Encounter -Another-
StaRt
唐突に静寂を破ったのは、左翊が部屋の扉を開け、廊下に顔を出したその瞬間だった。ガシャンと一度聞こえた音は、その後も断続的に続いている。盛大に響くその音は屋敷中に伝わり、眠りについていた者たちの目を覚ます。
「んなッ?!」
予想の範疇を超えた展開に、迅夜は動揺を隠せず、左翊もまた、目を瞬かせている。だがいつまでもこうしているわけにもいかない。2人の動きが止まった事で、双方とも今がそんな状況ではない事を思い出す。思考を瞬時に切り替え、迅夜は扉を蹴破り廊下へと飛び出した。そして、今なお聞こえ続ける破砕音のする方へと駆けだした。一方の左翊は、机上に残った2枚の符のうち赤い方の符が灰に変わるのを見届けると、迅夜の走っていくのと反対方向へと駆けだした。
×××××
いっそ清々しいまでに遮るものを失った四角の枠の下には、予想していた通りの光景が広がる。砕け散った鋭利な破片は、微かな蝋燭の明かりを煌めかせ、自信を凶器だと主張する。迅夜は辺りを見渡し、人の気配が全くない事を確認する。そして脳裏に屋敷の平面図を浮かべ、今し方走ってきた道順をそれに重ねる。分かったのは、この部屋は普段は空き室の客間であるという事、そしてこの部屋の周辺には人の入っている部屋がない事、である。
何もない窓から、夏の夜風が吹き込む。少し湿った、それでいて少し熱っぽい風が妙に鬱陶しく、その部屋を後にする。バタンと扉を乱暴に閉め、その扉に寄りかかる。ひとつ息をつき、呼吸を整え。
「なんなんだ、アイツら」
豪快な侵入の仕方に呆れつつ、その最も単純なやり方を予想していなかった自分に呆れつつ、ちっ、と音を鳴らして悔しさに顔を歪ませた。そしてまた再び、割と近くでガラスの砕ける音が響いた。
×××××
けたたましい音に安眠を妨害され、状況を理解できないまま目を覚ましたオーグ家の長男は、自室の中に見慣れない影を見つけて息を飲んだ。おそらく男だろう、大柄な男が、何をするでもなく部屋の中央に佇んでいる。侵入してきたのであればさっさと物色して、次の部屋にでも行くものだろう。だが彼は何もしていない。長男の存在に気付いていないのか、それともあえて無視しているのか。長男の寝台には目もくれず、そして一歩も動かず壁を凝視していた。後ろ姿な上、頭も顔も黒のストールで覆っている。部屋は暗い。顔の判別なんて、付くものではなかった。
動きの無かった彼の行動が再開されるまでは、短い時間だったのかもしれない。だが時の止まったかのような静寂さの中では、それよりもずっと長い時間に感じられた。
大柄の男は壁に向かって歩み寄り、その先にあった棚に載せられている花瓶に手を伸ばし、活けられた白いバラを1輪、左手で摘み取り、そして握り潰した。一連の動作はゆったりとしており、その全てを長男は目で追ってしまった。はらはらと零れる花弁が闇の中に映え、その行動にどんな意味が含まれていたのか理解しきる事が出来ないまま、長男は部屋を出て行く彼を無言で見送った。
2つ程離れている部屋と思われる場所からガラスの砕け散る音が聞こえてくるのは、その数十秒後。
×××××
「―――2階東端、第2倉庫…」
燃えた符の示す場の名を無意識に呟き、左翊は足を速める。机に置いていた符と自分の持つ分とを合わせて推測するに、“犯人”の1人はその場を動いていない。最初の侵入口は2人同じだったようだが、その後の動きは別行動である。片方は真っ直ぐ、第2倉庫へと向かっている。部屋のある位置とその大きさから、第2倉庫に財宝が眠っていると考える者はそうはいないだろう。実際第2倉庫にそう大した物は置かれていない。それなのにこの場に留まり続ける理由、―――それが分かっていたからこそ、左翊は急いでいた。ガラスの砕け続ける西方面と反対の、東方面へ。
×××××
おそらくオーグ邸の住人は皆、自室に閉じ籠もっているのだろう。誰1人部屋から飛び出してくる者がいない。ある意味の静けさに迅夜は少しだけ嘆息する。邪魔にならないのは有り難いが、誰も出てこないというのもそれはそれで問題アリな気もする。最も、こうもガラスが割られている以上、部屋に閉じ籠もるのが安全とは言えないのだが。血の気配がしないので、今の所被害者は出ていないようだった。
