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タグ: 夕弥

お題:喧嘩

 ものすごい勢いで地面が目の前に迫り、そして一瞬世界が暗転した。
 昔から散々、喧嘩の時に目を閉じるなと言われ続けた(そして殴られ続けた)結果、この日も少年は目を閉じることなく頭から地面に激突した。幸い意識は飛ばなかったものの、身を起こし視界が広がった後にもチカチカと眩い星が瞬いているような錯覚を覚えた。
「見事に吹っ飛ぶなぁ、お前」
 ケラケラと笑う姿に、少年はあからさまにイラッとした表情を向ける。しかし頭を揺らした所為で衝撃の残滓が再び顔を出す。視界が大きく揺れ、少年の身体は数秒前と同じようにドサリと倒れ込んだ。
 じんじんと深く響く痛みが思考回路を鈍らせる。少年は今度は起き上がることも考えられずに、浅い呼吸を繰り返しながら空を見上げていた。そうすることしかできなかった。
「情けねえ…なっと」
「うっ」
 そんな少年の耳にとある声が聞こえたその次の瞬間には、声とも言葉とも言えぬくぐもった音が少年の喉、または腹の奥から吐き出された。鈍い衝撃が少年の腹部を襲い、呼吸は数秒止まっていた。
 両手で腹部を押さえ身を捩りながら痛みを堪える少年に、その痛みの原因の声が降ってくる。
「そんなんじゃすぐ死ぬよ」
 太陽を背にした姿は、霞む視界の中でも笑っているのが分かった。ただそれは、単に楽しんでいるだけといった意味のものではないような気がした。
 少年が苛立ちと悔しさとそして涙をも浮かべた目で相手を睨んでいると、より一層笑い声が大きくなる。
「ま、そういう所、嫌いじゃねえけどな」
 ニカッと歯を見せて笑った姿がそのまま少年の脳裏に焼き付き、そうして少年の意識はそこで一旦途切れた。

 遥か遠く、高くに広がる空を見上げていた少年が次に見たのは、やけに近く狭く感じる天井だった。比較対象が果ての分からない空なのだから、狭いのは仕方のない話なのだが。やがてぼやけた天井の形が、段々と鮮明になってくる。
 はっきりと目を開けた時、無意識に少年の口からは大きな溜息が吐き出されていた。
 と、そのタイミングと同時に少年に影が被さる。
「溜息吐くと幸せ逃げるぞ」
「うわあ!」
 耳が声を判断するよりも先に、目が影の正体を見て、気付いた時には口から叫び声が迸り身体は床へと転がっていた。どうやら寝台の上に寝ていたようだったと、落ちたことで気が付いたがそれどころではない。騒がしい音を立て身体の動きは止まったが、少年の頭には先程と同じとまではいかないながらも星がチカチカと舞っている。
「おいおい…」
 そんな少年に向けて呆れた声が頭上から降ってくる。
「人の顔見て大声出すって、どういう頭してんだよ」
 高い位置で結んだ黒の長髪がばさりと少年の顔近くまで落ちてくる。その隙間を縫って少年の視線は見下ろす人物の目を思い切り睨んでいた。
「脅かすんじゃねえよ馬鹿ユヤ!」
 ゴスッと鈍い音を響かせ、少年は叫んだ直後にはもう身を縮めていた。正確に言うならば、腹部を両手で押さえて激痛を堪えていた。
「”母さん”と呼べ、って言ってンだろ」
 見下ろす眼光は鋭く、床を向いている少年にすらその刃物のような視線は刺さるように感じられていた。呻くように「ふざけんじゃねえ…」と呟くも、その言葉は音にはなっていなかった。
 少年の腹部に華麗な蹴りを入れたユヤと呼ばれた女は、両手を腰に当てフンと仁王立ちになる。
「ついこの間まではお母さん、お母さんってうろうろ着いて回ってきてた癖に、随分早い反抗期だな」
「うっせえ…、どこにそんな乱暴な言葉使う母親がいるってんだよ…」
「目の前にいんだろうが、あぁ?」
 転がったまま必死に呟く少年の言葉は、ユヤの前ではなんの効力も持っていなかった。しかしそれも今に始まった話ではない。口喧嘩にしろ実際の喧嘩にしろ、少年がこの母親に勝ったことはないのだ。仕方なしに少年は逆らうことを止め、無抵抗に転がっておくことにした。
 少年も、昔から母親に反抗的だった訳ではない。
 物心着いた頃から母親に女手一つで育てられ、「母親の使う言葉」を覚えて育った。その言葉が普通であれば男が使うようなものだと知ったのは数ヶ月前のこと、そして母親が「わざと」男言葉を使っているのだと知ったのがつい先日のこと。そこに対して感情が爆発した、といったところだ。
 転がる少年を避けて歩み、つい先程まで少年が横になっていた寝台にユヤは座る。
「そんな我が侭やってたら、すぐ死ぬぞ」
「子供に向かって死ねって言うなよ」
「そこまでは言ってねえだろ」
 ベシッとユヤの爪先が少年の腕に当たると、当たった以上の痛みを訴えて少年は悶絶した。そこは先日思い切り打ち身をした場所だった。
「悪ぃ」
「分かっててやってんだろ…」
「まぁな」
 顔を上げずともユヤのニカッとした笑みが思い描かれ、少年は痛みと苛立ちで歯を噛みしめるのだった。

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40分

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