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続・玉子焼きの話

 大和カンナはぽつんと一人きりで、台所に立っていた。
 男子寮内にある、共同の台所だ。相変わらずここは小さくて、ほとんどお湯を沸かすことにしか使われていない―――と思われている。実際は、料理好きの生徒がやってきては、気紛れに、最低限の道具だけで調理を行っている。それをカンナが知ったのは、二年生に上がる少し前のことだ。最初にこの場所に足を踏み入れて以来、一度も覗いたことはなかった。
 カンナは手にしたままだった買い物袋を作業台に置き、慎重に中身を取り出した。袋の中にあったのは、四個入りパックの生玉子。それに粉末のかつおだし。もしかしたらこれかもしれない、という直感だけでカゴに入れたものだから、必要なのは玉子だけだったかもしれない。空っぽになったビニール袋は、微かな風にカサカサと音を立てている。
 袋をざっくり四つ折りにして、ひとまず玉子のパックを上に置く。棚から大小のボウルを二つ、四角いフライパンを一つ、それに菜箸を取り出して作業台に並べる。少し迷ってフライ返しも取り出した。持ち手部分が少し変形しているが、使う分には問題ないだろう。四角いフライパンは、先日他の人が料理をしている様子を眺めていて知ったものだ。確かにこれなら四角い玉子焼きが作れると、カンナは感動を覚えたのだ。
 玉子焼き。自分では決して作れないだろうと思っていた料理。今日の朝目が覚める直前に、熱々の玉子焼きを頬張る夢を見てしまった。味どころか香りやその熱さまではっきり覚えていて、そうして目の前には―――………それは、思い出せなかった。
 カツン、と、カンナは玉子を一つ、大きい方のボウルの端にぶつけた。刃物で肉を裂くよりも簡単に、あっさりと手の中へと伝わる衝撃に、ドキリとする。おそるおそる覗き込めば、白い玉子の殻にはまっすぐ、そしてぐしゃぐしゃにヒビが入っている。薄く白身は滲み出しているが、幸いまだ、溢れだしてはいなかった。ほっとし、ゆっくりヒビに両手の親指を添えて、剥がれ落ちそうな殻に注意を払って、静かにヒビの隙間を開いた。
 誰かに見られていたら、なんの化学実験だと揶揄されそうなほど真剣な目と手付きだっただろう。実際、カンナにとってはそれくらいの集中力を要するものだったのだ。何しろ、殻一枚ボウルの中に落ちようものなら、その玉子はもう使い物にはならないと思っていたからだ。集中力が幸いして、ボタン、ボタンと三個の玉子が割り入れられるまで、殻は一枚も玉子の中身に混じることはなかった。流し台の片隅に、すっかり軽くなった殻がころりと転がる。ボウルの中には黄身が滲み出した玉子がふたつ分と、思いの外綺麗に形を留めている玉子がひとつ分。
 これで全ての工程が終わったと言わんばかりに盛大な息を吐き出し、カンナはがっくりと肩を落として俯いた。当然、終わるどころかこれが始まりである。それはカンナ自身よく分かっている。しかしこの工程に一体どれだけ時間が掛かったのか、時計を見るのも躊躇われてしまった。早くしなければ、誰か来てしまいそうだというのに。
 小さい方のボウルを大きいボウルの隣に置き、カンナはしばらくそれを睨み付けた。正確には考え込んでいるのだが、真剣な目付きではボウルと敵対しているように見られても仕方がない。しかしすぐに、まるで根負けしたかのように目を逸らしてから、カンナは砂糖の入った袋を手に取った。計量スプーンというものが存在していることは知っているが、残念ながらそれを使ってどれくらいの量を量ればいいのかは分からなかった。
 粉末のかつおだしは小袋入りのものだが、これの全てを使うわけではないだろう。裏面に書いてある豚汁の作り方を見ながら、そんな勝手な想像をする。豚汁だったらこの通りに作ればいいのかとふむふむ頷き、おそらくすぐに頭の中からは消えてしまうであろうレシピを斜め読みした。600mlの水またはお湯に小袋半分を入れて下さい、だそうだ。四人分、きっと縁のない数字。ああでも、覚えているのは、五人か―――………パタリと手を止めた途端震えだした指先を無視しようと、カンナは小袋の端を破りきった。
