Encounter

01
 風が揺れる。光がきらめく。静かな、静かな森の朝。聞こえる音は、木々のざわめきと小鳥のさえずり。そして小さな寝起きの声。

「んん…」

 森の中で、1人の少女が目を覚ました。立派に枝を伸ばした巨木の下の、平坦になっている地面に横になっていた少女。彼女はちょうど今起き上がる所だった。その彼女を柔らかな風が包み、キラキラと太陽に反射して光る髪を揺らす。
 森に名はない。名のない、大きな森。それはリュート大陸の東の端に、巨体を丸めたクマのようにひっそりと、ずっしりと存在していた。
 少女が起き上がると、周囲に落ちた木の葉が舞い上がる。風が、巻き上げた。それを不思議と見る訳でもなく少女は、そんな目に映らぬ友達に声をかける。

「おはよう、みんな」

 少女が微笑むと、答えるかのように木の葉が、否、風たちがいっそうくるくると回り出した。つむじ風。彼らは空気を揺らす事で少女へ返事をしていた。風の声は聞こえない。揺れる空気で風の言葉を聞くしかない。少女は空気の揺れを敏感に感じ取る事が出来た。そして少女の声は風に届く。こうして彼らの会話は成り立っているのだ。

「ね、今日はなんの日だか分かる?」

 端から見ていれば独り言のような行動も、彼らにとっては立派な会話。端から見ているものなど、居なかったが。
 少女の高い声は、森中に響く。反響こそしないものの、広い森の奥深くまで澄み渡っていくような、そんな感覚。まるで少女自身も森の一部であるかのように、声は遮断されることなく森の中へと溶け込んでいった。風は、ひらりと薙いだ。

「うん。今日は光が森に来た記念日だよ」

 にっこりと、嬉しそうに。風の少女は風のように言葉を紡いだ。流れる言葉は途切れを知らぬかのように続く。

「もう1年経ったんだね、ここに来て。うん、光、こういう日付覚えてるの得意なんだ。光ね、ここに来る前はすごく淋しかったんだよ。淋しくて、苦しくて、でもここに来て良かった。風さんたちに会えてすごく嬉しかったよ。ありがとね」

 くるくると、まわる。
 ただそれだけで少女へと言葉は届く。それが分かっているから風は回る。風は励ましている。悲しくないと。礼を述べている。ここに来てくれて有り難うと。そして、挨拶を述べている。またよろしく、と。言葉が伝わったらしい少女は、愛くるしい表情をいっそう破顔させた。
 少女は立ち上がり、風と共に回った。こうして少女の朝が始る。風におはようを告げ、風と踊る。それが朝の日課。ゆったりとした時間の始まりだった。





「え、…人が来てるの?」

 朝ご飯に、と採っておいた赤い木の実を手にして、再び少女は風の声を聞いた。挨拶ではない。森の中の状況説明、とでも言うのが妥当だろう。森中を瞬時に駆け回れる風たちは、森中の情報を把握している。そんな風からの連絡。それは、この森に人が来た、という事。首を傾げる少女の反応も、不思議ではない。あまりに広大な森は鬱蒼としている訳ではないが人が寄りつかない。森の近くに街がない事もあるが、何より似たような景色の続く森の中は、迷いやすい。
 近くにいるよ、との声を聞いた少女は慌てて周囲を見回す。見回しても人影は見えず、少しだけ不安の色を浮かべる。そこにまた風の声。

「…子供?光と同じくらいの…」
「誰かいるのか?」

 風と会話していた少女にとっては、あまりに唐突な登場だった。疑問を声に出した時に、ちょうどその相手が現れたのだ。驚きのあまり、少女の動きは止まってしまう。風も、動きを止めた。
 現れたのは少年で、驚きと不信感と好奇心の入り交じった瞳で少女の事を見ていた。背格好は細身で少女より高い。赤茶の髪に白い鉢巻きをして、長めの前髪を上げているようだった。歳は、少女とそう変わらないだろう。

