ノンストップ前途多難 −前編

 前日に無事入学式を終え、意気揚々と学校へと向かっていた三鷹廉はその日、この学校へ入学した事を後悔したのだった。

△▽△▽△

 平穏の中の入学式だった。新入生と教師だけが集まったホールはどこか静かで、どこか浮ついていて。それでも悪い印象を受けなかったのはきっと、ホールの美麗さ、そして校舎の壮大さの為だろう。初めその異世界のような学校に戸惑う者も多かったのだが(入学試験も制服購入も学外にある文化センターで行われた為、殆どの者が校内に入るのは初めてだった)、軽快なテンポで笑いを誘う教師たちの挨拶を交えた入学式に、いつの間にか緊張は解されていたのだった。
 市街地を抜け、河原を通り越し、小さな山の麓から伸びる長い坂からが久桜<きゅうおう>高校の敷地だった。話によると、この一山全てが学校の所有する敷地なのだとか。広大なそれらの至る所に様々な施設が建てられており、時間を見つけて探検してみると良い、というのは昨日の国語担当の教師の言葉だった。
 三鷹廉は、朝のまだ肌寒い時間帯に自転車で疾走していた。中学時代から早起きは日課となっており、始業1時間前に学校へと到着する事は珍しいことでもなかった。河原を歩くのは散歩途中と見られる老人や、この近くにある小学校へと向かう子供たち。彼らを器用に追い越し加速し、廉は山の麓から始まる上り坂、通称桜通りへと辿り着いた。その呼び名が示す通り坂は見事な桜並木で、ピンク色の花弁が風に流され、吹雪を作り出していた。まるで長く続く暖簾、通る者を歓迎しているようにも見えた。廉は暫くの間、その見事な光景を無言で眺めていた。
 坂が始まる数歩前には門があり、それは正門の前に通る正門との意味で“準正門”と呼ばれているものだった。坂を自転車で上ることは禁止されており、準正門の両脇には自転車置場が並んでいた。盗難防止の為、1人1人割り振られた鍵付きのスペースに停める仕組みとなっている。桜並木から目を逸らした廉は左右を見渡して、自分に割り当てられたL-1B21のスペースを探す。自分のクラスと出席番号を思いだし、そういえばこの番号はそれらと同じだと気付いた。Lは恐らく、門より左側にあるという意味だろう。L-1Bのスペースを見つけると、案の定そこには1台の自転車も停まっていなかった。
 鍵を掛け、改めて見渡してみるとL-1Bのスペースだけでなく他のスペースにも自転車やバイクは1台も停まっていなかった。いや、訂正。遥か遠くに見えるRのスペース(つまり準正門より右側のスペースだ)には2台程バイクが停まっていた。それだけだった。徒歩の通学生がいないと仮定すれば、この広大な校内に生徒は自分を含めて3人しかいないという事になる。不思議な感覚を感じつつも廉は、気分が高揚していることに気付く。思わず準正門へと駆け出した。

 桜通りの中頃には、高いアーチのようなものが置かれていた。その下を潜って生徒たちは登下校をするのである。正規な門ではないが門のような立ち位置であるそれは、正門、準正門に次ぐ門として、“第三門”と呼ばれていた。しかしそれは、入学したての1年生による呼び名。入学し、何週間かが過ぎ、やがてこの学校に慣れてくれば、殆どの者が別称で呼ぶこととなる。それ程第三門の別称は有名だった。
 その第三門の傍らに立つのは、柔らかな長いウェーブを風に揺らす少女。ふわふわした膝丈のスカートも同じく風に揺れている。顔にかかる長い髪を手で払いながら、坂の下を眺めていた。その少女の目に、1人の少年の姿が映る。真新しい制服を綺麗に着こなし、はしゃぐように駆けてくる彼を見て少女は、僅かに顔を顰めた。スカートが、大きく翻る。

 桜通りを走り出した廉は、その中頃に1つの人影を見つける。長い髪と長いスカートが風に揺れている所を見ると、女性なのだろう。
