Encounter

22
 ルキとシュンとシズキ。3人が共に暮らし始めてから、2年が経った。季節は秋。夏の間に咲き誇っていた鮮やかは、その色を変え、やがて散っていくそんな頃。幸せの片隅に感じていた一抹の不安は、とうとう現実のものとなってしまった。不安をただの予想で終わらせたかったのに。そう思っていたルキの願いは、叶わなかった。





 シンとした部屋の中。まるでこのまま押し潰されるのではと感じるまでに積み上げられた資料を、彼は一心不乱に読み漁っていた。分厚い本を開いては閉じ、幾枚にも束ねられた紙の集合体を取り出しては、その上に別の本が重なっていく。日々がその繰り返しだった。自分の研究目的が当初と比べて大きく逸れてしまっている事にも気付かず、ただ日付ばかりが過ぎていた。
 遠目から見れば美しいその場所は、足を踏み入れた瞬間に泥沼と化す。



 ルキは違和感を感じていた。
 最近、シズキとシュンの姿を見掛ける時間が極端に減った。朝早くに出掛けたシュンが戻ってくるのは、陽が沈んだかなり後。時には真夜中になる事もあった。出て行く時間はあまり変わっていないが、戻ってくる時間は日を追うごとに遅くなっていく。そしてそれと同じ程度に、シズキが部屋から出てくる時間も減っていた。初めの頃は、自室に篭もりっぱなしと言っても、最低食事の時間には部屋から出てきていた。だがしかし、最近では1日中部屋から出てこない事の方が多くなっている。今日も含めれば、もう丸4日は彼の姿を見ていない。相変わらず彼が何を調べているのかは分からないし、その事が一体どれくらい彼にとって大事な事なのかも分からない。シュンの事だってそうだった。彼が何処へ行き、何をしたのかという話は、一度も聞いた事がなかった。
 彼らとの距離が広がっている気がして、近いと思っていた距離が勘違いに思えてきそうで、ルキは無性に不安に駆られた。





 毎朝早くに外へ出て、散歩と言うには長すぎる距離を歩く。それがシュンの日課だった。初めの頃は勿論、シズキに言われた通りに“誓約”を立て“楔”を強くする為だった。だがここ最近では、すっかりその理由が変わってしまった。
 海岸の砂浜に仰向きに倒れ込み、空を見上げる。あの時彼女もこうやって、寝転んでいた。その瞳に映っていたものはなんだったのだろうと思いを巡らせ、結論は出せずに彼は目を閉じた。波の音が近付き遠ざかり、風に連れられた砂が身に降り掛かるのも気にせず、シュンは掌をギュッと握り締める。
 毎日をこうやって過ごす事を、退屈と感じた事はない。広い空を見上げるだけで、それだけで解放された気分を感じる事が出来た。人の気配も何もないこの場に感じるのは、無。風の音や波の音は、有るのに無いように感じるのだ。
 時折思うのは、空の果てに終わりはあるのか、という事。あるのならば、それはどんな所なのだろう、と。しかしその答えは、得られなくても良いと思っている。決まっている本当の答えを見つけるよりも、不可思議な架空の答えを創造する方が彼は好きだった。
 彼は、逃げていた。
 目の前の現実を受け入れる事を拒絶し、ひたすらに逃げて。現実から逃げ切る事は出来ないと分かっているのに、毎日毎日、外へと出る。抱く不安が全て幻想であると思いこむ為に。不安の元凶である、彼の姿を見ないようにする為に。
 彼がやろうとしていた事も、彼が“今”目指しているものも、知っている。自分の身に宿る力というものがどんなモノなのかという事も、理解している。全部分かっているのに、この現状は止める事が出来ないのだ。彼自身が、気付かねばならない事だから。自分で気付いて、自分で止めなければ意味を成さない。同じ事を繰り返す。
 そう、“聞いた”。何者かも分からぬ声は、数ヶ月前からシュンの頭にずっと響いていた。それが自分に宿っているという力の声だと知ったのは、つい最近の事である。そしてその声から、シズキが求めているものを聞いたのもつい最近。その声は、まだ手遅れではないと言った。彼が気付きさえすればいい、と。けれどその言葉は気休めにもならなかった。シズキがどんどんと遠くへと行ってしまう事は、目に見えて明らかだったから。
 負に飲み込まれていく彼の姿を見ている事が出来なくて、シュンはいつも逃げていた。

