その日は確か、晴天で
 全てを忘れてしまいそうな程に、空は澄み渡っていて
 だからその日の夕方は、見事なまでの夕焼けを眺める事が出来た
 きっと明日も晴天なのだろう
 その空の下で、誰も泣く事がないように、ただ祈りたかった
紅く染まる教室
 ちゃんと鞄の中を確認したはずなのに、開けた鞄の中には目的のものは入っていなかった。中身を全部出して、ひっくり返して。それでも出てこないとなると、記憶と違う場所に移動したとしか考えられなくなる。盗まれたんじゃないのー?なんて言う友人の言葉は不安要素にしかならないので、とりあえず、最後に移動させた場所を思い出してみる。
「………あ、引き出し」
 そういえば売店でジュースを買って、そのまま鞄ではなく机の引き出しに入れた…ような気もする。となると財布の在処は引き出しの中である。時間は6時15分前。学校はまだ開いている。
「わり、ちょっと見てくる」
「いってら〜」
 手を振りつつ送り出した友人は、きっと戻ってきた時にも同じ態勢で待っているのだろう。公園のベンチに腰掛け、手には本。そして居眠り態勢で。



 走っている途中で、空が段々赤へと染まっていく様を見た。立ち止まりそうになる足を必死に動かして、目的地である学校へと辿り着く。その頃には空から青は奪われていた。
 駆け足で上る階段も、小走りで駆け抜ける廊下も。誰も居ない学校は、静かだった。日中の姿ばかり見ているせいで、夕方の、夜の、この誰も居ない様は酷く悲しげに見えた。明日になればまた、賑やかな日常がやってくると分かっていても、今のこの校舎の様子は、なんだか淋しく佇んでいるように映った。
「あれ、流衣?」
 だから、誰かがいるなんて考えていなかった。がらりと開けた2-Bの教室には、1つの影があった。それが誰であるかよく知る峡は、思わず名前を呼ぶ。突然開いた戸にも、呼ばれた名前にも、驚く事はなかったのか。ゆっくりと、スローモーションのように振り返る少女の表情は、眩しい夕焼けを背にしていて見えなかった。
「どうしたの?ここ、B…」
 足を踏み入れながら、教室を間違ったのではないかと危惧した峡は声をかけようとして、やめた。
 近くに来て気付いてしまった。

 彼女は、泣いていた。

 初めて出会った時からずっと、彼女の泣き顔なんて見た事がなかった。
 いつも明るくて、気丈で。人を楽しませる事が大好きで、妹が大好きで。でもそれ以上に、幼馴染みが大好きで。そんな彼女が抱えている苦しみすらも、彼女は笑って、決して暗い表情を出さないようにして。
 そんな彼女の涙を、初めて見てしまった。
「………ごめん」
 思わず、謝ってしまった。本人がそれを期待しているわけがないというのは、分かっているのに。思い浮かぶ言葉が、謝罪の言葉しかなかった。
「…こっちこそ、ごめん」
 笑って、でもそれは無理して笑っているのが痛い程に分かる表情で。そんな表情で謝られては、更に返す言葉が無くなってしまう。
 夕日が、真っ赤に燃えている。空も、山も、そしてこの教室すらも巻き込んで、真っ赤に燃えている。赤は情熱の色、なんて言うのに、どうしてこんなにも夕日の赤は淋しいのだろう。涙をも赤く染め、その様子を映す瞳さえ、赤い。やがて来るであろう闇が怖くて、空は精一杯に燃えているのではないか、なんて思ってしまった。



「今日、ね」
 長い事間があって、流衣の方から話を切り出してきた。教室は既に暗い。未だ残る残照は、教室にはもう届いていない。
「翔くん、面会謝絶だったの。手術してて」
 細々と話し出す彼女の姿は、見ているこっちの方が痛みを感じてしまうようだった。彼女自身は淡々と話しているから、痛みを感じているように見えない。
「いつもだったら、外で待ってるんだけど、…なんだか今日は待っていられなくて…」
 それで思わず、翔の教室の、翔の机の所に来てしまった。
 そう言って、流衣は黙り込んだ。返す言葉が、見つけられなかった。流衣の気持ちは、何となく分かる。分かるけど、それはなんとなくであって、完璧ではない。分からない以上、彼女を傷つけない言葉が浮かばなかった。彼女の悲しみも、想いも、自分の持っているものでは代用できない。
 いつも彼女が気丈でいられる最大の理由は、大切な人に会えるから、だという事は周りもみんな分かりきっている事実だった。
だから会えない日はきっと、泣いているのだろう。誰にも見られないように。知られないように。独りでこっそりと。そしてその様子を悟られないように、また笑って次の日を迎えるのだろう。
 泣かないなんて有り得ない。考えればすぐ分かるその感情は、笑顔によって隠されていた。彼女は自分が悲しむ事で、周りに悲しみを伝染させる事を望んでいない。
 そっと見やる彼女の横顔はまだ、涙無く泣いていた。



「クレープ」
「え?」
「クレープ食べ行かない?甘いの、好きでしょ?」
 静まりかえった教室の空気を微かに振るわせ、突拍子もなく言葉は飛びだしていた。流衣がキョトンと聞き返すのも無理はない。
「今公園で深次待たせてんだよね。ほら、公園の近くにクレープ屋あるじゃん。奢るから」
 言葉が下手である自覚はあった。だから峡は言葉ではなく、行動で示そうと思った。前後のない唐突な誘いを、それでも流衣の気持ちを紛らわせたかった。忘れろなんて言えないけれど、少しでも早く涙を止めたくて。
「行く」
 頷いた流衣に、峡はほっと胸を撫で下ろした。
 本当はバイトの給料日前で、自分のクレープ代すら出すのを惜しんだくらいだったけど。
 仕方ないよなぁ…なんて思いながら、峡は階段を駆け下りる。一緒に並ぶのがなんだか照れくさくて、申し訳なくて、少しだけ先を歩いていく事にした。そんな様子が面白くて流衣は笑っている、という事に峡は気付いていない。
 日はすっかり沈んでしまっていて、公園に行ったらまずは深次を起こす事から始めないといけないかもしれない。そう言えばクレープ屋は何時までだっけ、と考えて、腕時計に目を落とす。時刻は6時半。ちょっとヤバイ?思わず早足になっている自分に気が付いて、ちらりと振り返ると流衣がのんびりと歩いているのが目に入った。この様子だと走ったりはできないな、と峡は思い直して歩むスピードを落とした。クレープを食べたがっていたのは深次だ。店が閉まっていても、きっと落ち込むのは彼だけだろう。

 距離は少し離れているが、流衣と2人で歩いている今の時間が、なんだか無性に嬉しかった。
 叶わない恋を諦めたくて、諦められなくて。
 翔には悪かったが、今の時間をほんの少しだけ、楽しむ事にした。