「何してんだろ」
 小声で声に出してから、ふと思い出す。停まっていたバイクは2台。もしかしたらそのどちらかの持ち主かもしれない。華奢な少女に見えるがバイクに乗るんだろうか…などと考えながら、少女のすぐ前に到着した。そこには高いアーチ状の門が建っていた。昨日貰った校内地図(簡易版)にはそういえば、“第三門”と書いてあったような気がする。
 走るスピードを緩め、廉の視線は少女へと向けられた。色素が薄く、長いウェーブの髪、色白な肌に切れ長で睫毛の長い瞳。絶世の美女とはこういう人の事を指すのではないか、思わず見惚れてしまった。しかし、揺れるスカート、セーラー襟の着いたトップス。そのどちらもが、学校指定の制服ではないと気付くのに、そう時間は掛からなかった。首を傾げ、そして廉の足は止まった。
「(生徒じゃない………?)」
 じっと凝視するのは無礼だと分かっていた。だがどうしても、視線を逸らす事が出来なかった。少女と、目が合う。思わずドキリとした。
「何ジロジロ見てるんだよ」
「……………………………ハイ?」
 聞こえてきたのは鈴のような声。凜と澄み渡るような、かといって甲高いわけでもなく。耳に心地よいその声音は、しかし余りにも似合わない言葉を奏でた。廉は多いに間を空けて、聞き返した。
「一発で聞けよガキんちょ、人様の事ジロジロ見るなって、言ってるだろ?」
 非常に可愛い声だ、可愛い声なのだが一体その声がどうやってこの言葉を並べているのか全く想像が付かない状態だった。目の前にいた少女の口元は、そんな乱雑な言葉の羅列と共に動いていた。そして少女の表情はどこからどう見ても“顰めっ面”と呼べるものだった。開いた口が塞がらない。その慣用句通りまさしく開けっ放しの口を放置していた廉の視界が、急に揺らぐ。一瞬何が起きたのか理解できなかった彼の視界は瞬く間に反転した。途端に背中に痛みが走る。
「ったぁ!」
 気が付くと仰向けに倒れ込んでいた廉の視界にはめいいっぱいの空と、桜吹雪。が、それもすぐに終わる。
「って、ちょ、ええええぇぇぇ?!」
 そういえばここは、坂だった。
 視界がぐるりと回ると右腕を擦る感触、次いで目の前にアスファルトが広がり左肘に痛み。再び空が見えた時にようやく廉は腕と足に力を込めてその回転を止めた。ズキズキと痛む全身を無視しながら立ち上がると、腕を組みむんずと仁王立ちしているあの少女と目があった。どう見ても睨んでいるようにしか見えない。
「(つうか俺、何かしたぁ?)」
 もしかしたら関わらない方が良いとされる人と関わってしまったのかもしれない。これ以上相手を刺激してはいけないと本能的に悟った廉は、ゆっくりと歩きながら彼女の横を少しだけ早歩きで通り過ぎた。今度は何事も、起こらなかった。ただ、痛い視線だけが後方からザクザクと刺さっているのだけは感じた。

△▽△▽△

 1限目はHRで。出席番号順の席もつまらないだろうという担任の一言で行われた席替えにより、廉は窓際の後ろから2番目という何とも有り難い席へと着席した。それから担任の挨拶だったり各自の自己紹介だったりと、のんびりとした時間が過ぎた。しかし廉の頭の中は、朝のあの意味不明な状況だけが渦巻いていた。
「じゃあ、学級委員は高城でいいな」
 担任の言葉にクラス中から拍手が巻き起こった。我に返った廉は辺りを見回し、1人だけ起立している男子生徒と周囲の拍手喝采の様子を見て、学級委員長が決まったのだと理解する。周りに合わせて適当に拍手を送った。クラスに興味がないわけではない。寧ろ楽しみだったのだ、新しい環境というものが。しかしそれが全て朝の出来事に持って行かれてしまっているのが、なんだか悔しかった。