 あの少女を連れてきたのは間違いだったのかもしれない、と。今更になって思う。初めて彼女と出会った時―――正確には彼女と誓約を交わそうと思った時、理由は分からないが、彼女が居れば自分たちの歪な関係図が良い方へと動くんじゃないかと、そう思った。それまでのシュンとシズキは、力の暴走を恐れ、一歩引いた所で付き合っていたと言っても過言ではなかった。双方がどこか遠慮しがちに接していた2人の関係図は、けれどルキがやってくる事で変わったのだ。毎日顔を合わせるようになり、会話も格段に増えた。理由を尋ねる事も増えた。その点は凄く良かった事だと、思っている。思っているが、大切なものが増えたという事は、その分失いたくないものも増えるという事。彼女の事は、巻き込みたくなかった。
 闇に堕ちるのは、自分たち2人だけで十分だ。



 雲行きが変わった。
 澄み切った蒼天は、次々と流れてくる暗雲によって隠され、傾き掛けた秋陽は、その光を鈍らせる。気のせいかもしれないが、風も強くなってきた気がする。見上げていた空から蒼が消えた頃、ようやくシュンは立ち上がった。重い足取りで、帰路につく。何も起きなければいいのに。そう願う彼の頭の中で、悲しげな声が響いた。





 「どうして―――?」

 最初に聞こえたのは彼女の声で、最初に見えた姿も彼女だった。扉を開けた先に佇む姿は、後ろ姿でも困惑が見て取れた。間に合わなかったんだ、そう声には出さずにシュンは呟いた。あまりの冷静さに、自分でも驚く。それでも気が乱れる事はなかった。諦めているのだろうか。やっぱりダメだった、という感情の方が強かった。

 1度だけ覗いた事のあるシズキの部屋は、膨大な数の本によって埋め尽くされ、1つだけある小さな窓もその役割を全く果たしていなかった。そんな部屋に数日も閉じ籠もっていては、いつか身体を壊してしまう。無理矢理にでも引っ張り出して、陽の光に当てて、そしてご飯を一緒に食べよう。そう思ってルキは、数回扉をノックした後にその扉の取っ手へと手を掛けた。けれど扉を開いた途端に吹き荒んだ風によって、彼女の身はよろけて床へと倒れ込む。窓のない部屋に、突風の吹く要因はないはずだった。何が起きたのかも分からずに、呆然と部屋の中を彼女は眺める。ふっと立ち上がった影は、紛れもなくシズキのもの。だが、ルキの中にあった微かな違和感は、彼の姿を見た途端に大きく膨れあがった。

 シュンが小屋の中へと足を踏み入れた時、部屋の中は乱れに乱れ、まるで嵐が過ぎ去ったかのように荒れていた。シズキの部屋から吹き抜けた突風の残骸はまだ残り、床に落ちた紙を巻き上げる。発行日も入手元も分からないような古びた本が、バラバラになって散らばった。書かれている文字を読み取れば、全ての資料の元は歴史書だったと気付く。真っ直ぐにシズキへと視線を送る、ルキの肩が震えていた。

「シュン?おかえり」

 扉を開けたまま佇むシュンに気付き、シズキの方から声を掛ける。別段驚くわけでもなく、シュンは静かにシズキを見やる。怖々と振り返ってくるのは、今にも壊れてしまいそうな表情のルキだった。シュンの胸奥で、ギュッと何かが痛む。やっぱり彼女を巻き込みたくなかった。あんな表情を見たくなかった―――させたくなかった。けれどもう、手遅れ。今から何が起きようと、巻き込まずとも、彼女を悲しませる事に変わりはない。そう、分かってしまいたくなかった。
 パラパラと音がする。外はいつの間にか雨模様で、細かい雨粒が屋根を叩く。すっかり厚い雲に覆われてしまった空に、蒼の気配は微塵もない。止む気配を見せない雨を、ルキもシュンも自分たちに重ねた。
 シズキの笑みを見て不安に思う事など、今まで一度もなかった。安心感しか抱く事の無かったその笑みを、今は見ただけで泣きたくなる。表情自体はいつもと変わらないというのに、感じる雰囲気はまるで違う。あぁ、目が違うんだと、ルキはふと気付く。目に宿る光は、今までには無かった冷たさをはらんでいた。

