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タグ: クラロス

お題:雪

間引きを終え小綺麗になった植木鉢を手に、店の外へと一歩踏み出す。扉を開けたままの店内とさほど変わらない気温ではあるが、吹き付ける風は外ならではのもの。刺すような空気に、思わず晴乃は身を縮める。重く暗い空はいつもよりも低く見え、心なしか街の中まで沈んでいるように見えた。すっかり冷たくなっている植木鉢を持つ手も、徐々に温度を奪われている。そっと軒下に並ぶ他の植木鉢の隣に並べると、晴乃は右手で左手を包み込んだ。
色の少ない季節だった。並ぶのも花ではなく色の付いた葉が多い。まだこの季節になって半分くらいしか過ぎておらず、花の咲き乱れる季節までは遠かった。
手を握ったままぼんやりと灰色の空を眺めていた晴乃は、やがてその空からはらはらと舞う白に気付く。
「あ…」
この辺りではそう見られるものではないので、今日はとびきり気温が低いという事だろうか。そう思いながら、降ろしかけた視線をまた空へと戻していた。顔にいくつか着地し、ひんやりとした感触を感じるがそれも一瞬で、すぐに消えていった。地面にはなんのあとも残っていない。
「晴乃…?」
不意に聞き慣れた声に呼び掛けられ、晴乃は慌てて視線を降ろす。と同時に開けっ放しだった口をぱっと閉じる。格好悪い所を見られた、という後悔がぐるぐると頭の中を駆け巡っていたが、極力それを顔に出さないようにと晴乃は必死になっていた。
「風邪引くぞ」
役所からの帰りなのか仕事からの帰りなのか、その逆なのか、クラロスは少しの荷物を持って店から数歩離れた所に立っていた。
「あっ、いえ、大丈夫ですよ、本当、大丈夫です」
まだ少しぐるぐるとしていた頭の所為で咄嗟に言葉が出て来なかったが、なんとか笑う事は出来た、と晴乃は思っていた。
その間にも、ちらちらと舞い散る白は少しずつ量が増えていっていた。植木鉢を出す為だけに外に出てきていたので、晴乃の服装はあまり着込んでいるものではない。体温がどんどんと下がっていっている自覚はあった。
「クラロスさんこそ寒くないんですか?」
対するクラロスも、厚着とは言えない格好である。けれど寒がる様子は見えなかった。晴乃の視線に気付いたのか、言わんとする部分を察したのか、クラロスは微かに笑ったような気がした。
「俺は慣れてるから」
そう答える彼の声が、どこか遠くを向いているような気がした。
「そうなんですか?」
「昔住んでいた所は、雪が積もる所だったから」
やっぱり彼の視線は遠くを、彼の故郷を向いているのだと晴乃には分かった。
それが少しだけ淋しくて、羨ましくて、なんだかよく分からない気持ちがもどかしかった。
「そうなんですね。私、こうやって降るのは見た事あるんですけど、積もってる所は見た事ないんです」
この辺りじゃそんなに降らないですからね。そう付け加えて、晴乃はもう一度空を見上げた。量が増えたとは言っても、あくまで比較的。このまま三日三晩でも降り続けたりしない限りは地面も白くはならないだろう。
「いつか、行ってみるか?」
突然の言葉に、晴乃はしばらく空を見上げたまま瞬きを繰り返してしまった。そしてクラロスに振り返ってそこでも数度瞬き。晴乃の様子にクラロスも少しきょとんとしていて、向き合ったまま静かな時間が流れる。
「遠いから、無理に行こうって訳じゃないけど。雪が見たいなら」
他に深い意味も無い事は分かっていた。分かっているけれど、その気遣いが嬉しかった。
不自然に空いてしまった間を申し訳なく思いながら、晴乃はその間を吹き飛ばしたくて思いっ切り笑った。
「行ってみたいです。雪、見てみたいです」
刺すような空気も風も、今はしばらく感じないような気がしていた。

