目を開けた時、ぼんやりと浮かんだ影に違和感を感じた。次第に覚醒する意識の果てで違和感の正体に辿り着き、そして勢い良く跳ね起きた。
High-tension No-problem
「そんなに怒らなくてもさぁ」
 起き上がった勢いで衝突した額をさすりながら未だにぐちぐちと文句を零す剣に、峡はだんまりを決め込んでいた。というか、黙らざるを得ない程に体調は悪化していた。
 一人暮しを始めてまだ2週間と経っていない4月の中頃。大学内で峡はぶっ倒れたのだった。とりあえずは医務室に運んだものの、熱は38度を越えており、医務室で取ることの出来る睡眠時間で回復するようなものではなかった。ところが倒れた現場にちょうど居合わせた剣は、彼の自宅も彼の友人の連絡先も知らなかった。揚げ句、峡は携帯電話を持って来ていなかった。病院に連れて行くことも考えたのだが、それよりも剣は学校近くの自分の家へと連れ帰ることを選んだ。近いくせに…、と嫌味を言われるバイク通学が初めて役立った気がする。とは言っても、意識朦朧の病人を後ろに乗せて走るというのは、難儀を通り越して恐怖だったのだが。
「ほら、水。汗かいてんだから水分ちゃんと取っとけよ?」
 差し出されたミネラルウォーターのペットボトルを受けとろうとした峡は、あまりの腕の重さに愕然とする。そういえば頭もガンガンするし視点も定まらない。
 相当酷いな…、と呟く声が聞こえて額にひんやりとした何かが触れる。それが彼の手の平だと気付くのにも時間がかかった。
「ったく、氷持ってくるからもう寝とけ。そして起き上がるな」
 先程の衝突を根に持っているのか、剣はそう言い捨てると峡の視界から消えた。近くにはいるのだろうが首を回すのもだるく、やって来た眠気にそのまま身を委ねた峡の意識は、あっという間に沈んでいった。


「すみませんでした」
 峡が目を覚ましたのはとっくに陽が沈んだあと、時計の針はもうすぐ9時を指す頃合いだった。2限目の講義が始まる前に医務室に運ばれ、剣の部屋で一旦目を覚ましたのが午後2時過ぎのこと。それからずっと眠っていたことになる。峡が身を起こしたのに気付くと、机に向かっていた剣はきしりと椅子を軋ませ振り返る。
「なーに謝ってんの。調子はどんな感じ?」
 風呂上がりなのか、濡れた髪は彼の昼間の印象を大分変えていた。いつも入っている金色のメッシュも今は入っておらず、黒の髪が僅かに跳ねている。メッシュは恐らくウィッグだったのだろう。そして衣服は薄手のジャージにTシャツと、普段のチャラチャラした印象を受ける姿と比べると、大分大人しい雰囲気となっていた。
「まあまあ、です」
 実際まだくらくらするものの、恐らくこれは寝過ぎた為だろう。激しい頭痛は今は引いている。重い腕を布団の外に出してみる。触れた空気がひんやりして気持ち良かった。
「あー、ほら。敬語使うなっつってんだろ。同級生なんだから遠慮すんな」
「え、あ」
 剣に言われ峡は自覚する。以前剣と話した時にも、そういえばそんなことを言われている。峡の言い分としては、同級生とは言え年上の者に対してタメ口を使うのは気が引ける、というものだった。剣からしてみれば年齢の一つや二つ、上も下も関係ないらしい。敬語を使われると調子が狂う、とは言われるものの、中々染み付いた癖というものは取れないのだった。
「とりあえず腹減っただろ。薬も飲まなきゃなんないしな、食え」
 返事をする間もなく席を立った剣は、ほぼ命令系でどんと鍋を持ち出してきた。中身はどうやらお粥のようである。間を置かずに持ってきたにも関わらず湯気が立っているところを見ると、つい今しがた完成したのだと思われる。空腹を誘う香りに気を取られつつも、峡は意外そうに剣に視線をやる。