「ねえ。僕が調べていた事、やっと分かったんだ。君も、気になっているだろう?これで全部解決するよ」

 シュンに―――その場には彼しか居ないかのように、シズキはシュンに語りかける。視界に入っているはずのルキは、彼の瞳には映っていない。察したルキは、息を止めた。2人の様子を、ただ眺めている事しか出来なくて。ようやく収まった風は、最後の1枚の紙切れを床へと落とす。ふわりと着地したのを最後に、辺りから音が消えた。
 シズキの視線は、冷たかった。声と、表情と。それらとは一致しない視線と雰囲気。いつもの彼と、尋常ではない彼の混ざった、―――眺めている事が出来なくなる程に悲しい、姿。シュンは彼に、視線を向けた。

「本当に、解決するの?」
「うん。するよ」

 彼の言葉の奥にある根拠は読み取れない。今彼が何を考えているのかも。それでも彼に着いて行くと決めたから、シュンには迷いはなかった。そう思いこんだ。

「待って!ねぇ、待ってよ!シズキ、どうしちゃったの!?おかしいよ…絶対今のアンタ、おかしいって。シュンも、なんで何も言わないの?!」

 ルキの声が、耳に刺さる。聞きたいのに聞きたくない。答えたいのに、答えられない。何を言っても、どちらかを―――もしくは両方を、失いそうで。
 初めて出会ったあの日以来、ルキは泣く事はなかった。だがあの日の、あの温かすぎた涙は、今はすっかり冷え切って。ルキ本人にも、どうして自分が泣いているのかは分からなかった。何が起きているのかも分からないのだから、仕方はない。ただ無性に怖くて、怖くて。そう思うだけであとからあとから涙は零れてくるのだった。
 困惑と諦めを浮かべたシュンは、ルキを一瞥してその視線を外す。その表情を見て、ルキは彼を引き戻す勢いで開口し、しかし叫べなかった。刺さる視線が、ルキを見つめていたから。
 答えたのは、シズキだった。

「おかしくなんかないよ?これが正常。だから、邪魔しないで?」

 感情も何も宿らない表情に、瞳に、温もりは一切感じられなかった。

「…っ……邪…魔?」
「そう。邪魔。聞こえなかった?」

 ガラリと大きな音を立てて、崩れた。

 積み上げるのには時間が掛かる石も、崩れる時はあっという間。そう高くはなかったけれど、確かに存在していた形。それが無形となる。ルキはぺたりと床に座り込み、しばし見上げていた視線をかたんと落としてしまった。ぽたんと、一雫が落ちる。

 限界だ、見たくない。これ以上、壊したくない。

 固く結んだ口を緩め、強く握り締めた拳を開く。少女と青年のやり取りを見つめながら、シュンは覚悟を決めた。どちらも守りたいから。どちらが大切かだなんて二者択一、選べるわけがない。自分が道を選ぶ事で、きっとこの場は治まるから。自分が痛みを負えば、傷付くのは自分だけで済むはずなんだから。涙を浮かべる少女と、笑みを浮かべる青年と。2人を交互に見やり、そして一歩足を進めた。

「シズキ」

 彼の方へ。
 シュンの声に感情は込められず、掠れたような弱い声に彼自身が驚いていた。思っていたよりも、怖がっているのかもしれない。失う事を、壊す事を。ゆるりと顔を上げた少女と目が合いそうになり、慌てて逸らす。今目を合わせたらきっと、また迷う。迷いたくはないと思うのは、結局自分の事を傷付けたくないのだろうか。ぼんやりと考える事すらも自分の事で、嫌気が差した。少女の事も、彼の事も、本当は何も考えたくない。けれどそれでは進まない。

「俺は、何をすればいい?」
「っ、シュン!?なんで…ッ」

 叫んでも振り返らない蒼の彼への言葉は、続かなかった。ルキはスカートごと拳を強く握り締め、必死に堪えようとした。けれど生憎、それくらいの事で治まるような、そんな簡単な感情は持ち合わせていなかった。視線だけはシュンへと向けたまま、シズキへと歩みを向ける彼へと向けたまま、ルキはその様子を見ているだけだった。
 一歩引いた立ち位置で、シュンはシズキと対峙する。微笑む彼の表情に、現実味を感じない。嘘にまみれた偽りの表情は、手を伸ばしてもそう易々と剥がせるモノではないと気付く。深い底なし沼に堕ちた彼を、引き上げる手段はあるのだろうか。少しだけ考えて、そして意識を後方へと向けた。視線は前方に向けたまま。