+++++
30分

CrossTune

さがしもののゆくえ

その日クラロスが役所に向かうと、狭い室内には他の利用者は誰も来ていなかった。
それぞれがそれぞれのタイミングでやって来るものだから、たまたまタイミングが合えばごった返しているし、合わなければ誰もいない。
視線を彷徨わせようと少しだけ動かした首をすぐに止め、まっすぐに受付口へと歩いた。そこには男の役人が立っていたが、たまたまなのか、クラロスを見掛けてからなのか、すっと立ち上げるとどこかへ歩いて行き、そして入れ替わりに女の役人が現れた。長いうさぎの耳を隠そうともしない、この辺りでは珍しい獣人の役人、ルクスだった。
ルクスはクラロスの姿を見ると、そのままの視線で彼が近くまで来るのを待った。
「時間できたから。何かする」
クラロスが短くそう言うと、ルクスは呆れたように軽く笑って見せ、受付口の下から大量の紙が挟み込まれたファイルを取り出す。その中の何枚かを素早く抜き取り、クラロスの手元へと差し出した。
「あんたが好きそうなの、その辺りかな」
差し出した後もパラパラとファイルを眺めるルクスをちらりと見たクラロスは、手元に出された紙へと目を落とす。そこに書かれているのは、引っ越し手伝いや、知人への配達や、隣の町への買い出し。どれも何かを“運ぶ”ものばかりだった。
その中の一枚に手を伸ばした時、その手のすぐ横に、スッとルクスの手が伸びた。静かに視線をそちらに向けると、その手の下には他の依頼の紙よりも小さな、カードと表現するのに丁度いい大きさの紙が置かれていた。クラロスは辺りを見回したが、受付口の奥の部屋にいる役人達と、入り口側の空間にいるクラロス以外に姿はなかった。なので、隠そうともせずそのカードを手に取った。カードに書かれたアルファベットと数字の羅列を見て、表情も変えずそのままポケットの中へと滑らせる。
「これにしとく」
再び依頼の紙に視線を戻し、最初に手を伸ばした紙とは違う物を手に取ると、クラロスはそう言った。その目の前でルクスはにっこりと笑うと、慣れた手付きで承認の印を押す。
「いつもご苦労様。よろしくね」

役所を出て南下し、中央街を抜けてもまだ歩き続けると、次第に街並みが変わっていく。
二回目の変化を横目に見ながら西へと方向を変え、また歩く。中央街の雑踏とは違う人並みが、そこが居住地区である事を教えていた。街を東西に貫く大通りはいつ来ても人が多かった。そしてその大通りから細い通りに入っても、そこには沢山の人々の生活があった。
クラロスは折りたたまれてポケットに押し込まれていた紙を取り出し、広げる。依頼内容は、古くなった棚の廃棄。依頼主は女性。番地まで書かた住所の下には、丁寧に地図まで書かれている。十字路で足を止めて地図と周囲を見比べる。この角を曲がれば依頼主の家はすぐそばだった。
しかしクラロスの頭には、依頼内容も、住所も、この街の地図も全て入っていた。
クラロスが見ていたのは、依頼の書かれた紙と共にポケットから取り出したカードだった。そのカードに書かれた“番地”も、この十字路を依頼主の家とは反対方向に進んだ所にあるはずだった。
それだけ確認し、カードごと紙をたたみ込み無造作にポケットへと突っ込むと、クラロスは迷うことなく依頼主の女性の家へと向かった。
周囲の家とさほど変わらない平凡な扉を二回ノックし、様子を伺う。思ったよりもすぐに扉は開き、中から少しだけ疑問の表情を浮かべた中年の女性が現れる。扉に鍵は掛かっていなかったようで、クラロスは胸中で溜息を吐いた。その感情を悟られないうちにと、すぐに依頼の紙を取り出して女性に向け、言葉を続けた。
「レインの者です。ご依頼、引き受けに来ました」
「あぁ!どうぞ、お願いしますね」
すぐに気付き納得した様子の女性に室内へと招かれ、見えない所でクラロスはもう一度息を吐いた。こんな無防備な所にアイツみたいなのが来たらどうするんだ。そう考えては、頭を振ってその考えを打ち消した。今はそれを考える時ではない。女性の背を追いながら、クラロスも家の中へと入って行った。
「ありがとう、助かるわぁ」
数分後、入った時とは逆順に、今度はクラロスが女性の前に立っていた。部屋の片隅に置かれた棚を持ち上げ、扉の大きさよりも一回りだけ大きいそれを傾けながら、どこにもぶつからないようにと気を配ってゆっくり外へと出て行く。棚は壊れてもいいものだったが、家は壊してはいけないし、壊れれば持ち運びが不便だった。
完全に外へと出しきると棚を一旦地面に降ろし、クラロスは女性へと振り返る。
「これは責任持って廃棄致しますので」
爽やかな笑みに、女性は嬉しそうに頷いた。壊れているようには見えなかったこの棚を廃棄する理由はクラロスには分からなかったが、それを詮索する気は一切なかったし、興味もなかった。この棚を廃棄場へと運ぶ、ただそれだけ。
「よろしくね」
「はい。では、失礼します」
もう一度にっこりと笑いかけ、一礼。バランス良く棚を背に担ぐと、あとは振り返らずに歩き出した。少しの間を置いて、後ろで扉が閉まる音がした。鍵を掛ける音はしなかった。もうすぐ役目を終える棚が、背中の上で揺れる。この棚が置いてあった場所は棚がなくなりがらんとしていたが、そう遠くないうちにその場所を他の何かが占拠するのだろう。
柔らかい表情をあっという間に消滅させて、クラロスは歩いていた。
嘘の笑みではない。ただ、本物の笑みでもなかった。