ガラスの破壊音は少しの休憩を入れている。これが本当に休憩なのか、それとも役割終了なのかは今の所判別できないが、周囲に漂う雰囲気から、“犯人”はこの近くの部屋にまだ居ると分かる。歩みを止め、気を張る。
息を潜める。気配をたぐり、1つ1つの扉に視線を送り狙いを定める。入って確かめるのが確実な方法ではあるが、後ろから狙われた際に狭い部屋だと対処が難しい。何より1つずつという行程が、迅夜の性分には合っていなかった。
1つの扉に、手を掛けた。
しかしその扉を開く事はなく、一呼吸置いて手を離すと勢いよく振り返り、反対方向の扉へ向けて右手を突き出した。
「紅幻涙奏、鎌鼬」
紡がれた言の葉は彼の周囲に集まる精霊たちに届けられ、そして白い光と共に現れた鋭利な風の刃が、大広間へ続く扉を切り裂いた。
『万が一、ルジールの連中が侵入した際、財産を守るコト、連中を捕らえるコト、建物に損害を与えないコト、どれを優先させれば良いですか?』
オーグ邸にやってきて2日目の夕食の席で、迅夜が問いかけた事だった。主人はしばし考えた後、こう答えた。
『財産が残れば、家の修理はいくらでも出来る。ルジールを捕らえれば、財産を盗られる事はない。だから』
『了解』
返事を待たずに、にんまりと笑って迅夜はそう言った。
それが彼の一番望む答えだったから。
「遠慮無く、ぶっ放しますよ」
そして迅夜は、にこやかに大広間へと足を踏み入れた。
×××××
「あらぁ、左翊さんですか?」
のんびりした、というか少々気の抜けた声が聞こえて、左翊は足を止めた。たどり着いた第2倉庫の扉は開けられておらず、その扉の前に立つのは先程の声の主で、数度の面識がある人物で。以前あった時は白や茶色を基調とした明るい色の出で立ちだったが、今は紺を基調とした服装である。手にしている黒のストールは、金の髪を闇に同化させるための物だろう。笑みを浮かべる影凜は、まるで街中で偶然出くわしたかのように左翊を迎えた。
「奇遇ですねぇ、何かご用ですか?」
明らかに場違いなその台詞に少しだけ呆れつつ、一つ溜め息。その態度を見てきょとんと疑問符を浮かべる影凜に一瞥を投げた。
「一応聞くが、用件はなんだ?」
影凜の問いには答えず、淡々と聞いた。双方とも背後には壁と扉。避けるは横。廊下の幅は大人が並んで5,6人入る程度。倉庫周辺に住人の部屋はなく、あるのは空き部屋の客間のみ。旅館並みの部屋数は、便利と取るか不便と取るか。
「そうですねぇ、とりあえず、邪魔をしないで下さいって所でしょうか?」
表情を崩さず笑みを絶やさぬまま、不意にストールだけが宙に舞った。瞬時に左翊は右方へと飛ぶ。タンタンッ、と微かな音が後ろから聞こえた。見れば一瞬前に左翊の居た場の壁にナイフが3本刺さっている。ナイフを確認すると同時にすぐさま影凜の姿を探す。彼は、振り返った左翊とちょうど対峙する形で立っていた。その手には2本のナイフ。
「無駄遣いだな」
「そう思います?」
言葉の直後には、影凜の手からナイフが滑り出す。真っ直ぐに、寸分の狂いもない軌道に乗せられたナイフは左翊の喉元を狙っていた。抜群の反射神経でそれを避けた左翊は、腰のベルトに挟んでいた符を2枚取り出す。
「解」
まるで影凜のナイフのように真っ直ぐ飛んでいくのは、紛れもなく符であり、紙である。折ってもいない紙はそれ自身が意志を持っているかのように影凜へと向かって飛ぶ。微かに白色の光が零れる。
「…やっぱり、貴方の方でしたか。符術師は」
一歩引いて右手を振るうと、いつの間にか影凜の手の中には小さなナイフが握られており符を真っ二つに切り裂いた。と同時に閃光が迸る。バシッと音を立て符は消え去ったが、その衝撃で影凜の持っていたナイフが遥か後方へと弾き飛ばされた。ほんの少し驚いた表情を見せた影凜だったが、すぐに元の柔らかい顔へと戻す。視線は己の右手から左翊へと移す。
「私たちが侵入してきたら分かるように、屋敷のあちこちに符を張っていましたよね。迅夜さんと左翊さん、どちらかと思ったんですけど」
