Encounter -Another-

Straying
「いないのか」

 左翊がぼんやりと呟くように言うと、すみません、と申し訳なさそうに返ってきた。ぴょこんと立った長い耳が月兎族の特徴だが、今はそちらも垂れ下がっている。普段彼女は、受付の奥にある部屋で走り回っているか、休憩時間なら紅茶を淹れている。そんな姿しか見ていない為、今この受付口に立っている姿には多少なりと違和感があった。
 迅夜に部屋を追い出された時刻には、まだ役所の窓口は開いていなかった。人通りの増えつつある街中はどうにも落ち着かず、窓口が開くまでずっと、役所裏にある丘で休息を取っていた。通り抜ける風は心地よく、通りの雑踏も遠くにあると錯覚する。ふと気付いた時には眠っていたのか、役所を見やると扉が開いていた。

「ちょっと今外に出ているみたいで…」

 どこに行ったのかは分からないと、月兎族の役人はそう言った。
 役所に入った左翊を迎えたのはいつもの受付人ではなく、彼女で。左翊はしばし無言で目を瞬かせたが、意図を察したのか彼女の方から声を掛けてきた、という流れだった。
 しばしシンとした時間が流れ、その後左翊は踵を返すと無言で外へと出て行ってしまった。その後ろ姿を、不思議そうに月兎族の役人は眺めていた。


×××××


 トントンと、軽く扉がノックされる。喫茶店の扉がノックされることはそう滅多になく、営業時間前のこの頃にノックする人物も、1人と固定されていた。はい、と莅黄が声を掛けるとその扉は開かれる。見知った人物に、少しの笑みと緊張を見せた。

「おはようございます、七瀬さん。店舗確認です」

 きちりとした衣服を身にまとう彼は役人で。月に一度こうやって見回りにやってくる。非合法的な商売を取り締まるという名目で決まった日付にやってくるのだが、ここ1年くらいは同じ人物が確認にやってきている。既に顔なじみとなってはいるものの、役人という立場の人物には未だ緊張感を覚えていた。

「おはようございます。いつもお疲れ様です」

 そう言いながら莅黄は準備していたコーヒーを差し出す。最初の3回くらいは、確認だけで帰っていた。それが4回目にコーヒーを提供してから、毎回それを飲んでから次の場所へと向かうようになっていた。気に入って貰えているという嬉しさと恐れ多さからいつも手が震えているのだが、最近それも少しずつ治まってきているような、そんな気がしてる。
 カウンターテーブルに腰掛けた役人は、ふうと溜息をつく。疲れ切ったようなその表情に、莅黄は首を傾げた。こんなに疲労の溜まった顔を見るのは、多分初めてである。

「お忙しいんですか?」

 控えめにそう尋ねると、役人は顔を上げる。苦笑いを浮かべながら莅黄を見やると、口を開いた。

「色々とな、面倒事が重なると眠れもしない」

 今朝の役所内はそれはそれは酷い有様だった。侵入された形跡はないが数枚の窓ガラスが粉々に割られ、壁の一部は穴が空かない程度ではあるが砕かれていた。その音が響いたのがもうすぐ夜が明ける、といった時間帯。慌てて様子を見に行ったが既にそこには誰も居なかったという。犯人は分からず仕舞い。てんやわんやで修復やら報告書の準備やらをしているところにやってきたのが、富豪地区に住むオーグ・皐戸だった。それからがまた忙しかった。アクマリカで初めて起きた盗賊ルジールによる被害。そしてその事から、役所の破損も彼らの仕業ではないかという仮説が立った。
 役人の話を聞いて莅黄は思わず、「ここに来ていて良いんですか」と問いかけてしまう。だが、「担当外の上、今日は非番の予定だった」という言葉が返ってきた。そうなんですかとしか返せない莅黄に、役人は乾いた笑いを零した。
 コーヒーが空になる。彼はふうとひとつ息をつくと、しばらく間を空け盛大に溜め息を吐いた。売り上げと税金記録を記した紙を受け取り、立ち上がる。その足取りは重そうだった。