街の区画に何ヶ所かある廃棄場の一つにドンと棚を降ろすと、それでこの仕事は終わりだった。
あとは役場に戻り、ルクスから報酬を受け取ればそれで完了。いつもの流れだった。
そして、いつもの流れにいつものおまけが付いていた。
廃棄場を抜け、大通りを避けて少し狭い通りを歩く。隣を子供たちが数人笑いながら走ってすれ違っていった。気にも留めずにさらに南下して、三回目の街並みの変化を確認する。今までの規則正しく並んだ道はぱたりと途絶え、目の前に広がるのは無造作に配置された小道と、背の低い建物の区画だった。
複雑に区切られたその街へ足を踏み入れると、明らかに先程までいた場所とは空気が違う事が分かる。密集した建物同士の隙間は狭く、通り抜けていく風はない。人気はあり生活感だって感じるというのに、のし掛かる空気が重いような気がした。
足は止めずにカードに書かれていた文字を頭に思い浮かべる。あの文字列が現すのは、この区画に入ってすぐの場所だった。その場所を目指して周りを見回すことなく、まっすぐに進む。不思議そうにこちらを見ている子供たちの姿があったが、気付かないふりをしてクラロスは歩き続けた。北の方からやってくる来客はそう滅多にいないのだから、そこは仕方がなかった。
目指す先、目的の場所には、一つの影が立っていた。
古びたフードを目深に被った姿は、街の北部であれば酷く目立って人を呼ばれるだろう。しかしこの辺りではそんな姿は珍しくはなかった。隠す為に使う人もいれば、それが普段着である人も多かった。
こちらよりも先に向こうは気付いていたようで、クラロスが姿を認めると同時にそばの脇道へと姿を消した。
僅かな間を置いて、クラロスも脇道へと足を踏み入れる。道の両側は窓のない建物の壁に挟まれて狭く、反対側から人が来てもすれ違うのも困難な場所だった。その道の始まりと終わりの丁度中間くらいの場所に、フード姿の人物が立っていた。今度はまっすぐクラロスを見ている。今の所は一応、敵意は感じない。それはあくまで、“一応”だった。
道の真ん中まで近付くと、クラロスはようやくそこで足を止めた。
狭い道でフード姿と対峙する事になったが、深く被ったフードの中は薄暗く、輪郭しか見えない。その姿がゆっくりと右手を差し出してくる。長い袖の先から少しだけ見えている指先は、まだ若い女のもののように見えた。
「これを、ここに」
フードの下から聞こえた声も、やはり女のものだった。意外だな、とだけ胸中で呟き、クラロスは無言で女の手に握られたものを受け取る。それは小さな木箱と紙切れだった。それほど重さのない木箱の方にはきっちりと封がしてあり、中に何が入っているのかは分からない。もう一方、紙切れには意味の無さそうな数字の羅列が書かれている。“ここ”と言われた、木箱の届け先だった。数字を確認すると、クラロスは二つをサイドポーチに入れ込んだ。
「了解」
一言だけ呟くように伝え、すっと右手を上げる。何の反応も返さないフードの女を気に留める事もせず、クラロスは上げた右手を引くようにして高く跳躍した。耳元で風を切る音一瞬が聞こえ、すぐに止まる。女の頭上を飛び越えて、あっという間にその背後に音もなく着地した。そのまま歩き出し、入ってきた道の入り口とは反対側の入り口へと進む。背中に女の視線を感じたが、そこにはもう興味はなかった。

