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カテゴリー: Chestnut

ぬくもりをこのてに

 学校からの帰り道だった。
 16時半。まだ明るい青空の下、ゆっくりと傾きだしている太陽の照らす道を流衣は一人で歩いていた。高校の周辺の車通りは少なく、時折通る車が過ぎ去ってしまえばあとは止まった空気が漂うだけ。授業が終了して間もない時間ではあるが、もうしばらくしたら屋外で活動する部活動の活気に溢れた声が響き渡るのだろう。校庭にはちらほらと人影が見えている。
 流衣は、これからいつも通り、幼なじみが入院している病院へと向かう。学校を出たのがこの時間であれば、病室で一時間は話をしていられる。昨日は委員会の仕事で向かうのが遅れ、15分しか話ができなかった。明日は友人が買い物に行きたいと言っていたから、病院に着くのが面会時間ギリギリになってしまうかもしれない。そう考えながら歩き慣れた道を進む。これがもうずっと長いこと続けている日課であり、生活なのだ。
 歩き続け、やがて右手に黒っぽく光を遮り、所々白く光を反射させる空間が見えてくる。木々や金網や植え込みに囲まれ、その周囲を路地が走る小さな公園だった。各方面に向かう人々が四方を通り、時間によっては子供の声が響きわたったり、老人がゆったりと歩いていたり、きゃんきゃんと吠える散歩中の犬がいたりする。小さいながらも人々の生活に自然と染み着いた場所だった。流衣の日常の通り道の中にも、もちろんその場所はあった。
 何の声もしない公園には、まだ誰の人影もないようだった。小学生くらいならもうとっくに学校が終わり、そしてまだ帰る時間にもなっていない頃合いな気もする。誰もいないのも珍しい、けれど遊び場はなにもここだけではない。公園にあるのはベンチとブランコ、砂場と滑り台。あとは平坦な何もない敷地。野球やサッカーなどは当然狭くてできないし、ベンチは四人集まれば満員だ。公園の入り口の前を通り過ぎるときに中を覗くと、砂場には誰かが遊んだ形跡とバケツやシャベルが置いてけぼり。おそらく子供たちが遊んでいて、気まぐれに別の場所へと出かけたのだろう。遊び道具がこのまま忘れられませんようにと、流衣は姿も分からぬ子供たちへと願った。
 そんなことを考えながら歩いていた流衣は、公園をもう少しで通りすぎようという頃になって初めて、いないと思い込んでいた人影があることに気がついた。入り口から向かって左側の奥、ブランコが並んだ場所。漕ぐ音が聞こえないから使われていないと思っていたブランコは、どうやらベンチ代わりとなっていたようで。
「宮菜先生…?」
 思わず流衣は足を止めた。
 植え込みの隙間から見えたのは、学校でよく見知った教師の端正な顔だった。彼が受け持つクラスは今日は授業数が少なかっただろうか。放課後のまだ早いこの時間に、教師が学校外にいるというのも珍しいと感じた。ましてやブランコに腰掛けているだなんて、一体何があったのかと思わざるを得ない。そうして流衣がそっと植え込みに近づくと、彼のすぐ隣にもう一人分の影が見えた。ブランコの後方、宮菜の斜め後ろにたつ姿はこちらに背を向けていて顔は見えない。が、小柄で学ランという背格好から、同じ学校の生徒だと思えた。
 説教…?教師と生徒の学外でのやりとりなどそれくらいしか流衣には想像ができない。わざわざ人目に付かないところで怒るだなんて、あの生徒は一体何をやらかしたのか。それにしても宮菜の方が座っているというのも不思議な光景だと、流衣がそう思ったときだった。
 不意に動いたのは学ラン姿の彼の方で。屈み込み、宮菜に影が重なったのが何を意味しているのか、初め流衣には分からなかった。耳打ちでもしているのだろうかと思った。それがそうではないと分かったのは、身体を起こした学ラン姿の奥で宮菜が困ったような笑みを浮かべ、直後ハッと目を見開いたからだった。ちょうど、流衣と目が合ったのだ。
 あからさまに動揺している宮菜に気付いた学ラン姿が、ゆっくりと振り返る。慌てて宮菜が引き止めるも既に遅く、振り返った顔はこれまた流衣の見知った顔だった。同じ学校の、同じ学年の、男子生徒。よく言えばマイペース、悪く言えば素行不良。学校内で姿を見かけることはそういえばあまり多くない。桐谷紅葉の印象は、そういったものだった。
 宮菜とは真逆に全く冷静さを欠かずに佇む彼は、じっと流衣を見たのちすっと左手の人差し指を口元に当てた。言葉はない、ただそれだけの動作。すぐさま立ち去ろうにも何か声を掛けた方がいいのかと迷っていた流衣は、その彼の様子を見て、言葉を感じ取り、小さく頷いた。そうして、同じように右手をそっと自分の口元に当てた。
 たぶん、これで大丈夫だ。
 気だるげな瞳が僅かに細められたような気がして、その表情が頭から離れなくなるような気がして、流衣はその場から駆け出した。