「料理するんだ………」
「あのな」
 呟くような峡の言葉に剣は呆れたように返す。
「一応これでも一人暮し4年目なの。料理もするって」
 呆れたように、しかしどこか得意げに、剣はそう言った。しかし峡には再び疑問が降りかかる。
「4年…?」
 峡と同学年に当たる剣は、昨年度も1年生をしている。つまり留年して、峡と出会ったわけである。だがそれでは年数が合わない。
「そ、4年」
 特に表情を変える様子もなく、剣は続ける。
「高3の初めの時から1人暮し始めて、1年浪人して、去年1年やって。それで今年で4年目、と」
 さらりとそう言う彼に、峡は一先ず疑問を投げ掛けることにした。
「何歳………?」
 にかりと笑った顔から返って来た答えは、峡が計算した通りのもので。
「20」
 敬語抜けるかなー…などと思いながら峡は溜息じみた相槌を打つ。が、その途端大きくむせてしまった。
「何やってんの」
 峡の背をさすりながら剣は呆れたように呟いた。


 お粥は満足いくまで食べられ、剣に貰った風邪薬も飲んだ。そして結局、今夜はここに泊まることになった。
「ごめん」
「いーって、いいって。俺普段からベット、そんなに使ってないし」
 笑いながら剣が指差すのは、先ほど向かっていた机で。どうやら突っ伏したまま夜明けを迎えることが多いらしい。
「ちゃんと寝れるんですか」
 途端、敬語を指摘しているのか睨まれる。あ、と気付き峡は黙る。
「なんつーか、慣れ?そこで寝るのが日課になっちゃった」
 床に座りベットに寄り掛かりながら、剣は楽しそうに話す。恐らく彼は、話し好きなのだ。
 不意にグイッと首を回し、峡に顔を向けた剣は何故か真顔だった。
「お前さ、連れにちゃんと言っといてくんない?逃げるなって」
「………は?」
 キョトンと、言葉の理解に遅れた峡は、その言葉の指す所に心辺りがあり、ひと呼吸後に吹き出した。
「深次?」
「名前知らねぇけど、あのメガネ」
「うん、やっぱそうだ。深次、久瀬深次」
 食堂で初めて剣と遭遇し絡まれた時、峡の幼馴染みである深次は終始黙り込んでいた。そして剣が去ったあとこそりと、峡に零したのだった。
『俺あの人苦手なんだけど』
、と。
 その後深次と一緒の時には剣と会っていないのだが、深次は一人の時に剣と遭遇したのだろう。そして無意識に逃げたのだろう。その光景が鮮明に想像でき、思わず峡は笑った。
「俺結構凹んだのよ、逃げるのはあんまりじゃない?」
「なんか…うん、ごめん。深次に言っとく」
 ごめんと言いながらも未だ笑いは止まらないワケで。唇を尖らせていた剣も、つられて吹き出した。
「あ、そうそう」
 笑いと同じ流れに乗せて、剣は再び話題を変えた、まだ笑い顔の残る峡は先を促す。
「お前さ、多分今行方不明扱いだと思う」
 間。
「医務のねーちゃんには言ってるけどさ、ほら、他の連中との連絡手段無かったから」
 また、間。
「まーでも明日学校行きゃ大丈夫か。明日は行けそうだろ?」
 返事がない峡の様子を訝し気に思い、剣は彼の表情を覗き見る。そして見たのは、明らかに真っ青になった峡の顔だった。
「………どしたの?」
「い、いや…。………そういや俺、今日携帯忘れて…る?」
 ポケットを探り、目では鞄を探し、慌てた声でそう問い掛ける峡に、剣は更に頭にクエスチョンマークを浮かべる。
「多分入ってなかったと思うけど。入ってたら他の連中に連絡取ってるし…」
「ちょ、やば…!絶対ヤバイ、明日学校行きたくないって!」
 尋常でない峡の様子に、剣はまぁまぁと宥め、彼を落ち着かせようと試みる。アワアワと挙動不振に陥っている峡も、しばらくの間を置いて落ち着きを取り戻した。