面倒な手順が発生する時は、大概面倒な事態が付きものだった。
陽は沈み始めていたが、構わずに街の外へと出る。足を止めて辺りの様子を伺うが、まだ気になる気配はなかった。
運び屋は、物を運ぶのが仕事。
その物がどういった物なのか、どういった理由なのかを知る必要はない。
そう思っていたから、クラロスはルクスからの仕事も気にせずに引き受けていた。
昼間でさえ滅多に人の通らない街の外は、もうすぐ夜がやってくる時間ともなると風と音と虫の声しか聞こえない世界だった。西の空はまだ赤いが、東の空はすっかり宵の色。その中を、クラロスはやはり無表情で歩き始めた。届け先は、隣町へ向かう道の途中を森の奥へと逸れた所。ルクスが持ってくる仕事らしい場所だった。
人の姿は見えない。だが誰もいない訳ではない。クラロスはそう確信していた。
その確信は、道を逸れて森へ足を踏み入れた時に正確に形となって表れた。ヒュンと風を切る音が聞こえ、クラロスのすぐ後ろで乾いた音がする。素早く右に飛ぶと、更に乾いた音が続く。見ると木には、細いナイフが三本刺さっていた。じっとそれを見ていると、丁度ナイフの飛んできた方向から足音が聞こえる。隠そうとしていない足音を聞き、そちらへゆっくりと振り返った。
「要件は分かるだろう」
そこには見知らぬ男が立っていた。森の入り口に背を向けるように立っている所為で、背後の空に月を配置するシルエットになっている。神々しくもないし、似合いもしない。それを顔に出さず、クラロスは男を見ていた。
「大人しく渡せば逃がしてやる」
男がナイフを持った手を肩の位置まで上げると、残照がキラリとナイフを光らせた。それでもクラロスの表情は変わらなかった。代わりに、呟くように言い放つ。
「見逃してくれるなら、逃がしてやる」
最初男は、言われている意味が分かっていないようだった。しかしすぐに気付き、あからさまに怒りの表情を浮かべる。「調子乗りやがって…」と呟いてギリリと歯を鳴らすのを見て、クラロスは無表情で呆れた。また、ハズレだ、と。
瞬間、男が素早くナイフを投げる。腕は良い、狙いも正確だ。だがこの場所が悪かった。
ナイフが当たる直前にクラロスは横に跳び、続けて地を蹴り上へ飛ぶ。次に着地した場所は男のすぐ目の前だった。男が一歩足を引き、その目の前をクラロスの右手が通過していく。手に武器は何も握られてはいない。それに気付いた男は今度は一歩踏み込み、手にしたナイフで大きく斬りかかった。―――つもりだった。
振り上げた右手は振り上げたままの形で固まっていた。何が起きたのか分からないといった顔で男は自分の右手を見上げる。その隙にクラロスは何かを投げるように左右に右手を振った。クラロスの動きに気付き男はそれを目で追うが、追った先には何も見えない。男の顔には次第に焦りの表情が浮かびだしていたが、右手はまだその場に固まったままだった。
「お前…何を…」
男が呟くように言ったが、クラロスはそれには答えなかった。代わりに後ろへと大きく跳ぶ。
途端、男の身体がふわりと宙に浮いた。重力に逆らって胴体が浮かび上がりながら、それより少し速いスピードで左手と右足も上へと上がっていく。上がった先にあるのは右手で、やがてその三つはぶつかる事になる。
抵抗する間もなく、両手と右足を上にした状態で、男は何もない空間にぶら下がっていた。
「な、なな、何が」
動く左足をばたつかせてるが、ぐらぐらと身体が揺れるだけで状況は何も変わらなかった。
「暴れていればそのうち降りれるだろ。今は俺の邪魔をするな」
そう言ってクラロスは男に背を向け歩き始めた。
「な、なんだとお前、おい!降ろせ!戻ってこい!逃げるのか!!」
対する男はそんなクラロスの背に目一杯の怒鳴り声をぶつける。その大声はクラロスがしばらく進んでも変わらずに聞こえ、どうやら森の外にまで響いているようだった。
「……、…うるさい」
後ろを振り返ることなくクラロスの右手が左右に振られる。
ほんの数秒後、バサバサッと何かが大量に落ちる音がして、急に男の声が静かになった。直後、ドサッと鈍い音が響く。それきり、何の声もしなくなった。
クラロスの背後では、大量の木の葉を被った男が地面の上で目を回しているのだった。