 公園で見かけた光景がまだ頭から離れず、翔のいる病室に入ってからも流衣はどこかぼんやりとしたままだった。
「どうかしたの?」
 そう翔に訊ねられても、流衣には答えを話すことができなかった。
 あのとき、二人の影が重なったとき、あの二人は。そう思い出すたびに流衣の中で何かが爆発しそうになっていた。翔に対してすら秘密にするのは、桐谷との約束があるからではない。表現する言葉が分からなかったのだ。
「流衣、疲れてるなら早く帰った方がいいんじゃ」
 なんでもない、としか言えていない流衣を見かねて翔が切り出すと慌てて流衣は大きく首を振った。そんなんじゃない、とだけ呟いて、けれどまた黙り込んでしまう。打つ手のなくなった翔は、困ったように窓の外に視線を向けた。陽が落ちかけている。もうすぐいつも通りの流衣が帰る時間。今日は過ごした時間は長かったけれど交わした言葉はとても少なかった。
 そっと顔を上げた流衣の視界に、翔の横顔が映る。同い年の、小柄で色白で華奢な少年。大事で大切で、愛しくて堪らない存在。公園での光景が脳裏によぎり、思わず息が止まる。

「翔くん」
 やっと出てきた声が、震えていたらどうしようかと思った。堪えて、堪えて、「いつも通り」の笑顔を思い出す。きっと大丈夫だ。
「何?」
 振り返った翔の顔も、いつも通りのものだった。深い詮索はせずに、流衣の言葉を待ってくれている。ようやく感情の整理ができて呼びかけられたときには、外は随分と暗くなっていた。陽が落ちきるまでもう少し。
「あ、あのね、その、―――手、つないでも、いい?」
 紡ぐにつれて斜めに落ちていく視線と、すぼんでいく声。交わした視線が逸れていき、流衣の目はすっかり床を見ていた。ここまできてようやく、翔は流衣に「何か」があったことを確信した。それが何であるかは分からなくとも、何かきっと、そういう方向性の何かが。
「うん、いいよ」
 翔の返事に、流衣は顔を上げる。にっこりと笑った翔の顔を見て、自然と肩の力が抜けていく。イスをがたりと引いてベッド脇に寄り、空っぽの翔の手を握った。体温の低さは変わらない。流衣の手の方がずっとずっと温かかった。それでも感じるのは、柔らかいぬくもり。
「変なこと言ってごめんね。ありがとう」
「変じゃないよ」
 誤魔化すように笑うと、それを見透かしたように、それでいて包み込むように笑い返される。心地よくて、あたたかな時間。
 軽く握り返してくる翔の手を、時間ギリギリまで離したくはなかった。

Chestnut

またあした

さして広くもないはずなのに、白を基調とし、静寂に包まれた部屋は随分と広いような気もする。もう何度も足を踏み入れ、馴染み深い場所となっているというのに、知らない世界へとやってきたような感覚。無音なわけでもない。開いた窓から入り込む風の音、その外の草葉の揺れる音、遠くの道路の音、空調の音、廊下の向こうから響く声、足音。聞こえる音は多い。ただそのどれもが、一枚ガラスを隔てた向こうの世界の音のようだった。
「お昼寝中かな」
小声で流衣は呟いた。ベッドに横になった翔は、目を閉じたまま静かに寝息を立てている。返事がないのを確認し、流衣はベッドの隣に置かれた椅子にそっと腰掛けた。鞄は床には置かず、膝の上に抱えたまま。じっと翔の顔を見つめていると、静かに眠る彼は、本当にただ昼寝をしているだけの少年だった。奇妙な安堵感と不安感がどうじに押し寄せ、目元がぐっと熱くなり、そして口端が少し上がるのを感じた。本当に変な感覚だ、と思う。
窓の外に視線を移すと、澄み切った青が目に入る。そこに浮かんだ白は、ゆったりとした時間を具現化したように静かに形を変える。まだ夕方までは長い時間があった。
「帰りたい?」
空を見つめ外の空気を感じながら、流衣はもう一度口を開く。独り言のような問い掛け。返ってくる言葉はやはりない。
「私はいつでも、いつまでも待ってるよ」
静寂の中に言葉は消えていった。

