれる神だったら良かったのにね」

 姿は見えないのに、首を振る姿が見えるようだった。導きの神の持つ力は、他人を導く事だけ。先を見通して、告げ、物事が悪い方向へと進まぬよう手を引くだけ。神話に出てくる導神はそう描かれており、そして現実も、そうだった。目覚めたと言っても涼潤自身がその力を持つ事はなく、彼女の言葉に従う他無かった。

『どうか、乗り越えて』

 先を読んでも、見知った未来を告げる事はない。
 導神は一言だけの導きを言葉にして、その気配を消した。深い眠りの奥底へと沈んでしまったから、しばらくは呼びかけても返事はないのだろう。涼潤は唇を噛みしめた。辺りには、彼女しかいない。
 決めなきゃいけない。そう呟いて、しかしまだ答えは出せなかった。ずっと答えは出していたはずなのに、目の前にまでやってくると途端にその答えはあやふやなものへと変わってしまった。これを迷いと言うのだろう。怒りと淋しさだけに身を任せて歩いてきた数年が、曖昧なものへと変化した。
 ぶんぶんと首を振り、自分を叱咤する。ここで止まっていても何も出来やしないと、歩みを進める。星が1つ落ちる。誰の悲しみも願いたくはない。願うのは、欲張らない少しだけの幸せ。

「アイツを見つけて、一発ぶん殴って、光を取り戻して、………それからやー兄に会うんだ」

 それだけを、彼女は願っていた。