「それじゃ、また来月に」
「はい。お疲れ様です」

 料金はいらないと何度言っても、この役人はそれ相応の紙幣を置いていく。申し訳ない気持ちと同時に、有り難さをいつも感じていた。
 一度振り返り礼をした後、彼は扉へ手を伸ばす。
 カランと音が鳴った。同時に2人分の声が上がる。

「「あ」」

 莅黄は不思議に思い扉へと視線を向け、そしてやはり「あ、」と呟く。

「なんでお前がここにいるんだ」

 先に口を開いたのは左翊で。開けたままの扉の外で、取っ手を握ったまま立ちつくしていた。一方の役人は取っ手を掴み損ね、自動的に開いた扉に面食らいつつも外に立つ人物に目を瞬かせ。溜め息をひとつ零し、目の前に立つ彼に声を掛けた。

「それはこっちの台詞なんだが。ルジールはどうした」

 役人は―――役所の受付人うっちゃんこと澤神は、苦笑を浮かべてそう言った。

「………。どうにも」

 明らかにトーンの低い声に、澤神は眉をひそめる。しばらく無言で様子を眺めていたが、扉を開けっ放しであると気付き一歩下がる。左翊も店内へと足を踏み入れ、そして扉が閉まった。
 店内には3人。シンとした空気が流れた。

「何かあったのか?迅夜は」

 怪訝そうにそう尋ねた瞬間、左翊の眉がぴくりと動く。明らかに不機嫌な顔となっている左翊の様子を見逃さず、澤神は更に問いかけた。

「なんだ、お前ら喧嘩したのか?」
「違う。追い出されただけだ」

 即座に否定の声が返ってくるが、声には焦燥が含まれている。その後に続く言葉はなく、また店内はシンとする。莅黄はその様子を緊張した面持ちで眺めていた。
 間を置いて、澤神が呟く。

「それは喧嘩したという事にならないのか?」


×××××


 カウンターテーブルとは別に備え付けられている4人掛けの机が2つあった。その内の1つに左翊と澤神は無言で腰掛けていた。2人の前にはコーヒーが置かれている。莅黄はなるべく直視しないようにカップを磨いていた。2人が何故知り合いなのかはよく分からないが、場を提供するべきだということには感づく。それで席に座るよう促したのが数分前。何を話しているのかも聞こえない。聞いていたらいけないような気がして、莅黄は手元に集中した。

「で、何があった」

 腕を組み問いかけるが、左翊は無言のままだった。いい加減にしろと怒鳴りたくなる気持ちを抑えつつ、澤神は続ける。

「夕べ、ルジールの連中が来たんだろ。逃げたのか?逃がしたのか?」

 それでも黙っている。元々彼が無口な性格だということは知っている。だが問い掛けた事に対してここまで黙することは今までになく、益々違和感を覚える。はぁ、と息をついてから、また澤神の方から話し出した。

「今朝からずっと、役所内は大騒ぎだ。ガラスが割られて、壁も破壊されてる。心当たりあるか?こっちも情報集めてる最中なんだ。黙り込むのだけはやめろ」

 ぴくりと動く。左翊の黙秘は知らない事への黙秘ではないことなど、一目瞭然だった。しばらくの間、待つ。その間、左翊はしきりに何かを考えていたようで。俯いたり、そっぽを向いたりと、細やかにせわしなく動いていた。
 やがて彼の口が開かれる。

「逃がしたのは迅夜だ。多分、俺の所為」

 いまいち話の通じない彼の言葉に首を傾げると、すぐに続きは紡がれる。

「ルジールが侵入してきて、二手に分かれた。…分かれたのがいけなかったんだ。取り乱した所為であいつらを逃がす羽目になった」

 ポツポツと話される内容。彼の言いたいことは何となく分かるのだが、何となくであってぼんやりでしかない。まだはっきりとしない彼の言葉にもどかしさを感じた。

「侵入してくる時に、窓を大量に割っていった。だから役所のもルジールの可能性が高いと思う。見てはいないから確証はないが」

 そこで話を切ってしまった。
 話の大筋は分からないまま、澤神は溜め息。静かな店内にはなんの音も響かない。時折カップを拭くキュッという音が鳴り、古い木で出来た床や天井がビシリと音を立てる程度。あまりの静けさに、会話をしている最中であることすら忘れそうになる。
 これ以上訊いても無駄だと判断し、澤神は立ち上がった。その様子を左翊は目で追う。