「流衣?」
読んでいた本から顔を上げると、こちらを向いている翔と目が合った。気付くと陽は先ほどよりも随分と傾いており、もうすぐ西日になりそうな太陽が、白い部屋に光を送り込んでいる。
「おはよう」
そんな時間ではないというのは分かっていたが、眠っていた相手に掛けるには最も適した言葉。
「おはよう」
翔からも同じ言葉が返ってきた。
「よく眠れた?」
「寝すぎたと思う」
身体を起こしながら、翔は肩を竦めて笑った。流衣は本を閉じると、椅子を少しベッドに寄せる。いつも通りの表情。困っていないのに困ったように笑う顔。今度感じた安堵感には、不安感は紛れ込んでこなかった。膝の上に置かれた鞄のさらに上に、本を置いた。
「もしかしてずっといた?」
「うーん、この本を半分読んだくらい」
「うわ、ごめん」
「いいよ私が勝手に来てるんだし、本読んでたんだし」
もうちょっと寝てたら最後まで読めたのになぁ、なんてふざけて言ってみたら、夜眠れなくなっちゃうよ、と返された。それは確かにそうだろうなと思う。
「明日はみんな来るって。欲しいものあったら聞いといてって言われたんだけど、何かある?」
明日は土曜日だった。大体恒例の部屋が賑やかになる日。ときどき日曜日も。ときどき静かな週末も。
「今は大丈夫かな。……あ」
答えながら思案していた翔の表情と言葉が一瞬止まる。何かを見つけたかのような目が流衣へと向けられた。
「ソフトクリーム……って、大丈夫かな」
おそるおそる訊ねる翔の様子に、流衣は数回の瞬きをした。そしてその意図するところを察して、くすりと笑った。
「大丈夫じゃないかな、峡君が頑張ってくれると思う」
「…大丈夫かなぁ…」
明日の「彼」の労働力に期待と不安が半々。けれど聞いてきたのは向こうからなのだから、ここは頑張ってもらわないわけにはいかない。伝えておくね、と言いながら、流衣はくすくすと笑っていた。翔も、つられて笑ってしまっていた。

太陽が本格的に西日となって、青が橙へと移ろい始める。急に風の温度が下がったような気がして、流衣は椅子から立ち上がり鞄と本を椅子に置いた。
「窓、閉めていい?」
「うん」
ベッドの足下をぐるりと周り、窓際へ。カラカラと窓を閉めると外の空気が遮断され、鍵を掛けると室内の静けさはさらに増した。廊下から聞こえる音も随分と少なくなっている。だんだんと人の少なくなる時間だった。
「そろそろ帰るね。また明日、お昼過ぎには来れると思う」
「うん、待ってるね」
椅子の置かれた場所へと戻り、空いたままだった鞄に本を入れる。ファスナーを閉じる音がギュッと室内に響いた。
入り口の扉を開けると、廊下の音が一気によみがえってくる。静かであることは室内と同じであるはずなのに、違う静寂のような感覚。
くるりと振り返ると、翔と目が合う。先に片手を軽く上げて、にこりと笑った。
「また明日」
「うん、また明日」
翔も同じように片手を上げて、そして笑った。
廊下に出て扉を閉めると、そこに立ちこめるものがやっぱり別の世界の空気のような気がした。けれど居心地が悪いわけではない。廊下も、室内も、流衣がいつもいる場所の空気だった。