にっこりとそう言って、言葉を切った。一方の左翊は何も返さない。ただ、相手の出方を伺っているだけだった。機嫌を損ねるわけでもなく、そして表情を崩す事もなく、影凜は再びナイフを構えた。最初に投げられた3本のナイフは、いつの間にか壁から姿を消していた。
×××××
足を踏み入れた瞬間には何が待っているのだろうと、迅夜はほんの少し期待をしていた。だが現実は闇が広がるだけで。
大広間には人の気配もなく、しんと静まった空気だけが居座っていた。ちょうど真正面にある暖炉も、その手前にある食卓も、1階の食堂と瓜二つではあるがサイズはこちらの方が一回り小さい。
「…いない?」
小さく呟く。廊下の、等間隔に灯された蝋燭の明かりが大広間をゆらゆらと照らす。少ない明かりでは大広間全体を把握する事は出来ない。一呼吸置いて、迅夜は部屋の中へと更に足を踏み入れた。
「ハジメマシテ」
3歩進んだ辺りだった。
全くなかった気配が、突然現れた。迅夜の真後ろに。咄嗟に振り返った迅夜は、目の前に自分の顔を見、息を飲む。もちろんそれは自分ではなく、金属に反射して映し出された自分の虚像。曲線に歪んだそれが大柄な湾刀であると気付くのに、そう時間は掛からなかった。その湾刀を持つ人物が自分の探している人物だという事は分かるのに、廊下を背にしたその人物の顔は、朧気にも見えない。
迅夜は舌打ちをした。
「俺がこんなに活動的なのは珍しいんだ。光栄に思え」
低いが、よく通る男の声が、そう迅夜に話しかける。刃を突きつけられている迅夜は、しかし怖じけることなく顔の分からぬ相手へと返事を返す。
「そっちこそ、この俺らがガードしてやってんだ。感謝しろってな」
「イイ迷惑だ」
「楽しんでるように見えるけど?」
間髪入れずに迅夜は返す。押されている気など、毛頭無かった。暗闇に目が慣れてくる。相手の顔が分からないのは、闇の所為だけでなく黒のストールの為だと気付いた。瞳だけが覗くストールの隙間から、微かに髪が零れているのが見える。
「あんなにガラス割りやがって。もっと静かに忍び込んでくるモンだと思ってたよ」
嫌みを込めた迅夜の言葉に、男は鼻で笑う。湾刀はそのままの位置で制止したままである。
「まどろっこしいのは大ッ嫌いなんだよ。あれが一番単純明快だ」
男の声だけが響く。辺りはまだ闇。音はない。家の住人が恐る恐る様子を見に来る、といった状態にもならないようだ。
口端を引き上げてニッと笑うと、迅夜は左手をそっと持ち上げた。湾刀が揺れるから、相手が動こうとしたのが分かる。今の湾刀の状態は、脅しではなく構え。それでも迅夜がそれに屈する事はなかった。
「同感だ、俺も睨めっこは好きじゃない」
上げた左手はちょうど肩と同じ高さになり、床と平行になる。湾刀の相手は様子を見ているのか動きはない。だが刃を持つその手に力が込められている。力んでいるわけではなく、切り裂く準備が出来ている、とでも言うのが妥当かもしれない。これ以上動けば首と胴体は切り離されるのだろう。
「炎咲」
迅夜の紡いだ言葉と同時に、大広間から闇が消え去った。部屋に置かれていた燭台全てに、炎が灯ったのである。頼りなかった廊下の明かりに圧倒的に勝る大広間の明かりは、湾刀の男の出で立ちを露わにした。ストールで覆われた顔は分からないが、体格の良い長身の男は腰にもう1本、湾刀を吊り下げていた。
突然光の現れた大広間に眉をひそめ、しかし男は右手の刃を降ろさぬままストールの端に左手を掛けた。
「ふぅん。あんたが魔術師ってヤツ?」
隙間から零れる髪は、噂話に聞いた通りの濃い金色で。鋭い瞳は真夏の晴天を思わせる真っ青な色。揺れる灯りに金色が煌めき、青には闘志が宿る。これまた噂通りの目元の傷は想像していた物より深く、古傷ではあるが痛覚を刺激した。
珍しげに周囲を見回し、燭台に揺れる灯りを男は信じがたいとでも言いたげな目で見ている。その顔に浮かぶのは驚きよりも愉快だった。
「そんなご大層なもんじゃねーよ。風車」
返事と同じ流れで紡いだ言の葉は風の精霊たちに伝えられ、室内の奥まった部屋だというのに突風が吹き荒んだ。攻撃的な突風ではなかったが、彼から覆面を奪うのは容易な事だった。