「言いたくないならもう良い。だがそんなに萎れてたら、次にルジールが来た時どうするんだ。また逃がすのか。迅夜だって呆れるぞ」

 見下ろすようにそう言って、歩き出す。カウンターの方に向かっていると気付き慌てて莅黄は手を止めた。澤神は何も言わずに紙幣を置くと、また左翊へと向き直る。

「愚痴を零したいならいつでも来い。ただ黙るのはやめろ。料金は払っておくから、夕暮れまで考えるんだな」

 ビシリとそう言うと、澤神は店を出て行ってしまった。彼を見送ると左翊はまた、俯く。足音はしない。シンとした空間に聞こえる音はない。
 イライラしている理由が、自分でもよく分からなかった。迅夜があの場で、ルジールを逃がした理由が分からなかった。それに対して怒っているのかと言えば、否である。だが頭の中でぐるぐると回る感情を、纏めることが出来なかった。
 ふと手元の紙幣を見た莅黄は、それが明らかにコーヒー2杯分の金額ではないと気付く。おつりを持って行こうとか逡巡考えたが、もしかしたらあの役人は、本当に夕方まで左翊がここにいると見込んでこの金額を置いていったのかもしれない。うーんと唸ってから、莅黄は有り難く料金として頂くことにした。がたりと、引き出しを開ける。

 ガタンと、物音がした。
 カウンター横にある扉の奥から聞こえたその音に、左翊も莅黄も視線を向ける。と同時に、扉が開いた。

「ちょっと邪魔するぜ」
「………え?」

 現れた人物を見て明らかに莅黄は狼狽する。
 赤のバンダナは巻いておらず、身につけている衣服もこの街に住む一般市民のそれと変わりないものだった。しかし顔の傷だけは消えることなくそこに残っている。後ろ手に扉を閉めた黒翔は、ズカズカと左翊の座るテーブルへと近付いた。

「左翊とやら、ちょっと話がある」
「は?」

 乱暴にそう言った黒翔を、左翊は見上げた。昨日追っていた人物が目の前にいるというこの状況に、どこかムッとする。腕を組んだまま、顔を背ける。

「良いのかこんな所に来て。俺たちはお前を捕まえようとしてるんだぞ」
「捕まえねぇだろ、昼間は」

 即座に切り返す黒翔の言葉は自信に満ちあふれていて。思わず視線を向けた左翊は、彼のことを睨み付けた。

「それは迅夜の台詞だな。俺は昼間でも捕まえる」
「嘘だな。例えそうだとしても今は違う。捕まえる気があったらすぐに捕まえるだろ?顔を背けて………何から逃げてんだ?」
「逃げ?」

 思わぬ言葉を返され、左翊は問い返すが黒翔はそれには答えなかった。くるりと後ろを振り返ると、カウンター奥にいる莅黄に声を掛ける。彼は不安げな表情でこちらを見ていた。

「セリ、いつものコーヒーよろしく」
「え、あ…はい。あの…っ」
「悪ぃけどちょっと居座るから」

 何か言おうとした莅黄を遮り、黒翔はまた彼に背を向けた。後ろに向かって手をヒラヒラさせると、椅子を引き左翊の目の前の席へと座り込んだ。先程は澤神が座っていた席で、左翊はまた向かい合わせに対面することになる。
 席に着いてしまった黒翔を見やると、莅黄は問い掛けることをやめた。気が落ち着かず、手が微かに震えた。しかし注文されたものは出さなければならない。静かに新しいカップを取り出した。
 せめて店の入り口から入ってきたものなら、もう少し平常心でいられただろうに…。そう莅黄は胸中で呟いた。