また明日。言葉には出さないで、流衣はもう一度呟いた。また明日、そのまた明日、その次も、また次も。会える限りはずっと会えますようにと、魔法の言葉を呟いた。

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お題:線香花火

パチパチと音の鳴る花をじっと見ていた。
いつか終わってしまう事も、その時が案外あっという間にやってきてしまう事も頭の中では分かっていた。
けれどその同じ頭の中で、ずっとずっとずっとこの音が鳴り続いていればいいのに。そう思っていた。
火花が飛び散り、その反動で花は小さく揺れている。
微かな振動がじんわりと指先に伝わってきて、あまり揺れるな、と念じた。
念じたって、祈ったって、何も変わる事はない。そう分かっているのに。
「深刻な顔しすぎだって」
急に声を掛けられて、ビクッと腕を大きく揺らしてしまった。
慌てて手元を確認すると、そこにはまだ必死に咲き続ける花が揺れていた。
バレたくなくて、小さく小さく息を吐いた。それから返事をした。
「なんか、夢中になっちゃって」
しゃがんでいた自分の隣に、声を掛けてきた人物―――峡もしゃがみ込む。
さっきまで向こうではしゃいで騒いでいたのに、こういう時だけ声が全然違う。そう気付いていた。
峡はしばらく何も言わなかった。
ただじっと、手元に揺れる花を見ていた。
邪魔するわけでもなく、競うわけでもなく。ただじっと、見ているだけだった。
そしてやがて―――ぽとんと最後の命が落ちた。呆気ない終わり方だった。
目一杯咲いて咲いて咲いた花は、何も残さずに終わっていった。
「綺麗だったな」
峡はそう話し掛けてきた。
きっと、何を思っていたのかくらいは見通されている。
きっと、それを分かってて隣に来て、一緒に眺めて、言葉を選んでる。
期待しすぎている部分がありそうな気もしている、でも裏切られはしないような気がしていた。
「うん。綺麗だった」
こくんと頷いて、そう答えた。
「何も残らなくてもさ、いっぱい盛り上がるし、綺麗だし。ずっと覚えていられるよな」
しゃがんだまま、こちらを見ることなく峡は呟いていた。
話し掛けるのと同時に、それは自分に言い聞かせているようにも見えた。
「うん」
それには、頷く事しかできなかった。

+++++
15分

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お題:風鈴

人気の少ない路地だった。
道路、塀、固いアスファルトに閉ざされた一本道に、真昼間の太陽を遮る物は少ない。
空のど真ん中にいる太陽は、あちこちにとても短く狭い影しか作っていなかった。
道の両脇は民家。けれど静かなその道には不思議と全ての生き物が存在していないような空気が漂っていた。
そのじりじりと焼かれるような道の中を、両手で自転車を押しながら歩いていた。
本当なら自転車を力一杯漕いでこんな道をあっという間に通り過ぎてしまいたかった。
けれどぺたんこに潰れている自転車の後輪は、それを許さなかった。
峡は深く溜息を吐き、そして諦めて一歩一歩踏み出していく。
歩き始めてすぐに汗の滲み出した額や首元は、今は既にぐっしょりと濡れている。
拭う事は無駄だと分かっていたので流れるままに流していた。
この道を抜けたら大通りで、並木道。そこまで辿り着ければ日陰は増えているだろう。
それだけを頼りに、峡は歩き続けていた。
そんな峡の耳元に、チリンと軽い音が届いた。思わず足を止める。
辺りを見回しても民家の塀が見えるだけで、動くものは何も見えない。
チリン、もう一度聞こえた。
聞き覚えのある音だった。
風が吹く度に涼(の気分)を味わえる、夏の風物詩。
ぐるりと辺りを一周、二周見回したが、結局峡にはその音がどこから聞こえてきているのかは分からなかった。
音はすぐ近くから聞こえているような気もするし、風に流れてどこか遠くから聞こえているような気もした。
峡は足を止めたまま暫く待ったが、どうやら今日は風の少ない日らしい。それきり音は聞こえなくなった。
すっかり汗で湿っている両手でハンドルを握り直し、再び歩き出す。
その足取りは、ほんの少しだけ軽くなっているような気がした。

+++++
15分

Chestnut

もう腕まくりしたくなる季節なのね

 なんだかいつもと違う様子に気付いて、ふと横を見る。何が違うんだっけ?と首を傾げて幼馴染みを凝視すれば、何ジロジロ見てんだ、と嫌そうに返された。一呼吸置いて、あぁ、と手を打つと、やっぱり変な目で見られるハメになった。
「峡やん、半袖なのか」
 一瞬、はぁ?とした目で見られて時が止まる。どうやら向こうはこちらの言葉の意味を理解しようと思考モードに入ったようである。単純な言葉にそう長く考え込むことはなく、数秒後には再び時は回り出した。
「それがどうした?」
 言葉の意味というよりそれを言葉にした者の思考回路に疑問が射したのか、まるで無表情で問い返す。
「や、ね。なんか今日はいつもと違うなーって感じがして」
「………それだけ?」
「それだけ」
 やれやれと溜め息を零しながらうっかり遅くなっていた歩みを速める。このペースで歩き続けていたら確実に始業のチャイムに間に合わない。幼馴染みのマイペース振りはいつものことだったから、そう毎回リアクションを返しているわけにもいかない。
「俺も腕捲っとこうかな」
 やはりマイペース。隣でシャツの袖を無造作に捲り上げた深次は、得意げに峡に笑顔を見せた。

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