零れるは強気の金。赤のバンダナを頭に巻き付け、ばさばさの髪を押さえつけている。露わになった顔には、隠されていた時より傷跡が目立つ。横一文字に1本と、左目の下に1本の縦ライン。小馬鹿にしたような笑みを浮かべてはいるが、鋭い眼光は変わらず相手を威嚇する視線である。
「俺の顔がそんなに拝みたかったか?」
「対面しといて覆面とか、ムカつくんだよ」
男は、湾刀を持つ右手を肩に向け、担いだ。迅夜に向けられた刃は身を引いた。だがしかし迅夜は湾刀から注意を逸らしはしなかった。
睨めっこと言うよりは、敵情視察。互いに素人ではない事は、対面した瞬間から分かるものだった。発する気配も滲み出るオーラも、そしてそれを隠さない度胸も読めていた。
屋敷の中で一番離れた所へ誘導されたであろう相方の事が、ふと脳裏をよぎった。この部屋は西端に近い位置にある。きっと、ルジールの相方は東端にいるのだろう。東端は確か、1階に台所、2階に第2倉庫。地下は何もないと図面に記されていた。という事はここから一直線の西端に彼らはいる可能性が高い。合流は可能だが、それではルジールの2人も合流する事になる。正直それは、面倒臭い。合流は困難、と迅夜は結論づけた。2人が外に出た可能性も無くはないが、それぞれの使う術の特性上、可能性は低いと思われる。対するこちらは、出来れば外に出たいと思う。
「ところで、お前が迅夜か?」
「そうだけど。影凜さんに聞いた?」
おもむろに開いた口から問われた言葉は、自身の名を問うもの。本来なら知り得るはずのない名の事に、驚く事もなかった。
「下調べはやってあるんでね」
迅夜の問いに直接的な答えは出さず、男は呟くように、独り言のように返した。迅夜も左翊も街の中では少々目立つ方で、街の住民に聞けばすぐに情報は出てくる。だが、傷の男が2人の事を探っていた、という情報は聞いていない。となればあとは、相方による情報収集か、覗かれていたか。生憎、どちらにも心当たりがある迅夜であった。
あぁ、そう言えば。
迅夜はもう1つ聞きそびれていた事を思い出して、口を開きかける。
だがその瞬間には大柄な刃が目の前に迫り、後方に下がる事によってそれを避けるしかない状態に追い込まれていた。体勢を崩すことなく3歩下がり、バッと顔を上げた時には既に男が、手にした球体の物を迅夜に向けて投げつける所だった。
直撃コースではない、放物線を描いた球体は重量があるのか、頂点を過ぎてからスピードが上がった。最後に見えた表情は、ニッと笑った勝ち誇った顔。
「鎌イタ…」
言葉は中途に切れる。風の刃が球体を切り裂く前にソレは落下し、その落下の衝撃で弾けた物は、一言で言ってしまえば煙幕で。あっという間に大広間を埋め尽くした煙の中で視界は全く無く、男の姿を見失った。気配を自在に消せるのか、煙が広がり始めると同時に姿と共に気配も消えてしまった。
「風車」
静かに呟くと、突風が窓を突き破り煙を夜闇へと連れ出した。砕けた窓ガラスはキラキラと蝋燭の火を映して外へと落ちていく。開けた視界の中に動くものはなく、大広間に立ちつくすのは自分1人だけであった。呆然と扉を眺めている迅夜だったが、ふと思い出したように胸中を言葉にしていた。
「あいつ、」
名前くらい名乗れっての。
そう毒づいて、溜め息を一つ。ここまで派手に暴れていて、逃走だなんて事はない。探せばいい。夜も、捕り物劇も、今始まったばかりだ。
大広間の真ん中の、食卓に載せられた一際大きな燭台。揺らめく炎は真っ赤で、迅夜が覗き込むとそこに映るのは先程の男の姿だった。廊下を歩いている。周りの様子を見るに、この食堂から殆ど離れていない位置にまだいる。だがその姿が突然振り返ったかと思うと、犬歯を覗かせニッと笑って見せ、直後、炎は真っ二つに切られるようにして消えた。
「サイの符に気付いてるんだな」
迅夜は冷静に解析する。能力はおろか、存在すらあまり知られていない術の1つが符術だ。それについて多少なり知識があるとすれば、やはり彼らは一筋縄でいく相手ではないと分かる。
しかし浮かぶのは、困惑でも怯えでもなんでもなく。
久しぶりの手応えを感じた迅夜は、男の向かったと思われる方向へと駆けだしていった。
向かうは西方面。東端で合流するより先に、中央の第1倉庫が待っていた。