「ハイ、ちゃんと説明する」
 様子を見計らって掛けた声に、峡は見上げるように視線を剣に向けた。
「…マキにどつかれる」
「はぁ?」
「開口一番に怒鳴られて跳び膝蹴り喰らわされて、死ぬまで行方不明の話題を言われ続ける…」
 指折り確認しながら峡がそう言うと、剣は少し考えるそぶりを見せ、そして一言。
「それだけ?」
 素っ気ない返事に無言で訴えかけるように峡は剣を睨み付け、剣は言葉を訂正する。
「あー…ごめん。イヤほら、話が全く見えないからさ」
「………。昔馴染みのさ、マキっているんだけど」
 一呼吸置いてぽつりと話し始めた峡に、明るい色はない。心なしか若干俯き加減の彼の言葉に、剣は頷く。
「知ってる。何だっけ、立花サン?」
「うん、そう。……なんで知ってんの?」
「…あのな、お前ら一緒に居すぎ。漫才トリオは割と有名よ?」
 自身には聞き覚えのない単語に峡は首を傾げ、しかし剣はさも当たり前のように言葉を発していた。峡の様子を見て、今度は剣が頭に疑問符を浮かべる。
「知らなかった?」
「全く………。てか、何?漫才?」
「お前らにとっては日常会話なんだろうけど。声でかいから軽く漫才なってるらしいよ」
 まー俺はまだそれに遭遇した事はないんだけど。そう付け加えて剣はケタリと笑った。彼の言う所に思い切り心当たりのある峡は、顔を僅かに顰める。確かに峡と深次、そして昔馴染みである立花槇、彼らの会話の中に音量制御という文字はなく、更に、手が出る足が出るといった槇の言動にはある意味迫力と呼べるものがあった。周囲の視線を気にした事はなく、入学して10日と少し、既に名を知られていようとは思ってもみなかった。
 とりあえずそれは置いといて。そう断り剣は話しを元に返した。
「その、立花サン?一宮が帰りたくない理由って」
「そう。あいつの言動、ホンッット激しいから。心配してくれるのとかはさ、有り難いんだけど時々過保護………ってか親じゃないけど。帰りの駅が一緒だから時間が合えば一緒に帰るんだけど、合わなくても絶対俺のとこ来るから」
「仲良いんだな」
 寧ろ感心したとも言える感情を抱きつつ、剣はそうとだけ返す。けれどそれに対する返事は、どこかげんなりとした表情。あぁこれもなのか、と漠然と察した剣は、理由を促した。
「一緒に帰った日は必ず何かを奢るハメになる」
 やっぱり、と剣は笑った。妙に高いテンションを持ち合わせた幼馴染みというものは、案外どこも同じなのかもしれない。同い年のバイト仲間が、いつだったか幼馴染みらしき人に食事代をせがまれていた。その時の光景と今のコレに大した違いはない気がすると、剣は結論づけた。
「それで、俺の事見つけらんなかったわけでしょ、今日。しかも携帯も繋がらない。心配するとかそう言うのの前に……」
「前に?」
「深次に八つ当たりしてそう」
 うわぁ。剣はそうとだけ呟いておいた。


 実のところ、早く自宅へと戻り携帯電話のチェックをしたかった。けれど軽くなったと思っていた身体は立ち上がると同時に高い重力を感じ、歩けばフラフラと壁に向かっている。折角ベットから出たというのに、部屋の住人にノーを突きつけられ、再びベットの中へと戻る他無かった。
「せめて俺が車持ちだったら送れたんだけどな」
 パックの牛乳にそのまま口を付け、飲み干した後に発した剣の言葉だった。そういうのって風呂上がりに飲むもんじゃないの?と聞けば、誰かさんが丁度起きた所為で飲み損ねた、と返ってきた。自分の失言を詫びた峡だったが、結局それもまた笑いによって流されてしまった。
「フラフラな病人を後ろに乗せて走るバイクはある意味スリリングだ」
「んな事楽しそうに言うなって!」