「シズキは、大切な人だから。恩もたくさんあるし、裏切りたくはない。彼が堕ちるのなら、俺も一緒にいこうって、ずっと決めてたんだ」
「どういう……意味…?」

 微かな声には理解不能の色が混ざっている。ルキの知る“状況”だけでは、今の彼の言葉をどこかへと繋げる事は出来ない。「大切」の意味も、「恩」の意味も分かる。分からないのはその先、裏切るも堕ちるも意味が通らない。いくって、一体どこへ………?
 ルキの動揺を読み取ったのか、シュンは顔を背ける。彼が本心から望んだ結果、と言うわけではないことだけは明白だった。問いただす、事が出来ない。

「シュンはね、神なんだよ」
「………え…?」

 蒼の少年の代わりに答えたのは、今はもう優しさの欠片も見出すことが出来ない青年。変わらず微笑みを浮かべているのに、もう彼の言葉1つ1つが偽りに見えてしまう。ルキは訝しげに、しかし弱々と彼へと顔を向ける。彼は壁に背を預け、両腕を組みながら視線だけをこちらへと投げていた。

「この世界を創りし神、始祖のフェイゼニス。その力が、生まれつき彼には宿っている。だから彼は膨大な力を持っていたんだよ。……これがその証拠」

 すっと壁から離れ、シズキは静かにシュンへと近付く。伸ばした右手がシュンの右目を隠す包帯へ触れると、シュンは無意識に両目を閉じた。なにもみたくない。彼が自分の方向を向いて、自分以外のベツモノを見ている姿なんて、見たくない。けれど抗う手段はないのだ。自分で手に入れる事を、放棄してしまったから。

「……!」

 観念したかのように開いたシュンの瞳は、黄金色だった。
 普段見慣れている左目は、いつもと何ら変わらない暗緑色。だが、長い事包帯で隠されていた右目は、透き通るような黄金色。陽の差さないこの部屋でも輝いていると感じるような、そんな色。俯く彼の長い睫が、両の瞳を翳らせた。
 この世界では、生まれた場所によって瞳の色が異なっている。リュート大陸で生まれれば、黒か、碧か、緑か紫か。他の大陸でだって色は変わる。しかしどうやらそれは人間だけの特異な現象らしい。人間以外の多くの種族のその色は、遺伝で決定する、と。その中で、多種族含め誰しも持ち得ない色。正確には、持っている事を確認されていない色。それが「黄金色」だった。そして、創世神話に出てくる神々の瞳は黄金色なのだと、文献に書かれているのを読んだ事がある。

「信じ……られない…こんなの…っ」
「別に信じて貰いたくて話している訳じゃないよ。この話を信じる信じないは君の自由。空想でしかなかった神の存在を認めるだなんて、難しい事だろう。……だけど僕とシュンにとってこれは、事実なんだ。冗談でも遊びでもない。だから、邪魔しないで?」

 まるで確認するように首を傾げて、シズキはそう突き放した。
 肯定も否定も出来ないのは、結論が分からないからではない。どちらを口にしても、シュンを傷付けるような気がしていた。ルキの目は真っ赤に腫れ、それでも流れる涙は止まらなかった。遠くにいるシュンとシズキに、小さな声は届かない。包帯を外されたシュンは、視線をこちらへと向けようとはしなかった。

 縋り付くような視線が苦しくて、彼女に異質な色を見られたくなくて、シュンは視線を逸らしたままだった。
 包帯を外されること自体は、嫌ではなかった。彼が巻いたのだから、彼が外すのは自由だ。気に入ったから巻いて、気に入らなくなったから外して。それだけだと思っていた。だが実際に包帯を外されて感じたのは、喪失感。彼との距離が遠く離れてしまったことだけが、確かだった。
 この包帯を最初に巻いたのは、シズキだ。荒野と化した村の前に突っ立ったまま、我も分からずぼんやりとしていた所で彼に出会った。不可思議な色の瞳を追究することもなく、彼はこの色を隠すように包帯を巻いた。どういうワケだかそれが無性に嬉しくなり、それ以来この包帯は巻いたままだった。外れた時は、シズキに巻き直して貰って。

「なんで……?シズキはシュンを助けたかったんじゃなかったの?なんでこんなことになっちゃうの?」
「シュンは助けるよ。その為にずっと、この力の事を調べていたんだから。これでやっとシュンも見ず知らずの力に怯える事はなくなるんだ。神の力は絶大だから、絶対だ」
「シズキ……」

