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Short Story

君の望む味

あまい味がした。
食材の違いだとか、そういうのが分かる程グルメな舌は持ち合わせていないけど、蜂蜜とかシロップとか、そういう装飾に使いそうな味ではないことは分かる。でも砂糖だけにしてはもっと複雑そうな気がする。他に甘いもの―――、駄目だ、分からない。
ううんと唸りながら考え込んで、ひといきにごくん。
「甘かったけど、これなんだろう?」
目の前できょとんとしている話し相手にそう言うと、彼はハッとしたように瞬きを二回、繰り返した。本人は隠しているつもりの、驚いた時の癖―――表情だ。一度開いた口を一旦閉じて、少し困ったように顔を背ける。
「貰った、だけだから。知らない」
「えっ、何それ」
そうは言ってみたものの、そうではないことくらい彼の表情を見ていれば分かる。だからそれらしく驚いてはみたけれど、次の行動は想像できないもんだ。
「大体、なんではいって渡しただけですぐ飲むんだよ。その、毒、だったらどうするんだよ」
「え、俺のこと殺そうとしたの!?」
「ちっがうっての、もしもの話だよもしも!そんなホイホイ口に入れてたらいつか本当に殺されるからな!」
それはちょっと怖いな。そう言って笑うと、反省してないと睨まれた。そもそも飲ませてきたのは君の方なのに、理不尽な。手元に残った小さなグラスには、水滴を残してもう何も入っていない。味は甘かったが色は無色、匂いは多分しなかった。無味無臭の毒など、探せばきっとあるだろう。わざわざそれを探して押し付けるほど、俺は憎まれているのだろうか。
そう思うと何か込み上げるものがあって、顔に出ないようにするのに必死だった。きっとその表情を見られたら、彼はまた怒るだろうから。
 
 
 
『チョコレートをそれと分からないように食べさせて、今のは媚薬だったと嘘の種明かしをすると効果がある』
そんな話を興味本位で、ほんの少しだけ試してみたくて、けどそこまでの勇気は持ち合わせていなくて、結局ただの人工甘味料の含まれた水を手渡しただけで、どうしてここまで怯えないといけないんだろうか。
流し台に放置された小さな空のグラスは、もう甘味料の成分すら残っていない。
 
 
 
