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タグ: バン

お題:無題

 薄暗い路地裏を早足で歩く姿を、一人の少年は必死の早足で追っていた。
 前を歩く人物が自分のことを置いていくとは思っていなかったし、現に何度か、振り返らずにも歩みを緩め、追いつくのを待ってくれている。それが無性に腹立たしく、嬉しく、だからこそ置いて行かれたくなかったのだ。
 初めのうちはちらちらと人影があったが、今はもうすっかり何の影もない。―――そう思っているのは少年だけだったのだが、周囲にとっても、少年が追い掛ける人物にとっても、大して問題はなかった。
 やがて目の前に背中がぐいと迫る。歩みを止めたのだ。
 少年より頭一つ分と少しは背の高い青年が、軽く振り返って少年のことを見ていた。青年の前方には古びた小さな家。
「ここで待って…」
「俺も行く」
 青年の言葉を遮って、少年はまっすぐに青年を見上げた。バサついた髪に黒い眼帯にと、青年の姿はあまり穏やかなものとは言い難かったが、少年は何も気に留めることなく強い口調で言い放ったのだった。青年は淡々とした表情に、少しだけ困惑を浮かべ、そしてすぐに消した。
「分かった」
 そう言うと、青年は小さな家の古びた扉に手を掛けた。
 扉が開くにつれ、少年の鼻先には嗅いだことのない香りが届くようになる。それが香草や薬品や火薬やその他もろもろの混ざったものであるということを、少年は知らなかった。そして青年が気にしているのかどうかは見えなかったが、少なくとも少年は今、鼻を中心として顔全体を顰めていた。
 扉が開ききると、薄暗い部屋の中が見えるようになり、そして青年の姿が遠ざかる事に気付いた。
 慌てて少年も部屋の中へと足を踏み入れる。
 部屋の中の様子に足を止め、目を留め、そして思考回路が一瞬止まった時には、少年の背中でギシリと扉が閉まっていた。
「いらっしゃい。…珍しい客だね」
 さほど遠くない場所から声が聞こえ目を向けると、青年と向き合った先にはもう一人の姿が見えることに気付く。
 異質な空間にただ一人取り残されたような感覚を覚え、しかしそれが今日初めて感じた感覚ではないことを思い出し、少年はぎゅっと拳を握った。

 聞いてはいけない話を聞いてしまった時。
 見てはいけないものを見てしまった時。
 世界は簡単に崩れてしまうものなのだと身をもって知った。
 周囲にいる全ての人々を恐れるようになり、味方など存在しないのだ。そう、知らされた。
 だからこそ、少年は一人の青年を頼った。
 もし彼にも見放されていたのだとしたら、もう生きている理由など存在しなくなる。
 そう思ってリスクの高い二分の一の賭けに出た。
「悪いけど人買いはやってないよ」
 低い女の声が物騒な言葉を紡いでいた。歩み寄ろうとして出した片足をそのままの形でぴたりと止め、ギシギシと音が鳴りそうな程強ばった視線を声のする方へと向ける。
 少し段差のある空間に置かれた低い机を間に挟み、青年と見知らぬ女が対峙していた。女は床に直に座り、段差があるとはいえ立ったままの長身の青年の頭は女のそれよりも随分と上にあった。
 女の視線がちらりと少年に向けられ、睨め付けるような視線に少年の身体はビクリと震えた。
「あんな小綺麗な子、うちなんかよりもっとイイ値で買ってくれるとこあんだろ?紹介先でも聞きに来た?それとも、うちへの献上品かい」
 舐め回すようにじっとりと視線が絡みつき、少年は居心地の悪さに視線を部屋の隅へと逸らす。その視界に奇妙な動物の足のようなものが入り込み、纏わり付く香りも相まって吐き気が込み上げてくる。
 少年の表情に気付いたのか、女の堪えるような笑い声が聞こえてきた。
「知りたいことがある」
 聞こえた低い声は、女のものではなく聞き慣れたものだった。
 女の言葉も笑い声も全て無視し、少年の様子すら気に掛けず、しばらく黙り込んでいた青年は変わらない表情のままで自らの用件のみを伝える。
「この国の、軍のことについて」
 少年が息を飲むのと、女の笑い声が止まり視線が少しだけ鋭くなるのとは、ほぼ同時だった。
 しかし女が言葉の意図を即座に理解する反面、少年にはその質問の意味と重大性が分かっていなかった。
 数秒、女は青年を睨むように見上げ。
 そして困ったように溜息を吐いてみせる。本当に、本当に面倒臭い。そういった顔で。
「それなりの代金はいるよ。分かってるんだろうけどさ。それに」
 青年から視線を外し、少年を一瞥。次に青年へ視線が戻ってきた時には、呆れた笑いが込められていた。
「口止め料もしっかり頂くからね」
「分かってる」
 青年の言葉はそっけないものだったが、その声音を聞いて、今の所この女は敵ではないのだと、少年はそう思った。

「呆れた子だね」
 まるで最初から分かっていたかのように、女の表情から鋭さが消え去った。顔は見えないが、青年の雰囲気も随分と穏やかになっているような気がする。
 それでもまだこの場所も、人も、何もかもが分からないものだらけであることに変わりはない少年にとっては、まだ緊張を解く訳にはいかなかった。そう思っていた。
「ヨン、ちょっとこの子部屋に入れてやって」
 女が壁に向かって言った。
 誰かを呼んでいる、ということしか分からなかった少年にも、すぐに最低限の事態は読み込めることとなる。
 スッと音もなく壁に隙間が現れ、そしてその奥に暗い空間があるのが見える。え?と思う間もなく、その空間から一人の小さな姿が現れた。
 色白と言うよりも真っ白な肌と、さらりと揺れる薄く淡い黄緑色の髪。この国ではまず見掛けないであろう色の取り合わせを持って現れたのは、少年とも少女とも言えそうな、中性的な雰囲気の子供だった。少年よりもずっとずっと幼く見え、くるりとした空色の瞳がおずおずと少年を見上げていた。
 ヨンと呼ばれたその子供は、一度女を見、次に青年を見、最後に少年を見た。そして迷うことなく少年に向かって頷いた。
「え…っと、」
「ほら、ぐずぐずしなさんな。中入って頭冷やしといで」
 女に言われ、どうしたものかと迷う少年に、青年は声を掛けることはなかった。ただ、じっと少年のことを見ていた。行くなとも、行けとも行っているようには見えず、やはり彼の考えている事は分からなかった。
 青年から目を外し、女を見、そして少年は最後にヨンの事を見た。
 ヨンはまだまっすぐに少年のことを見たままで、壁の隙間は開いたままだ。
 少年は考え、そして決めた。
 物が多く散らばりごちゃついた室内を慎重に歩き、青年の横を通り過ぎる。
 一旦足を止めた少年は、青年のことを見上げもせずに口を開く。
「ちょっと行ってくるね」
 青年は何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。
 段を上り、机の横の狭い空間を通り、その間にヨンは壁の中の空間へと消えていた。中は暗く何も見えなかったが、振り返ることなく少年もそのあとを追った。
 少年が壁の中へ消えると、開いた時と同じようにスッと、音もなく壁は元通りの壁となった。

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50分

R.P.G.