森の中にひっそりと佇んでいる建物には、人の気配を感じなかった。
窓から漏れる明かりもなく、辛うじて残っている残照と強みを増してきた月の明かりにだけ照らされている。
入り口の目の前に立ち、クラロスは辺りを見回す。指示された届け先ではあるが、無防備に置いて帰る訳にはいかない。
しかし見回してもやはり人の姿は見当たらない。その代わり、微かな足音を捉えた。
家の裏、乱れた足音。
状況に心当たりがあり、クラロスはそっと動いた。
サイドポーチから黒い革手袋を取り出しぐっと手にはめる。そして何度かあちこちに手を振り、最後に建物に向けて何かを投げた。一瞬だけ月明かりに照らされ糸のようなものが現れるが、すぐにそれは見えなくなる。丁度その糸を引くような形で何かを確認すると、クラロスはトンと地面を蹴り上げた。するとクラロスの身体は軽々と宙を跳び、建物の屋根にトンと着地する。わざと立てたその音に気付いたのか、聞こえていた足音が止まった。
屋根の上を駆け出し、そこから一気に飛び降りる。飛び降りた先には二人の男が唖然として立っていた。
「な、なんだお前は…」
一人がそう声を漏らした。その左手はがっしりともう一方の男の口元を押さえつけ、右手はナイフを首元に押し付けている。口を押さえられた男は怯えた目でクラロスを見ており、その様子にすぐに二人の関係図に気付いた。
「仕事の邪魔をしないでもらえるか」
「そっちこそ邪魔をするな!」
いきなり激昂した男の声に、クラロスは何度目かの溜息を吐く。やはり、ハズレ。正直期待はしていなかったが、と。
ナイフに力が込められ、押し当てられた男の顔は恐怖に引き攣っていた。助けを求めるようにクラロスに視線を向け、首を振ろうとしてナイフに気付いてすぐに動きを止める。溜息を見えないように溢し、クラロスは二人をじっと見た。
「人助けは仕事じゃない。けど、届け先がいなくなるのは困る」
そう言い終わるが早いか、素早く右手を振るう。ナイフを持つ男の視線がクラロスの手に沿って動き、その隙に左手が振るわれる。途端、男の持つナイフが何かに弾き飛ばされた。
「?!」
どこに飛ばされたのかと男が辺りを見回すと、少し離れた木と木の間、そこの何もない空間にナイフが浮いていた。刃を下に向け、まるで柄の部分を何かに吊り下げられているかのようだった。
呆然とナイフを見ている男の手は、すっかり緩んでいたようだった。捕らえられていた男はすぐさま抜け出し、クラロスの背後へと走り抜ける。
「あ、待て!」
取り逃がした事に気付き男は慌てて駆け出そうとし、直後その足がピタリと止まった。反動で前のめりになり反射的に両手を前へ突き出すが、その手が地面にぶつかる前に身体全体の動きが止まる。地面すれすれの所で両手は浮いていて、そしていつの間にか、がっちりと両手首がくっついていた。
それは、糸だった。あちこちの木から伸びている糸が、男の両足と腰、そして両手に複雑に絡まっている。
しかし光の少ない森の中でその糸を視認できるのは、糸を張った本人であるクラロスだけだった。
「煩いと面倒だから、少し黙っててもらう」
クラロスはそう言うと、男に向けてピンッと糸を投げる。無論その糸は男には見えていないので、何をされているのかは男には分からなかった。投げられた糸はくるくると男の首に巻き付き、何かが巻き付いてくる感触に男が気付いた時にはもう解く事ができなくなっていた。そして糸が最後まで巻き付くと、糸の先端に取り付けられていた小さな針が男の首元に刺さる。
「…っ」
微かな痛みに顔を歪めた直後、男の身体からは力が抜け、だらんと見えない糸にぶら下がるだけとなった。
ぴくりとも動かない様子に、ひぃと息が漏れるような小さな悲鳴が聞こえる。
「し、死んだのか…?」
後ろに隠れていた男が恐る恐る顔を出し、訊ねてきた。
「いや、寝てるだけだ」
振り返ることなく、そう返した。
空中に向け指を伸ばし、何本かの糸を操る。そして最後にグッと引き込むと、どさりと音を立てて男の身体が落下した。両手両足、ついでに口元も透明な糸にぐるぐる巻きになっている姿だったが、近付いて確認してみてもよく眠っていて当分起きそうにない。
それだけ確認すると、くるりと振り返り怯えていた男の元へと近付く。ビクッと一瞬震えたように見え、クラロスはわざと見えるように溜息を吐いて見せた。
「依頼されていた品を届けに来ました」
ぶっきらぼうにそう言うと、サイドポーチから小さい木箱を取り出す。
声を掛けられてもまだ怯えていた男だったが、差し出された木箱を見て、ようやく肩の力を抜いたようだった。
「は…ははは…」
安堵が乾いた笑い声となって、そして木箱を受け取りながら男はべしゃりと地面に座り込んでいた。
木箱を渡し終え、請け負った仕事を完了したクラロスは、冷めた目で男を見下ろす。
「襲われたのがそれを渡す前で良かったな」
まだ腰を抜かしている男は、言われている意味も分からずクラロスを見上げる。その視線も気にせず、溜息を吐きながらぐるぐる巻きの男の方へと歩みを進める。
「渡す所までが俺の仕事だ。渡した後は知らない」
そう言いながらひょいと気を失っている男を担ぎ上げると、クラロスは一度だけ振り返る。
「いつまでもそこに座り込んでいない事をお勧めする」
男はようやく言われている意味に気が付いたようで、冷汗をだらりと流しながら慌てて立ち上がった。
辺りに人の気配は無かったが、暗い森に夜は始まったばかりだった。