#君・蜜・毒で文を作ると好みがわかる

アズレ側

続・玉子焼きの話

 大和カンナはぽつんと一人きりで、台所に立っていた。
 男子寮内にある、共同の台所だ。相変わらずここは小さくて、ほとんどお湯を沸かすことにしか使われていない―――と思われている。実際は、料理好きの生徒がやってきては、気紛れに、最低限の道具だけで調理を行っている。それをカンナが知ったのは、二年生に上がる少し前のことだ。最初にこの場所に足を踏み入れて以来、一度も覗いたことはなかった。
 カンナは手にしたままだった買い物袋を作業台に置き、慎重に中身を取り出した。袋の中にあったのは、四個入りパックの生玉子。それに粉末のかつおだし。もしかしたらこれかもしれない、という直感だけでカゴに入れたものだから、必要なのは玉子だけだったかもしれない。空っぽになったビニール袋は、微かな風にカサカサと音を立てている。
 袋をざっくり四つ折りにして、ひとまず玉子のパックを上に置く。棚から大小のボウルを二つ、四角いフライパンを一つ、それに菜箸を取り出して作業台に並べる。少し迷ってフライ返しも取り出した。持ち手部分が少し変形しているが、使う分には問題ないだろう。四角いフライパンは、先日他の人が料理をしている様子を眺めていて知ったものだ。確かにこれなら四角い玉子焼きが作れると、カンナは感動を覚えたのだ。
 玉子焼き。自分では決して作れないだろうと思っていた料理。今日の朝目が覚める直前に、熱々の玉子焼きを頬張る夢を見てしまった。味どころか香りやその熱さまではっきり覚えていて、そうして目の前には―――………それは、思い出せなかった。
 カツン、と、カンナは玉子を一つ、大きい方のボウルの端にぶつけた。刃物で肉を裂くよりも簡単に、あっさりと手の中へと伝わる衝撃に、ドキリとする。おそるおそる覗き込めば、白い玉子の殻にはまっすぐ、そしてぐしゃぐしゃにヒビが入っている。薄く白身は滲み出しているが、幸いまだ、溢れだしてはいなかった。ほっとし、ゆっくりヒビに両手の親指を添えて、剥がれ落ちそうな殻に注意を払って、静かにヒビの隙間を開いた。
 誰かに見られていたら、なんの化学実験だと揶揄されそうなほど真剣な目と手付きだっただろう。実際、カンナにとってはそれくらいの集中力を要するものだったのだ。何しろ、殻一枚ボウルの中に落ちようものなら、その玉子はもう使い物にはならないと思っていたからだ。集中力が幸いして、ボタン、ボタンと三個の玉子が割り入れられるまで、殻は一枚も玉子の中身に混じることはなかった。流し台の片隅に、すっかり軽くなった殻がころりと転がる。ボウルの中には黄身が滲み出した玉子がふたつ分と、思いの外綺麗に形を留めている玉子がひとつ分。
 これで全ての工程が終わったと言わんばかりに盛大な息を吐き出し、カンナはがっくりと肩を落として俯いた。当然、終わるどころかこれが始まりである。それはカンナ自身よく分かっている。しかしこの工程に一体どれだけ時間が掛かったのか、時計を見るのも躊躇われてしまった。早くしなければ、誰か来てしまいそうだというのに。
 小さい方のボウルを大きいボウルの隣に置き、カンナはしばらくそれを睨み付けた。正確には考え込んでいるのだが、真剣な目付きではボウルと敵対しているように見られても仕方がない。しかしすぐに、まるで根負けしたかのように目を逸らしてから、カンナは砂糖の入った袋を手に取った。計量スプーンというものが存在していることは知っているが、残念ながらそれを使ってどれくらいの量を量ればいいのかは分からなかった。
 粉末のかつおだしは小袋入りのものだが、これの全てを使うわけではないだろう。裏面に書いてある豚汁の作り方を見ながら、そんな勝手な想像をする。豚汁だったらこの通りに作ればいいのかとふむふむ頷き、おそらくすぐに頭の中からは消えてしまうであろうレシピを斜め読みした。600mlの水またはお湯に小袋半分を入れて下さい、だそうだ。四人分、きっと縁のない数字。ああでも、覚えているのは、五人か―――………パタリと手を止めた途端震えだした指先を無視しようと、カンナは小袋の端を破りきった。
 パラパラと数振りの粉末だしをボウルに入れ、小さいスプーンで二杯すくった砂糖も足す。多すぎない、はずだ。多分、きっと。スプーンに付いた砂糖を少し舐め取ってみても、ただ甘いだけだった。それを確認してから、小さいボウルの中身をそっと大きいボウルの中へと流し込む。
 菜箸を手に取り、黄身を潰すようにぐちゃぐちゃにボウルの中身を掻き混ぜる。混ぜて、混ぜて、混ぜて、全体が黄色になっていくのをまるで遠くから傍観しているように眺める。じゃりじゃりとした音がだんだん小さくなっていき、まばらに浮かんでいた茶色の粉も姿が黄色に紛れていく。白身はともかく全体が均一に混ざったように見えて、カンナはもう一度深く息を吐き出した。これでようやくスタートラインだった。
「これを、焼かないと」
 キッと睨み付けた先は四角いフライパンだ。あとはこれにボウルの中身を流し込んで、焼いて、ひっくり返して、丸めて、そうしたら出来上がるはずだ。頭の中で工程を想像して、カンナは意を決してフライパンに手を伸ばした―――