「…1人?」

 少年は辺りを見回してから、再び少女に目を向けた。そして意を決したかのように、一拍置いて更に問いを投げかけた。

「誰だ?お前」

 少女は戸惑っていた。元々人と話す事は、慣れていない。それどころか、ここの所はずっと人に会っていない。なんと言うべきか、どんな表情をするべきか。風を相手にした時は考える事もなくすんなりできる事が、今は考えても分からない。考えている間に、また少年が口を開いた。

「なんだよ、自分の名前も言えないのか?」

 どうにもこうにも浮かばない悩みの答えは、自分の立場の方が上だと言わんばかりの少年の言葉によって考え出される事を止めた。

「なぁに?偉そうにして。相手に物事を尋ねる時はまずは自分から名乗るべきでしょ?礼儀も知らないの?」
「は……?」

 少女の物言いに間違いはない。間違いはないが、おろおろとしていた少女から突然そう言われ、少年の方こそ戸惑ってしまったようだった。

「光はずっとここにいるんだから、あなたより先輩なんだよ。そんなに威張ってたら風さんたちに怒られちゃうんだから」

 呆然、と。思わず言葉を失ってしまった少年の表情は、面倒な奴に会ってしまったと言わんばかりのものだった。少女の言いたい事は何となく分かるものの、そこに真面目に返すべきなのかと考えてしまう。それに、風に怒られるという言葉の意味もよく分からない。しかし何も言わずに引き返せば、追ってきそうな雰囲気は漂っている。面倒を避けるためにはもしかしたら、彼女の言う通りに名乗るしかないのかもしれない。その考えに行き着いた少年は溜め息をひとつつき、仕方なしに口を開いた。

「オレは火立遊龍。森に来てみたらお前がいた、以上」

 簡潔にそう言った少年は、少女の様子を見る。キョトンとはしているが不服ではなさそうである。ざわりと音を立てた木々を思わず見上げ、そういえば今まで無風であったと気付いた。再び森の中を風が走り出した。
 少女は風の音を聞き、やはり高い木々を見上げた。隙間に見える空は明るく青く、流れる雲は純白で、初夏の朝にふさわしい色をしている。視線を少年に戻すと、なんだか無性に嬉しくなって笑みを浮かべた。

「光はね、遠風光麗っていうの。難しいから、自分では光って言ってるんだけど」

 少年から見れば、何が面白いのか分からない程に少女は笑っていた。おどおどしたり、怒ったり、そう思えば笑顔になる様子は、忙しい奴だとさえ思えてくる。しかしその様子に、不思議と不快感はわかなかった。

「えーっと、だからそう、よろしくね、遊」

 前言撤回、ちょっと待て。

「や、あの、遊龍だから。てか、いきなり呼び捨てッすか」
「えー、だって遊龍より遊の方が呼びやすいよ。光の事も光でいいから」

 あれ、もしかしてオレって格下に見られてる?
 そう思ってしまわなくもない状態に、とりあえずひとつ溜め息。あまりにもにこやかに返されたもんだから、余計に返す言葉が見つからない。もう少し違う表情が混じっているのなら、からかいや悪意がほんの少しでも見えたのなら、反論する気も起きたのだろう。

「ね、遊も森に住むの?」

 あ、そう言えば呼び捨ての部分はスルーされてる。気付いたものの、既にそこに突っ込む気力もない。きっと返した所で納得する答えは得られないのだろう。短時間でその部分だけは理解した。なので、別にいっか、と寛大な気持ちで少女を許す事にした。

「住むかどうかは分かんねーけど。そう言うそっちは森に住んでんのか?」

 周りを見回せば、木。店とか家とか、街にはあって当たり前のものは、森にあるワケがない。少女1人で森に住む―――つまり少女1人で森で野宿だ、度胸とかそう言うもの以前に、物理的に可能なのかと疑ってしまうのも無理はない。けれどやはり返ってきた答えは思っていた通りのもので。