「お疲れさま」
受付口で明るくそう言われ、クラロスはムッとした表情で報酬を受け取った。受け取った報酬の内訳は、最初の一件分と、次の一件分と、そして夜盗の取り締まりに対する礼金の分だった。
夜遅くに担ぎ込んだ夜盗を役所に放り込み、役人に複雑そうな顔で礼を言われる事には慣れていた。そのまま建物の裏で仮眠を取り、朝方に見回りの者に起こされるのもいつもの事だった。だが仕事後に笑顔で対応してくるルクスの表情は、いつまで経っても好きになれなかった。
「どうだった?」
表情も声音もいつものままで、音量だけを下げてさり気なく聞いてくる態度も気に入らなかった。
「どっちもハズレだ」
吐き捨てるようにそう返すと、「そう」と小さく返される。
「今日は何かやってく?」
「いい」
ファイルを取り出そうとするルクスの声を遮るように短く言い、クラロスはくるりと背を向けた。
「そ。じゃあ、また今度で」
振り返らずともルクスがにっこり笑っているのは分かっていて、だからこそそれには答えず、クラロスは役所の外へと出て行った。
扉の隙間から朝の陽射しが入り込み、細く明るいラインを作っていた。

CrossTune

お題:七夕

澄み切った空気が流れる朝の時間、晴乃は店の正面のドアを開き毎朝の日課を始めた。
夜の間は屋内に置いている植木鉢を、一つ一つ花の様子を伺って外へと出していく。
「おはよう、今日も元気だね」
そう花に声を掛ける。返事の声はないが、晴乃はまるで声が聞こえているかのようににっこりと笑った。
植木鉢を出し終わると、今度は何も入っていない空の容器を合間に置いていく。
小さな声で歌を口ずさみながら大きなじょうろに水を汲み、その容器に綺麗な水を張っていく。
全ての容器に水が入った頃、店の奥から晴乃を呼ぶ声があった。
はぁい、と返事をして店へと入っていく晴乃のそれもまた、毎日の日課だった。
晴乃が開店の準備をしている間、店長の奥さんが新しい花の準備をしている。
摘み取ったばかりの、店の庭で育てている新しい花たちを晴乃は受け取りに行ったのだ。
やがて店先へと戻ってきた晴乃は、その両手一杯に色取り取りの花を抱えていた。
花をぶつけないようゆっくりとしゃがみ込み、丁寧に水の張られた容器に入れていく。
容器が全て花に満たされ、こうして晴乃の朝の日課は終わるのだった。
しかし今日はいつもと少しだけ違った。
正確には今日だけではない、時々、日付によって変化が現れる。
今日は店長が花ではない大きな笹を持ってきた事で変化が現れた。
「これも飾ってくれないか?」
店長がそう言うと、初め晴乃はきょとんと首を傾げたのだが、今日という日付を思い出してにっこりと頷いた。
「七夕、ですね」
「ああ」
何の飾りもない笹は、恐らく店長が早朝に取りに行っていたのだろう。
店の準備をしている晴乃や奥さんよりも、いつも店長の朝は早かった。
それはこうして、店に関係していないようでしている準備を一人で行っているから、なのだろう。
晴乃は少し考えて、店先に置かれていた休憩用のベンチの端に笹を紐でくくりつけた。