 結果は惨敗だ。敗因は、分からない。
 玉子を流し込んで火を付けて、それから端の方からフライ返しでひっくり返せば、くるくると玉子は丸まっていくのだと思っていた。しかし現実は、ゆるゆると波立つ固まっていない玉子が掻き分けても掻き分けても流れ出してきて、ひっくり返そうと差し込んだフライ返しは、滑って何も持ち上げることができなかった。その内じりじりと香ばしい臭いが鼻に届くようになり、やがて香ばしいなどと脳天気に言っていられる場合でもなくなり、どろどろだと思っていた上部はいつの間にか固まってしまっていた。
 フライパンと玉子の隙間から煙のようなものが見えた気がして、カンナは降参してコンロの火を消した。
 コンロに置き去りにされたフライパンを呆然と見つめ、カンナは立ちすくんでいた。触れてはいけないと主張するかのような熱を発するフライパンに、手を伸ばすこともできなかった。表面上だけは、玉子焼きも一緒に置き去りにされたように見えていた。
 じりじりじりという音がしなくなったフライパンにもう一度フライ返しを差し込むと、今度はガリッと硬いものに当たるような感触を覚える。明らかに自分の知っている玉子焼きとは違う感触に眉を顰め、カンナは暫定・玉子焼きを力任せに掬い上げた。
 持ち上がったのは真っ黒になった裏面を持つ、黄色かったはずの物体だった。
「………やっぱり、無理だよね」
 吐き出した声は少し震えていて、笑おうとした顔は微かに歪んでいた。手に握ったままだったフライ返しをぎゅっと握り込んで、カンナは数秒の間俯いていた。フライパンがずしりと重たくなったような気がした。
 『自分の好きな』玉子焼きが食べたい、それだけだというのに。
 作り方を聞けなかった、聞こうと思い付く前に聞くことができなくなってしまった。そう気付いたのは、不意に玉子焼きが食べたいと思ってしまった、些細な夢のせいだ。自分では作れないと思って諦めたつもりだったというのに、またこうして夢を見てしまった。
 フライパンに焦げ付いた玉子だったものを無理矢理剥がし取り、玉子の殻と一緒にビニール袋に放り込む。焦げていない部分を少しつまんで口に入れてみれば、甘じょっぱい玉子の味が口の中に広がった。想像していたものとは違う味だった。
 ボウルと菜箸を洗い、フライパンとフライ返しは水に浸し、余っていた玉子は「ご自由にお使い下さい」というメモ書きと一緒に冷蔵庫の中へと入れた。粉末だしにも同じことを書いたメモを貼り付け、棚の見える位置に置いた。きっと誰かが豚汁か何かを作ってくれるだろう。
 最後に残った、口を結んだビニール袋に視線を向けて、カンナは小さく息を飲んだ。そうして、首を振る。
「ごめんなさい………」
 誰に宛てているのかも分からない言葉が、ぽつりと零れ落ちた。

がくせん!

Re.

E473.10.04.

 生まれた時のことなんてもちろん、覚えているわけがなかった。
 ああだった、こうだったと聞かされて、確かにそうだった、と勝手に記憶されているだけで。
 生まれ落ちた時、俺はきょとんとした目で放り出された世界を見つめ、泣くことも分からないまま、泣きそうな二つの顔を見つめていた。理由は、その時には分からなかった。
 数分間のまるで深海にでも閉じ込められたかのような静寂の後、俺は思い出したように大声で泣き始めた。泣きそうだった顔からも暗いものが消えて、それでも泣きそうで、泣きだしたことは変わらなかった。
 そこからやっと、俺の世界が始まった。
 数年間は、何の変哲もない暮らしだったはずだ。木々に囲まれてぽつんと建った家でのんびりと自由に育って。覚えていないことも、気付かなかったことも山程あるだろうが、その辺りはもう分からない。
 変わったのは、離れたところに住んでいたという祖母が死んだことと、妹ができたこと。その時からだった。