 真ん中の列の一番後ろの席の高城が着席すると、拍手は鳴りやみ、また担任が話し始めた。どうやらクラス役員は今の委員長で全て決定だったようで、黒板には名前がずらりと書かれていた。どんだけぼんやりしていたんだろう、と廉は自分に呆れた。役員はやってみたいと思っていたのだが、どうやらその全てを逃してしまったようである。と、後ろからツンとつつかれる。訝しげに振り返ると、人懐っこそうな笑みの女子生徒と目があった。何?と聞く前に小声で話しかけられる。
「ずっとボーッとしてるけど、大丈夫?」
 くすくすと笑いながらそう言うと、女子生徒は小首を傾げた。あ、と廉は一瞬バツの悪そうな顔をするが、大丈夫、と自身も笑いながらそう答えた。その女子生徒はもう一度クスリと笑うと、視線を前の黒板へと移した。そういえば彼女の名前はまだ分からない。席替えをし、名簿順ではなくなったこの席では彼女の名前を知る手段がなかった。
 やがて授業終了のチャイムが鳴り響いた。


 昼休みだった。午前中はHRと健康診断で終わり、午後から早速授業が始まる。真新しい教科書を鞄の中に見、期待と不安と出いっぱいになりながら席を立つ。女子生徒はいつの間にかうち解け合っていたようで、弁当やコンビニの袋が並べられた机がいくつか並べられている。甲高い声が教室中に響く。全部で28人のこのクラスは、13人が女子である。その内の殆どはその並べられた机へと集まっていた。残りは学食だったり他のクラスだったりと移動しているのだろう。対して、教室に残っている男子の数は少なく今いる女子の人数よりも数はないだろう。大半が売店や学食だと思われる。
 昼食をまだ買っていなかった廉は、立ち上がると売店へと向かった。学食といった場所は彼にとってはある意味未知の場所であり、もう少し様子を見てから入ってみようというのが彼の見解だった。教室を出る時に数人の男子に声を掛けられたが(一緒に昼を食べないか、というものだった)、今から昼食を買いに行く、と言うと、分かったと返ってきた。あぁまた名前が分からない、と廉は胸中で呟くが、一緒に昼を食べていれば名前も覚えられるだろう、と思い直すことにした。
 所々に置かれた校内地図を頼りに売店へとたどり着くと、まだそこには数人の人が残っていた。雰囲気からして先輩に当たる人たちだろう。売店の係の人と親しげに話している。足を止め、入り込んで良いものかと考えていると、廊下の隅っこに落ちたものへと視線が移った。黄緑色の封筒には久桜高校の校章や住所や電話番号が印刷されており、学校独自のものであると分かる。廉はその封筒を拾い上げ、くるくると全体を観察する。真ん中には手書きの黒マジックペンで、「生徒会宛」と書かれていた。封はまだしてあり、「生徒会」とやらにはまだ届いていないのだろう。どうするべきかとひとしきり悩んだが、さすがに再度放置しておくのも如何なものかと思い、売店へと足を向けた。
「あの、すみません」
 おずおずと声を掛けると、話を中断してしまったにも関わらずにこやかに先輩たちは場を譲った。すみません、ともう1度言うと、売店の係の人だけでなく彼らにも見えるように封筒を持ち上げた。
「あの、こんなのが落ちてたんですけど、職員室に持って行った方が………」
 問いかけの後半は言葉にはならず、そのまま消え入るように途切れた。それは、穏やかだった場の空気がさっと冷えた所為だった。なにかマズい事でも言っただろうかと不安になる廉だったが、彼らの表情は怒りなどではなくただの困惑や好奇心と言ったものへと移っていた。状況が読めず、廉は首を傾げた。
「それだったら」
 1人の先輩が言った。
「職員室より、直接生徒会室に持ってった方が良いと思う」