「セリ?」

 思考回路が良く回らない左翊が先に問うたのは、先程の聞き慣れない呼び名。「逃げ」という言葉の意味は考えても思い付かず、既に思考の隅に追いやられている。そうやって追いやられた疑問を沢山溜めていることが不快だったが、消化することも出来なかった。
 黒翔は背もたれに思い切り寄り掛かりながら、莅黄に視線を向けた。

「ナナセ リキ。だからセリ。真似すんじゃねぇよ?」
「誰が」

 自慢げに黒翔は言うのだが左翊は乗り気ではなかった。浮かない顔で、どこか不機嫌にそっぽを向いたまま。見ればカップに入ったコーヒーには手を付けていないようだった。減っていないコーヒーに、歪な左翊の表情が映る。

「とりあえず本題だ」

 左翊の態度も気にせず、黒翔は切り出す。それでも左翊の表情は変わらず、視線を向けることもしなかった。

「夕べ、影凜と何話した」

 ピクリと眉が動く。もう何度訊かれた質問だろうか。昨夜も迅夜に問い掛けられ、朝起きた時にも訊かれた。しかしそのどれもを黙り込んでいた所為で、今の状態がある。もしかしたら彼は今も、部屋で1人怒っているかもしれない。そう考えるとなお気分が憂鬱になった。
 黒翔からの問いにも左翊は黙り込んでいた。その反応を見越していたのか、黒翔は呆れることもなく同じ表情でまた口を開いた。

「じゃあ質問を変える。お前、若しくは影凜は、何者だ?」

 左翊は顔を上げた。不思議そうに黒翔を見やると、口を開く。

「俺は良いとして………何故影凜?お前の仲間だろう?」
「知らねえから訊いてるんだよ。お前に影響ある奴なのか?」

 あっさりと返してくる黒翔に、左翊はまた黙る。別に肯定を表しているわけではない。なんと答えればいいのか、分からなかった。言ってしまえば、彼のことは知らない。知らないがしかし、向こうは自分のことを知っている可能性があった。その可能性がどうしても、怖かった。
 黙る左翊を黒翔は面倒臭そうに眺めると、既に運ばれてきていたコーヒーに口を付ける。まだ熱いそれを半分程まで飲み、静かにまた降ろした。

「ルゼ、か?」

 途端に左翊の表情が変わる。ガタンと立ち上がり、黒翔を睨み付けた。突然の物音に莅黄はビクリと肩を震わし、それでも彼らから目を逸らそうとはしなかった。
 黒翔は平然と左翊を見上げる。

「落ち着けよ。そういう率直な態度取ってるとモロバレだ。お前の方がルゼなんだな」

 冷静な黒翔に、左翊はそのまま立ちつくす。冷えていく頭にはぐるぐると思考が回る。浮かんでばかりで一向に消える事無くその場に留まり続ける思考に、いい加減嫌気が射す。いっそのこと全て吐き出してしまえば楽なんだと、そう思う。ストンと、腰を下ろす。

「ルゼで悪いか」
「悪いとか言ってねぇだろ。お前はガキか」

 鼻で笑って黒翔はそう返した。寄り掛かった背もたれが、ギシリと音を立てる。寄り掛かりすぎて椅子の前脚が浮いているが、ゆらゆらと不安定なそのバランスを器用に取っていた。

「影凜のことは知らない。ルゼのことは嫌い。それだけだ」

 ぶっきらぼうにそう言うと、左翊はようやくコーヒーへと手を伸ばす。大分冷めてしまっているがまだほんのり温かく、一気に飲み干した。空のカップの底には、小さな1輪の花が描かれている。なんの花かは分からないが、そのピンクを眺めていると気が静まってくるような気がした。 

「ふーん。なんとなく分かった」

 端的な少ない左翊の言葉にそう返すと、黒翔は小さく数度頷く。本当に伝わっているのかは定かではない。けれど。それ以上追求されることはなかった。
 大分の間を空けて、先に席を立ったのは左翊で。その姿を追うこともなく、黒翔は視線をコーヒーカップへと向けたままだった。莅黄は慌てて視線を手元に落とした。
 席を離れ扉へと向かう左翊に、黒翔は声を掛ける。

