がくせん!まとめ (〇□〇)
「玉子焼きの話」
寮に入って、少しだけ勝手に慣れた頃だった。
カンナは男子寮内の共同台所にぽつんと立ち尽くしていた。台所と言ってもガスコンロが二口と小さな流し台、それに作業スペースがあるだけの簡易なものである。インスタント食品を食べるためにお湯を沸かすには充分なものではあるが。
作業スペースにはいくつかの調味料のボトルや袋が、「ご自由にお使いください」と書かれた紙を貼られて無造作に 置いてある。簡単な料理を作りたいが、調味料があからさまに余ってしまう。そういった学生に向けて誰かが置いているものなのだろう。いつから置かれてるのか―――それは考えないことにした。ボトルに書かれた賞味期限はまだ先の日付であるので、とりあえずはまあ、問題はなさそうだった。
そんな台所を見ながら、正確には並べられた調味料を見ながら、カンナは唸っているのだった。
作業スペースに置かれているのは買ってきたばかりであろう4個入りパックの生玉子。調味料と同じく「ご自由にお使いください」と置かれていたボウル、フライパン、菜箸。ひとまず使いそうなものを取り出してみただけ、といったラインナップを前に、しかしそれ以上の行動が行われていなかった。
玉子焼き。カンナが作りたかったのは、ただそれだけだった。朝起きて唐突に玉子焼きが食べたくなったのは、他でもない、玉子焼きを食べる夢を見たからだった。夢の中ではあったが味もしっかり覚えている。甘い。
「甘いってことは、砂糖、だよね…?」
誰宛でもない独り言を呟き、調味料たちを見回す。記憶の中で、確か砂糖は白い粉のようなものだったはずだ。ボトルでなければ袋のどれかなのだろう。ありがたいことに、買ったままのパッケージの袋に入っているおかげですぐに「砂糖」の名前を見つけることができた。スプーンで少し掬い、ボウルの中に放り込む。
「えっと、それで玉子を…玉子、を」
砂糖の 袋に封をして元の場所に戻すと、カンナの手は再び止まった。玉子を使うことは分かる。が、玉子の使い方が分からなかった。玉子を手に取ってみても、まさか刃物で切るわけでもなかろうという堅さの殻であることしか分からない。
しばらくの間、無言の睨めっこが続いた。当然の如く、先に観念するのはカンナの方だった。
「……やっぱ、無理だよね」
諦めたように笑うと、カンナは手にしていた玉子をパックの中へと戻す。備え付け られている冷蔵庫を開けて覗き込み、スペースが余っていることを確認すると一旦扉を閉める。辺りを見回して紙とペンを見付けると一言、「余ってしまいましたので、ご自由にお使いください」と紙に書き記す。それを玉子のパックにぺたりと貼り付けると、冷蔵庫の中のよく見える位置に置いた。きっと誰か、せめて玉子の使い方が分かる人が使ってくれるだろう。
どうせ味付けだって分からなかったんだ。食べたかった味を、料理を全く やったことのない自分が再現できるわけもない。
バタンと冷蔵庫を閉じると、今度は出してしまった調理器具を片付ける。ボウルに入れてしまった砂糖は、すみません、と呟きながら、何も混ぜていないのを自分の中での言い訳にして、砂糖の袋の中へと戻した。
そうして出したもの全部を片付け終え、台所を元の状態に戻した後、カンナはその部屋をあとにした。もうあの玉子焼きは食べられないんだろうなぁ。そう思いながら。
カンナ が台所に立ったのは、それが最初で、おそらく最後だった。