 彼の言葉に他の生徒達は顔を見合わせる。どう思う?という小声も聞こえる。一体それが何を意味しているのかさっぱりな廉である。売店の人も様子が分かっていないようで、キョトンとしている。目が合うと、同時に小首を傾げてしまった。封筒を拾ったことが良いことなのか悪いことなのか、見当が付かない。しかし提案されたものを断るのも悪いと思い、少し考えて1つ頷いた。
「生徒会室ってどこにあります?」

△▽△▽△

 うっかり昼食を買いそびれてしまったことに気付いたが、売店を離れて結構経ってしまった。1度校舎を出、正門から延びる緩い坂道を上り、校舎の裏側が見える位置までやってきた。そんなに遠くないとは言え、上り坂。廉は立ち止まると、一息ついた。目の前に経つ2階建ての白い建物は、校内に立つ一施設としては些か豪華すぎるような気もした。売店にいた生徒の話によれば、この2階建ての建物が丸々生徒会室なのだそうだ。室じゃない、と廉は内心突っ込みを入れた。
 扉は開いており、そこから中を覗き込む。声はしないが、誰も居ないという雰囲気では無さそうだった。入って良いのだろうかと思案したが、ここで躊躇していては昼休みが終わってしまう。思い切って、彼は足を踏み入れた。
「何してるんだ」
「うわああぁぁぁぁぁ!」
 背後から突然掛けられた声に思わず廉は大声を上げた。慌てて振り返るとそこには長身の男の姿。きっちりと着込んだブレザーは学校指定のものだったが、中に着ている真っ黒なシャツは明らかに校則違反のものだった。青灰色のさらりとした髪がかかる細い銀縁眼鏡の奥で、鋭い瞳が廉を睨み付けた。
 何か言われるか、と思った廉の心情をよそに、彼は廉を置いて中へと入って行ってしまった。中へと視線を移すと、彼はエントランスの右にある部屋へと入ったようだった。扉がガチャリと閉まるのを確認すると、廉はこっそりエントランスへと足を踏み入れる。
 ここが学校の施設内であると言うことを忘れさせるかのような、豪華な作り。真正面にある幅の広い階段は2階へと続いている。エントランス部分は吹き抜けになっており、その高い天井からはこれまた豪華なシャンデリアが吊り下げられている。ポカンと口を開けたまま見上げてしまった廉だったが、踏み込んだ足の妙な感触に視線を下へ向ける。
「げ、絨毯」
 まるでお城だ、と見たこともない城の内部を連想させる。妙な感触はふかふかの絨毯で、さっきの男が歩いていくところを見ていなかったら、靴を脱いで上がっていただろう。それでも不安になりながら1歩ずつ足を進めた。
 階段の奥に大きな扉の1部屋。左手にそれなりの大きさな扉の1部屋。そしてさっき男が入って行った右側の扉は、左側の扉と大きさも色も全く同じような扉だった。扉の上には、「集合室」と下手くそな字で書かれている。鈍い金色のプレートは威厳たっぷりに見えるのに、その油性マジックで書いたような字のせいで全てが安っぽく見えた。
 とりあえずは誰かに聞かなければ、そして早くこの場を立ち去ろう。それが今の廉の心境だった。先程タイミングを逃してしまったが、この部屋にはさっきの彼がいる。だったらそれで終わりじゃないか。そう思い、廉はそっと扉をノックした。
「はーい」
 返ってきたのは垢抜けた声で、先程の男のものとはほど遠い声。きっと他にも誰か居たんだ、そう思った廉は扉を開けようと取っ手に手を掛けた。が。
 ばたん
 手を掛けた途端に取っ手が下がり、掴み損ねたと思った次の瞬間には扉が目の前に迫っていた。咄嗟のことに避けることも出来ず、気付いた時には扉に押されて後ろへとよろめき転んでいた。右手を扉で、左肘を床で強打した気がする。
「あれ、いない?」
「います」