「生まれるべきじゃなかった。ってことは理解してる。じゃなきゃ、こんな歪んだことにはなってない」
 笑ってそう言ったつもりだったけれど、笑えていたんだろうか。随分と長く拘束されてしまっているけども、俺にとっては充分、笑い話だった。顔を上げれば、困った顔で口を開きもせずに瞳を揺らす姿が見える。あーこれは一応言葉を探してる顔だと分かるけどそんな顔をさせたくて言ったわけじゃなかった。
「俺がいなくてもこうなった事実は変わらない。いても変わらない。つまり必要はなかったってことだ」
 笑おうとした時に、あからさまに不機嫌に顔が顰められたのが見えた。表情への反論は間に合わなくて、口が開かれる。
「少なくとも俺は、お前に人生を変えられている。迅がいなければ、俺が変わっている」
 まあ、予想通りの返しかな。予想はしてたのにいざ聞くと小っ恥ずかしいにも程がある。
「その時は他の誰かが変えてくれたよ」
「そうだとしても、迅夜という人物に助けられたという事実は変わるだろう」
 居心地悪いったらありゃしない。それにこの話を長く続けるつもりなんてなかった。なんでそんな恥ずかしいこと言えちゃうかな、なんて思ってはみたけれど、多分こいつにそんなこと言っても無意味だと分かっていた。ふわふわと消え入りそうな中身だったくせに、俺と同じくらいに負けず嫌いで頑固だ。こっちが有利だと分かっている口喧嘩以外は正直面倒臭くてやりたくない。
「サイだって祝われるの嫌いなくせに、他人にはよく言うよね」
 溜息吐いて降参だと言わんばかりに手を上げれば、「今は気にならなくなった」だなんて返された。その真顔気に食わない。何歩も後ろにいると思ってたのに、いつの間にか何歩も先を歩いてる。止まっていた足を動かし始めたこいつと、止めてしまった俺、ってことか。なんかそれは、やだな。
「恥ずかしいついでに一回だけ言うが、迅がいてくれて俺は助かった。生まれ」
「やめ!!やめる!!それほんっとに恥ずかしいやつ!!!絶対やめて!」
 言い掛けた言葉だけで何言おうか分かっちゃうからやめたところで意味ないんだけど、ないけどな。音で聞いて堪るかって思ったらがむしゃらに叫んでしまってた。びっくりするよ何言ってんのほんと。
「…分かった」
「調子狂うってほんと…馬鹿なの?」
「馬鹿かもな」
 ほんとやめて欲しい、そういうの。心拍数上がりすぎだよ。ばーか。俺もだけど。

「どっちにしろ、もうしばらくは生きてなきゃなんないし、その後のことは分かんないし、…サイが心配するようなことにはなんないよ」
 いくらか待って落ち着いてきた頃に、そう笑って言ってやった。今度は笑えているはずだと、ちゃんと確信があった。肩の力を抜いて表情を緩めた顔が見えたから、間違いないはずだ。
 もうしばらくがいつまでなのかは分からなかった。一生あっても足りないのかもしれない。けどそれでも、そうだとしても、やらなければいけないことだった。気は遠くはならない。今の所は。
「その調子で」
「んー」
 吹っ切れたわけじゃない。まだ分からない。染みついた記憶の真偽はもう追う術がなくて覆すことなんてできない。ただ、それもまあ悪くはないもんだと、ようやく思い始めてきたところだった。

E495.10.04.