「痛み分け」

 扉に手を掛けた状態で、左翊は振り返る。

「言葉の意味、分かってんだろうな」

 互いに無表情のまま、シンとする。左翊は口元に自嘲気味な笑みをうっすら浮かべると、後ろ姿の黒翔へと声を投げる。

「今はちゃんと理解した。そっちは、どうなんだ?」
「うちの相方を甘く見ないことだな。お前よりはしっかりしてるさ」

 やはり背を向けたまま、黒翔は強気にそう言った。ふ、と小さく笑うと、左翊は扉を開けた。開けた途端に降りかかる強い光に、目を細め。足を一歩踏み出してから振り返り扉を閉める。通りの雑踏は好きではない。けれど今は、そこまでイライラすることはなかった。


×××××


「おかえり」

 部屋に入った途端に声が掛けられた。
 1日外にいろ、と言われて出ていったものの、戻ってきたのは昼を僅かに過ぎた頃。部屋に入っても不機嫌に返されるか、それ以前に鍵が掛かっているのではないかとも覚悟していた。しかし鍵は掛かっておらず、掛けられた言葉にも不機嫌の色は全く見られなかった。
 迅夜は部屋に置かれた椅子に腰掛け、テーブルに向かったまま後ろ向きに声を掛けていた。

「ただいま」

 ほんの少しだけ緊張した色で左翊はそう返すと、部屋に踏み込む。扉を閉めて再び室内へ視線を戻すと、振り返っていた迅夜と目が合った。真剣な目付きに一瞬たじろぐが、その表情はすぐに呆れた笑みへと変わっていた。

「バカ左翊」
「悪かった」
「反省した?昨日のことちゃんと言える?」
「そんな言い方されなくても大丈夫だ」

 まるで子供を叱るような口調の迅夜に、左翊は苦笑いを浮かべる。歩みを進めてベッドに腰掛けると、迅夜は椅子ごと向きを変えて左翊に視線を向けた。腕を組む彼の姿を見て、今日は尋問が多いな、と左翊は胸中で呟いた。

「影凜に言われたんだ」
「影凜さんに?何を」
「似てるって」
「似てる?」
「ああ」

 抑揚無く話す左翊の言葉を復唱し、迅夜はひとしきり首を捻る。捻ったあと、うーんと唸り、そしてまた左翊へと向き直ると、口を開く。

「………それだけ?」
「それだけ」

 確認で問い掛けた問いには同じ言葉で返される。迅夜は思わず吹き出した。

「お前、そんだけであそこまでキレるのか?子供じゃあるまいし」

 盛大に笑い続ける迅夜に少しだけ罪悪感を感じつつも、左翊はそれを表には出さず。悪かったな、とぶっきらぼうに言うと小さく笑った。しばらくは、これで良い。
 迅夜はまた椅子の位置を戻しテーブルへと向かう。テーブルには沢山の紙のようなものが散らばっていた。所々濡れていたり、焦げ付いていたり。不思議な光景は、左翊には見慣れたものだった。左翊の目には映らないが、おそらくテーブルの上には様々な属性を持った精霊達がいるのだろう。
 紙に呪文を書き、そこに魔力を込め、そして封文を描く。そうやって符術に用いる符を作る。魔力を持たない左翊が符に力を封じる為には、迅夜の魔術が必要不可欠だった。これはその下準備だった。

「悪い」
「いいって。これ無いと困るんだから」

 背を向けたままでも笑っているのが分かる話しぶりに、左翊は無意識のままに俯いた。謝罪と、感謝。彼には、救われっぱなしだと思った。


「ただ、話せるようになったらちゃんと全部話せよ」

 不意に掛けられた言葉にドキリとして静かに顔を上げる。彼は相変わらず作業中で、こちらには背を向けていて。待てどもその続きは得られず、しかし待った為に空いてしまった間で返事をし損ね。数度瞬きを繰り返してから左翊は、小さく小さく、ごめんなさいと呟いた。