 典型的な台詞の直後に廉が声を上げると、扉を開けたと見られる男子生徒がこちらを向いた。セミロングの金髪は毛先が赤く染められ、着ているのは学校指定外の薄手のパーカー。さらにその下にはTシャツにダメージジーンズと、全く制服らしきものを身につけていない男だった。ポカンと口を開けて廉が黙り込んだままでいると、慌てて彼は手を差し出した。
「ゴメンゴメン。大丈夫?」
 相手が左手を差し出したが、廉の左手は封筒を持っているため塞がっていた。右手を出してから相手の手が左手であると気付き、動きを止めた。相手もその様子に気付き、廉が手を入れ替える前に笑って右手を差し出した。腕を引き上げられて、立ち上がる。
「怪我してない?」
 廉の姿を上から下まで眺め、彼はそう言った。不思議そうな視線を送っている。
「あ、はい。大丈夫です」
 慌てて廉はそう答えると、大きく頷いた。そして彼から問いかけられる前に自分の用件を伝えた。
「あの、生徒会室ってここですか?落とし物があったんで持ってきたんですけど―――」
 ガタンと、何かが倒れる音がした。
 ん?と不思議に思い、音のした方へと視線を向けるとそこは室内で、中には広い机があり。並べられた椅子の1つに腰掛けていたと思われる先程の長身の男が、立ち上がってこちらを見ていた。どうやら今の音は椅子が倒れた音だったらしい。男の視線はさっきと変わらず鋭いが、今の様子は驚きといったものに見える。
「落とし物って、もしかして」
 目の前の赤い髪の男が呟く。廉は封筒を差し出すと、これです、と付け加えた。生徒会宛、と書かれた封筒を受け取ると、赤い髪の男は素早い動きで室内へと駆け戻る。そして長身の男へとそれを受け渡す。2人の顔は下を向いていたが、なにやら封筒をくるくると裏返しつつ、確認をしているようだった。その間廉は、どうしたものかとただ呆然と立ちつくしていた。
 そして数十秒が経った後、赤い髪の男がまた戻ってきた。それもまた、素早い動きで。廉の前で止まると思っていたその動きはぶつかるまで止まらず、視界が塞がれた廉は今何が起きているのか理解するのに少し時間が掛かった。背中にも何か感触を感じる。
「よかったぁぁぁぁああ!久し振りにメンバーが増えた!」
 バンバンと背中を叩かれ、ようやっと廉は、赤い髪の男に抱きつかれているのだと気付く。疑問符だらけの頭を整理する間もなく飛んでくる言葉に、廉は眉をひそめる。メンバー?
 グイッと肩を掴まれ抱き着きから解放されると、赤い髪の男は嬉しそうに大きく笑った。
「キミ、名前は?」
「え、三鷹廉ですけど」
「レンレンね。俺は高須咲希。生徒会副会長。よろしく!」
 妙なあだ名で呼ばれた気もするがあまりの勢いに突っ込む気も失せる。放っておくとぴょんぴょんと跳ね出すのではないかと思われる彼に、廉は困惑の表情を浮かべた。部屋の中で椅子を起こして座り直している男に助けを求めるように視線を送った。
「キオ、そのくらいにしておけ」
 祈りが通じたのか、長身の男は咲希へ向けて声を掛ける。廉の肩を掴んだまま咲希は振り返る。
「嬉しくないの?久し振りだぜ?」
「過剰反応すれば逃げるだけだ」
「あ、そっか」
 淡々とした会話の後、廉はあっさりと解放された。今の内に逃げてしまうべきだったのかもしれないが、一歩後ずさったところで咲希に声を掛けられる。
「あの奥にいるのね、赤星柳っつうの。生徒会長ね」
「はぁ…」
 息をつくだけしか返事の出来ない廉だったが、不意に冷たい視線を感じた。はっと顔を上げると、いつの間にか柳が咲希の背後へと来ていた。ビクリと肩を上げ、一歩下がる。
「貴様人の名前を聞いてはぁとか言ってんじゃねえ。もっと讃えろ」
「はぁ?」
 状況が全く読み込めない。絶対零度の視線が突き刺さるが、その間に立つ咲希はニコニコと笑っている。怒られているのか歓迎されているのか全く分からない。けれどその態度が彼の癪に障ったらしい。グッと襟元を掴まれて睨まれる。