CrossTune

ぬくもりをこのてに

 学校からの帰り道だった。
 16時半。まだ明るい青空の下、ゆっくりと傾きだしている太陽の照らす道を流衣は一人で歩いていた。高校の周辺の車通りは少なく、時折通る車が過ぎ去ってしまえばあとは止まった空気が漂うだけ。授業が終了して間もない時間ではあるが、もうしばらくしたら屋外で活動する部活動の活気に溢れた声が響き渡るのだろう。校庭にはちらほらと人影が見えている。
 流衣は、これからいつも通り、幼なじみが入院している病院へと向かう。学校を出たのがこの時間であれば、病室で一時間は話をしていられる。昨日は委員会の仕事で向かうのが遅れ、15分しか話ができなかった。明日は友人が買い物に行きたいと言っていたから、病院に着くのが面会時間ギリギリになってしまうかもしれない。そう考えながら歩き慣れた道を進む。これがもうずっと長いこと続けている日課であり、生活なのだ。
 歩き続け、やがて右手に黒っぽく光を遮り、所々白く光を反射させる空間が見えてくる。木々や金網や植え込みに囲まれ、その周囲を路地が走る小さな公園だった。各方面に向かう人々が四方を通り、時間によっては子供の声が響きわたったり、老人がゆったりと歩いていたり、きゃんきゃんと吠える散歩中の犬がいたりする。小さいながらも人々の生活に自然と染み着いた場所だった。流衣の日常の通り道の中にも、もちろんその場所はあった。
 何の声もしない公園には、まだ誰の人影もないようだった。小学生くらいならもうとっくに学校が終わり、そしてまだ帰る時間にもなっていない頃合いな気もする。誰もいないのも珍しい、けれど遊び場はなにもここだけではない。公園にあるのはベンチとブランコ、砂場と滑り台。あとは平坦な何もない敷地。野球やサッカーなどは当然狭くてできないし、ベンチは四人集まれば満員だ。公園の入り口の前を通り過ぎるときに中を覗くと、砂場には誰かが遊んだ形跡とバケツやシャベルが置いてけぼり。おそらく子供たちが遊んでいて、気まぐれに別の場所へと出かけたのだろう。遊び道具がこのまま忘れられませんようにと、流衣は姿も分からぬ子供たちへと願った。
 そんなことを考えながら歩いていた流衣は、公園をもう少しで通りすぎようという頃になって初めて、いないと思い込んでいた人影があることに気がついた。入り口から向かって左側の奥、ブランコが並んだ場所。漕ぐ音が聞こえないから使われていないと思っていたブランコは、どうやらベンチ代わりとなっていたようで。
「宮菜先生…?」
 思わず流衣は足を止めた。
 植え込みの隙間から見えたのは、学校でよく見知った教師の端正な顔だった。彼が受け持つクラスは今日は授業数が少なかっただろうか。放課後のまだ早いこの時間に、教師が学校外にいるというのも珍しいと感じた。ましてやブランコに腰掛けているだなんて、一体何があったのかと思わざるを得ない。そうして流衣がそっと植え込みに近づくと、彼のすぐ隣にもう一人分の影が見えた。ブランコの後方、宮菜の斜め後ろにたつ姿はこちらに背を向けていて顔は見えない。が、小柄で学ランという背格好から、同じ学校の生徒だと思えた。
 説教…?教師と生徒の学外でのやりとりなどそれくらいしか流衣には想像ができない。わざわざ人目に付かないところで怒るだなんて、あの生徒は一体何をやらかしたのか。それにしても宮菜の方が座っているというのも不思議な光景だと、流衣がそう思ったときだった。
 不意に動いたのは学ラン姿の彼の方で。屈み込み、宮菜に影が重なったのが何を意味しているのか、初め流衣には分からなかった。耳打ちでもしているのだろうかと思った。それがそうではないと分かったのは、身体を起こした学ラン姿の奥で宮菜が困ったような笑みを浮かべ、直後ハッと目を見開いたからだった。ちょうど、流衣と目が合ったのだ。
 あからさまに動揺している宮菜に気付いた学ラン姿が、ゆっくりと振り返る。慌てて宮菜が引き止めるも既に遅く、振り返った顔はこれまた流衣の見知った顔だった。同じ学校の、同じ学年の、男子生徒。よく言えばマイペース、悪く言えば素行不良。学校内で姿を見かけることはそういえばあまり多くない。桐谷紅葉の印象は、そういったものだった。
 宮菜とは真逆に全く冷静さを欠かずに佇む彼は、じっと流衣を見たのちすっと左手の人差し指を口元に当てた。言葉はない、ただそれだけの動作。すぐさま立ち去ろうにも何か声を掛けた方がいいのかと迷っていた流衣は、その彼の様子を見て、言葉を感じ取り、小さく頷いた。そうして、同じように右手をそっと自分の口元に当てた。
 たぶん、これで大丈夫だ。
 気だるげな瞳が僅かに細められたような気がして、その表情が頭から離れなくなるような気がして、流衣はその場から駆け出した。

 公園で見かけた光景がまだ頭から離れず、翔のいる病室に入ってからも流衣はどこかぼんやりとしたままだった。
「どうかしたの?」
 そう翔に訊ねられても、流衣には答えを話すことができなかった。
 あのとき、二人の影が重なったとき、あの二人は。そう思い出すたびに流衣の中で何かが爆発しそうになっていた。翔に対してすら秘密にするのは、桐谷との約束があるからではない。表現する言葉が分からなかったのだ。
「流衣、疲れてるなら早く帰った方がいいんじゃ」
 なんでもない、としか言えていない流衣を見かねて翔が切り出すと慌てて流衣は大きく首を振った。そんなんじゃない、とだけ呟いて、けれどまた黙り込んでしまう。打つ手のなくなった翔は、困ったように窓の外に視線を向けた。陽が落ちかけている。もうすぐいつも通りの流衣が帰る時間。今日は過ごした時間は長かったけれど交わした言葉はとても少なかった。
 そっと顔を上げた流衣の視界に、翔の横顔が映る。同い年の、小柄で色白で華奢な少年。大事で大切で、愛しくて堪らない存在。公園での光景が脳裏によぎり、思わず息が止まる。