 パラパラと数振りの粉末だしをボウルに入れ、小さいスプーンで二杯すくった砂糖も足す。多すぎない、はずだ。多分、きっと。スプーンに付いた砂糖を少し舐め取ってみても、ただ甘いだけだった。それを確認してから、小さいボウルの中身をそっと大きいボウルの中へと流し込む。
 菜箸を手に取り、黄身を潰すようにぐちゃぐちゃにボウルの中身を掻き混ぜる。混ぜて、混ぜて、混ぜて、全体が黄色になっていくのをまるで遠くから傍観しているように眺める。じゃりじゃりとした音がだんだん小さくなっていき、まばらに浮かんでいた茶色の粉も姿が黄色に紛れていく。白身はともかく全体が均一に混ざったように見えて、カンナはもう一度深く息を吐き出した。これでようやくスタートラインだった。
「これを、焼かないと」
 キッと睨み付けた先は四角いフライパンだ。あとはこれにボウルの中身を流し込んで、焼いて、ひっくり返して、丸めて、そうしたら出来上がるはずだ。頭の中で工程を想像して、カンナは意を決してフライパンに手を伸ばした―――

 結果は惨敗だ。敗因は、分からない。
 玉子を流し込んで火を付けて、それから端の方からフライ返しでひっくり返せば、くるくると玉子は丸まっていくのだと思っていた。しかし現実は、ゆるゆると波立つ固まっていない玉子が掻き分けても掻き分けても流れ出してきて、ひっくり返そうと差し込んだフライ返しは、滑って何も持ち上げることができなかった。その内じりじりと香ばしい臭いが鼻に届くようになり、やがて香ばしいなどと脳天気に言っていられる場合でもなくなり、どろどろだと思っていた上部はいつの間にか固まってしまっていた。
 フライパンと玉子の隙間から煙のようなものが見えた気がして、カンナは降参してコンロの火を消した。
 コンロに置き去りにされたフライパンを呆然と見つめ、カンナは立ちすくんでいた。触れてはいけないと主張するかのような熱を発するフライパンに、手を伸ばすこともできなかった。表面上だけは、玉子焼きも一緒に置き去りにされたように見えていた。
 じりじりじりという音がしなくなったフライパンにもう一度フライ返しを差し込むと、今度はガリッと硬いものに当たるような感触を覚える。明らかに自分の知っている玉子焼きとは違う感触に眉を顰め、カンナは暫定・玉子焼きを力任せに掬い上げた。
 持ち上がったのは真っ黒になった裏面を持つ、黄色かったはずの物体だった。
「………やっぱり、無理だよね」
 吐き出した声は少し震えていて、笑おうとした顔は微かに歪んでいた。手に握ったままだったフライ返しをぎゅっと握り込んで、カンナは数秒の間俯いていた。フライパンがずしりと重たくなったような気がした。
 『自分の好きな』玉子焼きが食べたい、それだけだというのに。
 作り方を聞けなかった、聞こうと思い付く前に聞くことができなくなってしまった。そう気付いたのは、不意に玉子焼きが食べたいと思ってしまった、些細な夢のせいだ。自分では作れないと思って諦めたつもりだったというのに、またこうして夢を見てしまった。
 フライパンに焦げ付いた玉子だったものを無理矢理剥がし取り、玉子の殻と一緒にビニール袋に放り込む。焦げていない部分を少しつまんで口に入れてみれば、甘じょっぱい玉子の味が口の中に広がった。想像していたものとは違う味だった。
 ボウルと菜箸を洗い、フライパンとフライ返しは水に浸し、余っていた玉子は「ご自由にお使い下さい」というメモ書きと一緒に冷蔵庫の中へと入れた。粉末だしにも同じことを書いたメモを貼り付け、棚の見える位置に置いた。きっと誰かが豚汁か何かを作ってくれるだろう。
 最後に残った、口を結んだビニール袋に視線を向けて、カンナは小さく息を飲んだ。そうして、首を振る。
「ごめんなさい………」
 誰に宛てているのかも分からない言葉が、ぽつりと零れ落ちた。