笹は不安定ではあるが、程よい風にさわさわと揺れる涼しげな音と光景となった。
次に、店の奥からこぢんまりとしたテーブルを持ち出し―――見かねた店長が途中で加勢をし、そしてベンチの隣に置く。
「すみません、ありがとうございます」
「いやいや。これをどうするんだい?」
「せっかくなので、お客さんにも短冊を書いてもらおうと思って」
笹を見上げて、晴乃はそう言った。
「色紙とか、飾りに使えそうな物、お借りしますね」

店長が店の奥へと下がり、晴乃は一人でベンチに腰掛け飾りを作っていた。
色取り取りの色紙を切ったり、貼ったり。長く連なった輪飾りを作り上げると、満足げに晴乃は笑った。
長方形に切った色紙には紐を通して輪っかに結ぶ。その束はペンと一緒に箱の中に入れ、テーブルに置いた。
飾りの準備ができると、晴乃は立ち上がりよいしょと飾り付けを始めた。
色紙で作った飾りと、店に置いている花たち。一個一個丁寧に飾り付けていき、最後に残ったのは輪飾りだった。
背伸びをしててっぺんからぐるりと巻こうとするが、晴乃の身長ではどうしても届かない。
考えた晴乃は靴を脱いでベンチに乗ろうとし―――た、所で、常連客の姿に気が付いた。
「クラロスさん!」
慌てて晴乃はベンチから降り、靴をはき直す。服を整え、輪飾りを丁寧にテーブルに戻した。
「何してるんだ…?」
クラロスは、いつもと少し様子の違う店先を見て首を傾げる。
「あ、あの、今日、七夕で…」
すぐ隣に立つクラロスを見上げ、しどろもどろになりながら晴乃はそう答えた。
しかしクラロスの頭に浮かぶ疑問符は、どうやらまだ消えていないようだった。
笹を見上げ、輪飾りを見、
「たなばた………?」
そう呟くに留まった。
けれど先程の晴乃の様子は見ていたようで、輪飾りをそっと手に取り、もう一度笹を見上げた。
「これを飾ればいいのか?」
「えっ、あっ、はい」
びっくりした様子の晴乃を余所に、クラロスは笹のてっぺんからさらりと輪飾りを掛けた。
そして、笹の下の方に固まっていた飾りのいくつかを上の方に移す。
そんな彼の様子をぽけーっと見ていた晴乃は、はっと気付いてぺこんと頭を下げる。
「あっ、あの、ありがとうございます!」
「……別に。バランスが悪かったから」
クラロスは気付いているのかいないのか、顔を真っ赤にした晴乃に、表情も変えずにそう言った。
「あの、これ」
笹を見上げていたクラロスに、晴乃はそっと短冊を差し出した。
クラロスは当然、首を傾げる。
「これ、書いていきませんか…?」
「何を?」
渡された物を受け取りつつも、クラロスにはそれが何をするべき物なのか分かっていないようだった。
常連客と言っても、普段のクラロスは様子を見に来るだけで話す事はあまりない。
しかし今日は話題がたくさんあって、どうやら彼も忙しそうではない。
少しだけ堅い、けれど嬉しそうな顔で晴乃は笑い、七夕の事、短冊の事を話し始めた。
まだ書いていない短冊への願い事が、早速叶った、晴乃はそんな気がしていた。

+++++
40分

CrossTune