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またあした

さして広くもないはずなのに、白を基調とし、静寂に包まれた部屋は随分と広いような気もする。もう何度も足を踏み入れ、馴染み深い場所となっているというのに、知らない世界へとやってきたような感覚。無音なわけでもない。開いた窓から入り込む風の音、その外の草葉の揺れる音、遠くの道路の音、空調の音、廊下の向こうから響く声、足音。聞こえる音は多い。ただそのどれもが、一枚ガラスを隔てた向こうの世界の音のようだった。
「お昼寝中かな」
小声で流衣は呟いた。ベッドに横になった翔は、目を閉じたまま静かに寝息を立てている。返事がないのを確認し、流衣はベッドの隣に置かれた椅子にそっと腰掛けた。鞄は床には置かず、膝の上に抱えたまま。じっと翔の顔を見つめていると、静かに眠る彼は、本当にただ昼寝をしているだけの少年だった。奇妙な安堵感と不安感がどうじに押し寄せ、目元がぐっと熱くなり、そして口端が少し上がるのを感じた。本当に変な感覚だ、と思う。
窓の外に視線を移すと、澄み切った青が目に入る。そこに浮かんだ白は、ゆったりとした時間を具現化したように静かに形を変える。まだ夕方までは長い時間があった。
「帰りたい?」
空を見つめ外の空気を感じながら、流衣はもう一度口を開く。独り言のような問い掛け。返ってくる言葉はやはりない。
「私はいつでも、いつまでも待ってるよ」
静寂の中に言葉は消えていった。

「流衣?」
読んでいた本から顔を上げると、こちらを向いている翔と目が合った。気付くと陽は先ほどよりも随分と傾いており、もうすぐ西日になりそうな太陽が、白い部屋に光を送り込んでいる。
「おはよう」
そんな時間ではないというのは分かっていたが、眠っていた相手に掛けるには最も適した言葉。
「おはよう」
翔からも同じ言葉が返ってきた。
「よく眠れた?」
「寝すぎたと思う」
身体を起こしながら、翔は肩を竦めて笑った。流衣は本を閉じると、椅子を少しベッドに寄せる。いつも通りの表情。困っていないのに困ったように笑う顔。今度感じた安堵感には、不安感は紛れ込んでこなかった。膝の上に置かれた鞄のさらに上に、本を置いた。
「もしかしてずっといた?」
「うーん、この本を半分読んだくらい」
「うわ、ごめん」
「いいよ私が勝手に来てるんだし、本読んでたんだし」
もうちょっと寝てたら最後まで読めたのになぁ、なんてふざけて言ってみたら、夜眠れなくなっちゃうよ、と返された。それは確かにそうだろうなと思う。
「明日はみんな来るって。欲しいものあったら聞いといてって言われたんだけど、何かある?」
明日は土曜日だった。大体恒例の部屋が賑やかになる日。ときどき日曜日も。ときどき静かな週末も。
「今は大丈夫かな。……あ」
答えながら思案していた翔の表情と言葉が一瞬止まる。何かを見つけたかのような目が流衣へと向けられた。
「ソフトクリーム……って、大丈夫かな」
おそるおそる訊ねる翔の様子に、流衣は数回の瞬きをした。そしてその意図するところを察して、くすりと笑った。
「大丈夫じゃないかな、峡君が頑張ってくれると思う」
「…大丈夫かなぁ…」
明日の「彼」の労働力に期待と不安が半々。けれど聞いてきたのは向こうからなのだから、ここは頑張ってもらわないわけにはいかない。伝えておくね、と言いながら、流衣はくすくすと笑っていた。翔も、つられて笑ってしまっていた。

太陽が本格的に西日となって、青が橙へと移ろい始める。急に風の温度が下がったような気がして、流衣は椅子から立ち上がり鞄と本を椅子に置いた。
「窓、閉めていい?」
「うん」
ベッドの足下をぐるりと周り、窓際へ。カラカラと窓を閉めると外の空気が遮断され、鍵を掛けると室内の静けさはさらに増した。廊下から聞こえる音も随分と少なくなっている。だんだんと人の少なくなる時間だった。
「そろそろ帰るね。また明日、お昼過ぎには来れると思う」
「うん、待ってるね」
椅子の置かれた場所へと戻り、空いたままだった鞄に本を入れる。ファスナーを閉じる音がギュッと室内に響いた。
入り口の扉を開けると、廊下の音が一気によみがえってくる。静かであることは室内と同じであるはずなのに、違う静寂のような感覚。
くるりと振り返ると、翔と目が合う。先に片手を軽く上げて、にこりと笑った。
「また明日」
「うん、また明日」
翔も同じように片手を上げて、そして笑った。
廊下に出て扉を閉めると、そこに立ちこめるものがやっぱり別の世界の空気のような気がした。けれど居心地が悪いわけではない。廊下も、室内も、流衣がいつもいる場所の空気だった。

また明日。言葉には出さないで、流衣はもう一度呟いた。また明日、そのまた明日、その次も、また次も。会える限りはずっと会えますようにと、魔法の言葉を呟いた。