「翔くん」
 やっと出てきた声が、震えていたらどうしようかと思った。堪えて、堪えて、「いつも通り」の笑顔を思い出す。きっと大丈夫だ。
「何?」
 振り返った翔の顔も、いつも通りのものだった。深い詮索はせずに、流衣の言葉を待ってくれている。ようやく感情の整理ができて呼びかけられたときには、外は随分と暗くなっていた。陽が落ちきるまでもう少し。
「あ、あのね、その、―――手、つないでも、いい?」
 紡ぐにつれて斜めに落ちていく視線と、すぼんでいく声。交わした視線が逸れていき、流衣の目はすっかり床を見ていた。ここまできてようやく、翔は流衣に「何か」があったことを確信した。それが何であるかは分からなくとも、何かきっと、そういう方向性の何かが。
「うん、いいよ」
 翔の返事に、流衣は顔を上げる。にっこりと笑った翔の顔を見て、自然と肩の力が抜けていく。イスをがたりと引いてベッド脇に寄り、空っぽの翔の手を握った。体温の低さは変わらない。流衣の手の方がずっとずっと温かかった。それでも感じるのは、柔らかいぬくもり。
「変なこと言ってごめんね。ありがとう」
「変じゃないよ」
 誤魔化すように笑うと、それを見透かしたように、それでいて包み込むように笑い返される。心地よくて、あたたかな時間。
 軽く握り返してくる翔の手を、時間ギリギリまで離したくはなかった。

Chestnut

七夕当日の話

「てかさ、昨日っから何読んでんの?」
窓を叩く雨音は一向に弱まる気配を見せず、相変わらず昼間の空は暗いままだった。
ごろんとベッドに転がった迅夜は、隣のベッドに腰掛け視線を落としている左翊に問い掛けた。
彼はまだ半分にも到達していない本を読んでいる最中である。
「市場で見付けた古本だ。内容を見ないで買ったら、俺にはよく分からない」
「でも読んでんだ」
目を離さずにいるところを見るに、内容が嫌いなわけではないらしい。が、好きでもないらしい。
珍しいの、なんて呟きながら、左翊の様子を観察するのも飽きたのか迅夜はまたごろんと寝返りを打った。
視線の先にある窓の外。曇った窓ガラスからはぼんやりとした景色しか見えないが、ひっきりなしに新しい水滴がぶつかっては流れていく。パラパラという音が心地良いような、耳障りのような。無音の室内に響き渡るせいで、賑やかしい音も却って静かだと錯覚する。
「七夕の本?」
ぽつんと迅夜が訊ねた。
昨日の左翊の言葉を思い返してだろう。暇潰しなのかなんなのか、どうやら黙り込んだまま時間を使えないようである迅夜は、左翊の返事も待たずに更に口を開く。
「サイちょっとロマンチストになった?」
「そんなわけないだろ」
間髪入れずに一蹴。左翊もまた、本を読んでいるようでその世界にのめりこんではいないらしい。パラパラと目を滑らす程度。
「七夕は、少し話題に出てきただけだ」
とうとう飽きたのか、左翊は本をパタンと閉じてしまった。そして手元に放ると、窓の外に視線を向ける。
「当日に降る雨は、オリヒメに会えなかったヒコボシの涙なんだと」
似合わない。分かってる。ぼそりとしたやり取りの後、ふーんと迅夜は声に出していた。
「見栄張って綺麗にして、それで会えなくて泣いちゃうんだ」
転がり、天井に目を向けた迅夜は、その天井の微かな模様を眺めながら呟く。
「やっぱ自業自得だよね」
「夢がないな」
「えっ、サイあるの?!」
「ない」
思わずがばりと起き上がった迅夜に、左翊は冷たく静かな視線を投げた。
ちぇーっとつまらなさそうに口を尖らせ、しかしすぐにふっと吹き出していた。

「…で、結局何の本だったの?途中で止めちゃってるし」
古い本の表紙はすっかり色褪せておりタイトルも読み取れない。何が気になって手に取ったのかという問いにも答えが得られないまま、今度もまた左翊からの答えが期待できないようだった。

―――『遠くの人に伝える言葉』

CrossTune