 鼻歌交じりに牛乳パックを流し台へと放り投げた剣は、おもむろに室内灯を消した。他に灯りの付いている部屋がなかったため、辺りは一気に暗闇と化した。視界から全てが消え、峡は目をぱちくりとさせる。
「はい、病人はさっさと寝る。そして明日の朝には出て行く」
 すぐには暗闇になれない目をキョロキョロとさせ、しかし何も映さないのは変わらないので自分がどこに視線を向けているのかすら分からない。と、パチリと言う音と共に細い灯りが現れた。それは引き戸によって仕切られていた隣の部屋の灯りだった。どうやら剣はそちらへと移っていたらしい。
「俺はもちょっとやる事あるから。さっさとそっちで寝ちゃって」
 姿は見えないが、きっと左手をヒラヒラと振っているであろう姿が想像できた。何をしているのかまでは分からないが、先程机に向かっていた所を見ると、もしかしたら何かの勉強をしているのかもしれない。それなら、声は掛けない方が良いのだろう。峡は意識の沈むままに、静かに目を閉じた。


*****
 見事なまでの右ストレートを、一歩足を引く事で避けた峡は両手を合わせて謝った。途端飛んでくるのは弾丸のような言葉の嵐。反論の余地無し。今は言いたいだけ言わせておこうと、峡は心に決めた。
 そんな2人のやり取りを眺めつつ、深次は居心地の悪さをひしひしと感じていた。最初に食堂で会い、次は購買部ですれ違い、そして3度目の今日はとうとう2人きりで会話をするハメになってしまった。2度目にすれ違った時には思わず走り出してしまったのだから、尚更気まずい。ちらりと右を見ると、赤と黒の組み合わせにダメージジーンズ、金色のメッシュという派手な色合いが揃っている。そして深次のタイミングからほんのワンテンポだけ遅れて、彼もこちらへと顔を向けた。
「んなに怖いかよ」
 第一声がそれだったせいで、深次の緊張はピークに達する。が、しかし途端にバシンと叩かれた背中への痛みが、その感情を淘汰した。その痛みは数度にわたり、笑いながらバンバンと何度も叩かれているのだと気付いた時には、反射的に彼の左手を掴んでいた。
「いい加減にしろって!」
「お、やっと喋った」
「痛いだろ」
「そっちが無反応ってか、俺にとって淋しい反応だったからだろ」
「大体なんでそんなに俺に絡んでくんの!」
 パッと見た感じでは峡にまとわりついていた。けれどよくよく状況を観察してみれば、峡に絡んでいる事自体が偶々であり、それよりも剣は自分、即ち深次への絡みの方が圧倒的に多かった。高熱で倒れたという親友を看病してくれた点を見れば、彼は“イイ人”である。けれどそれとコレとは別問題で、どうしてもはっきりと理由と聞きたかった。
「別にぃ?」
 てっきりそこで話を切られるかと思って慌てて言葉を探した深次だったが、ふと映った剣の表情はまだ言葉を持っていて。あ、と思わず声に出てしまったが、気にせず先を促した。
「なんつうの?久瀬のこと弄ってたらアイツらみたくなれんのかと思って」
「は?」
 益々疑問符が増える深次に対して、剣はケタケタと笑う。そういやアイツらは…と剣がぐるりと見回すと、未だ口論を続けている峡と槇の姿があった。一方的に叫ばれていた峡も、どうやら応戦しているようである。おーい、と深次が声を掛けると、剣の視線が戻ってきた。まだ話の結論を聞いていないと、視線で訴える。
 ニヤリと笑みを浮かべた剣は、しかし意外とはぐらかすわけでもなく。右手の親指をグイッと自分に向けると。訝しげに視線を送る深次に向かってきっぱりと言い放った。
「漫才トリオに入れて貰いたくってな」
「………はぁ?」



 空は晴天、春の陽射し
 新しい季節と新しい場所

 そして新しい仲間