 彼の矛盾した言葉に気付き、ルキもシュンも苦しげに眉根を寄せた。助ける―――、誰を?何の為に?どうやって―――?
 彼は強すぎる力を追究するあまり、逆にその力の魅力に取り憑かれてしまったのだ。強い力は、あらゆる可能性を高めると思いこむ。目的を達成させる為に力を欲し、自ら目的を破壊する。シズキの描いていた構想は、目的は、ルキには分からない。同居人とは言え他人であるシュンを、そこまでして助けようとした理由も読み取れない。だからこそ彼の現状が不可解で、不安で、怖かった。

「ルキ」

 声音が震えている。少女へとは目を向けないまま、少年は彼女に声を掛けた。ルキも顔を上げることなく、言葉だけを聞いた。

「ルキはここから出て行った方が良いよ。ここに居ても、良い事なんてない。俺らはきっともう、元には帰れないから。………連れて来ちゃって、ゴメンね」

 淋しげに。呟くように。
 彼の言葉は、彼女へと向けられているのか、自分への諦めなのか。俯いた表情は、そのどちらをも表しているようだった。後悔だとか、一言で終わらせる事の出来ない感情を抱いて、シュンは微かに顔を上げた。その視線の先は、少女ではなく青年だった。

 全ての覚悟はついている。
 彼の闇の底へと堕ちていく事も分かっている。でも振り返ったりしない。痛みを感じたくないから。
 彼の行おうとしている事は、神への冒涜だ。そしてそれを認める自分も、同罪。彼が戻る事が出来ないというのなら、天罰を喰らった方が良い。止める事の出来なかった自分も共に。その覚悟も、ちゃんとついた。


「待って」

 思い詰めた声が、シュンの動きを止めた。ドキリと心音を大きく感じ、彼は足を止める。振り返るのが怖かったが、振り返らなければならない気がした。目の前のシズキは、面白そうにシュンの後方へと視線を向けている。彼の瞳も、少女の声も、今はどちらも痛かった。

「私も一緒に、連れて行って」
「え…」
「私は、2人と一緒にいれてすごく幸せだった。初めて名前を呼んで貰えたし、一緒に暮らしてくれたし。知り合いとか仲間とか、そう言う言葉より、家族だって思いたかったくらいだし。だから、2人が悪い方向に行っちゃうのを黙って見ていられない。立ち止まってくれないんだったら、私も一緒に行く。置いていかないで」

 善悪だとか、神だとか。そんなモノは関係ない。ただ彼らと共に居たいだけ。たったひとつの居場所を、家族を、失いたくない。大切な人たちと、別れたくない。その一心で、ルキは叫んだ。言葉にしただけで、一切の迷いは断ち切れた。もう迷うものか。

「でもルキ…」
「僕は構わないよ。人数が増えようが、やる事は変わらない。次の段階が楽になるだけだ。……いいんだね、ルキ」
「堕ちたアンタ達に、私の“ルキ”の名は呼ばせない。私が呪った、“シンラ”の名で、私も堕ちてやる」

 私が知っている彼らじゃないから、私の名前は彼らには呼ばせない。私の名前は、私の知っている彼らだから呼ばせていたんだ。

 シュンの言葉を遮り、シズキは彼女を受け入れた。少しの悔いを感じ、シュンは苦しげに顔を歪めるが、反対にルキは静かに笑うのだった。今笑っていないと、一生笑えなくなるような気がして。そして、“これから”に目が行きすぎて、シズキの発する矛盾した言葉に気を掛けている余裕は、シュンにもルキにもなかった。

 白く淡い光が部屋中を包み込み、途端にルキの意識は朦朧と翳りだす。まるで深い眠りの淵に立っているかのような錯覚に、奇妙な違和感と不安定な安堵感を抱く。恐らく隣に立つシュンも、同じ感覚なのだろう。ふわりと浮くような、気がした。
 ここで、終わり。


 しかし不意に、

「ゴメンね―――」

 そう、微かに聞こえたから。もしかしたら、まだ望みはあるんじゃないかって、そう思った。そう思って、ルキの意識は鋏で切り取ったかのように途切れた。ここから続くのが、シンラの記憶。


 罪を犯し堕ちたは、秦羅、峻、閑祈。
 そして、Misty ――――