「分かってるのか返事しろ」
「わわわわ分かりました!」
 ついさっきまでの静かなイメージは全てぶち壊れる。実力行使にこられるとさすがに従わざるを得ない威圧感だった。冷や汗がだらだらと流れる。
「まーまー、落ち付けって」
 両手でまぁまぁと宥める咲希を一睨みし、柳は廉を解放した。はぁぁ、と盛大に息をつき廉はほっとする。色んな意味での危険を見た気がした。
「えっと、とりあえず落とし物は届けたんで!俺もう戻りますね!」
 廉は隙を見てそう言い放つと即座に背を向けた。これ以上ここにいては面倒なことになると思っての判断だった。あ、と小さな咲希の声がしたが気には留めない。振り返ってはまた引き留められると思った。駆け出し、扉を抜けようとしたその時に、目の前には人影があった。
「うわっ」
 足を止めることが間に合わず、目の前の人物にぶつかる―――ハズだったのだがそうにはならず。ぶつかる衝撃として予想した痛みの数倍もの痛みを腹部に感じ、廉は後方へと飛ばされた。またしても左肘から落下し、強打した。
「ちゃんと前見て歩けよ部外者」
 聞き覚えのある―――というか出来ればもう二度と聞きたくなかった声が上から振ってくる。複数の足音は咲希と柳のものだろう。結局追いつかれてしまったという溜め息と、なんで今日はこんなに転んでばっかなんだろうという複雑な心境が渦巻く。意を決して身を起こして辺りを見回した。
「あ、なっちゃん」
 咲希の声がすぐ横からした。声と視線の先には、やはり廉が思った通りの少女の姿。ふわふわのスカートと淡い色のウェーブの髪。視線と口元さえ見なければ絶世の美女なのに、と廉はこっそり思った。
「スーチ。誰、この子」
 少女は怪訝そうに咲希へと声を掛けた。その声は非常に不機嫌で、表情も不機嫌の塊で。早くこの場を立ち去りたいと廉は思うのだった。しかし前には少女、後ろには柳、右には咲希と。少々逃げるには勇気のいるポジションだった。
「廉くん。これ届けてくれた子」
 そう言って咲希は、黄緑色の封筒を柳から受け取り少女へと渡した。途端少女の顔が歪む。言葉にせずとも理解できた。非常に不愉快なんだ、と。廉の姿をギロリと睨み付けるように眺めると、少女は口を開く。
「あたし反対」
「無理、決まりだから」
 少女の言葉を、咲希はにっこりと即刻却下した。少女の顔が更に歪められる。そんな少女を無視して咲希は、廉へと向き直った。
「この子ね、眩撫子。風紀委員長」
「え、それって」
 本名?そう尋ねようとして、冷たい視線が2対、自分を睨み付けていると気付き言葉を止める。もしかしてこれは、頷くしかないのだろうかと廉は諦めた。そうですか、と無難だと思われる返事をする。けれどやっぱり彼らの視線は冷たいままだった。
「とーにーかーく。レンレンも今日からカラフルのメンバー入りなんだから、仲良くしろよ」
 咲希はパンパンと手を叩きながら3人の視線を集める。柳と撫子はむすっとした表情のままそっぽを向く。対して廉は、聞き慣れない単語に首を傾げる。しかし尋ねようとした時に、壮大な鐘の音が響く。この建物の方が校舎よりも標高が高いため、校舎の隣に建つ時計塔の鐘の位置に近い。大きく響く鐘の音は、午後の始業を始めるチャイムの音でもあった。廉の顔はさっと青ざめる。
「すみません午後の授業始まるんでもう戻りますね失礼しました!!!」
 勢いに任せて3人の隙間を塗って慌てて廉は飛び出した。スピードがあれば逃げられるのかもしれない。もう彼らに足を止められることはなかった。
 扉を抜け坂を下りだした頃には、鐘の音は止んでいた。
「(皆勤賞狙ってたのに!)」
 胸中で思い切り叫ぶと、廉は下り坂を勢いよく駆けだした。