「うん。ちょうど去年にここに来て、それから1人暮らし中!」

 にっこり笑ってVサインを示して見せた少女の周りを、風が回った。金色の髪が揺れ、風に弄ばれる。よく考えれば不思議な光景は、まだ少年の目には止まっていない。

「なんで?」

 当然のように問われる問いに、ずっと笑顔だった少女は初めてその表情に翳りを見せた。聞いちゃマズかったのかと少年は気付くが時遅し。しかしこのまま会話を続けていれば、いつかこの話題に行き着いただろう。恐る恐る少女の様子を伺う。少女はすぐに笑顔に戻るものの、先程の満面の笑みとはどこか違う、翳った笑みを浮かべた。

「うーんとね、光のお父さんとお母さん、いなくなっちゃって。だから住む所なくなっちゃって、ここに来たんだ」

 凄惨な光景は脳裏に封じ込め鍵をした。穏やかな日々はその鍵の存在を忘れさせた。けれどやってくる夜に鍵は溶かされ、雨が降れば記憶は甦る。朝起きたら泣いていた、なんて事は日常茶飯事で、いつも風に慰められていた。
 表情がくるくる変わる活発な少女、というイメージに、少年は幼さを付け加えた。幼い故の好奇心、元気さ。しかしそれでいて寂しがり屋なんだと、少年はそう感じた。

「あ、でもね!淋しくはないんだよ。風さんたちとお友達になれたから」

 少年はこの時になって初めて違和感を感じた。少女の言う“風”というのは、まるで誰か人のような話しぶりである。しかしここには誰もいない。自然の風のことを言っているのであれば、それは些か妙な話ではある。
 風が回る。少女の金の髪と、少年の赤茶の髪を巻き込んで、揺れる。少年は1つの可能性を思い出した。

「なー、お前さ。風と話せる………ワケ?」

 もしこれが見当違いならとんでもなく恥ずかしい質問だ。そう思いつつも、心のどこかでは確信していたのかもしれない。少女は直前の会話の翳りをまだ残していた。しかし少年の問いにキョトンとした表情で返し、そして言葉を続けた。ゆっくりと、笑顔で。

「うん、そうだよ。風さんの言葉は聞こえるし、風さんも光の言葉を聞いてくれる。光は風の属性者だからだって、お父さんが言ってた」

 属性者。
 自然の力を操る者の事で、極稀に、そういった能力を持って生まれてくる者がいるという。ここ、リュート大陸での伝承である。その扱いは千差万別。ある村では崇められ、ある街では畏れられる。操る能力は1人につき1つまで、能力の数は未知数。知られている情報はその程度しか無く、属性者自身も詳しく知らない事の方が多いと言われている。
 リュート大陸にある街、ロザート。他の街が属性者を受け入れているのに対し、この街だけは属性者を畏れおののき忌み嫌っている。自然の摂理に反しているだの、人に害をなすだの、言われようは多々あるものの、やはり一番は“人間ではない”というものであった。そんな街で生まれてしまった属性者は、隠し通すしか道はない。けれど子供は、そういう事に気付かない。
 少女は、ロザートで生まれた子供だった。
 自分が生まれた時、親は周囲に同情された。そして親が死んだ時、自分は犯罪者にされた。

「光ね、この力、すごく嫌だったの。お父さんもお母さんも悪く言われて………。でも森に来たら、すごく好きな力になったの。風さんとお話ができるって、すごく楽しいって気付いたの」

 少年はうっかり、柄にもなく微笑みそうになった。慌てて表情を押し殺したが、なんだが無性に嬉しくなった気持ちだけは抑えられなかった。

「なんで笑ってるの?」

 少女が不思議そうに尋ねる。風も疑問を感じている、と少年は感じた。少年は、自分でもなぜ笑っているのか分からなかった。可笑しいわけではない。それだけは分かる。気持ちを落ち着かせるために一つ息をついて、そして言葉を選んだ。

「オレもな、親がいない。ってか、いなくなった」

 笑顔から発せられた言葉に少女は固まった。思った通りの反応だと、少年は思った。別に驚かしたかったわけでもないし、同情されたかったわけでもない。ただ、伝えておきたかった。

「一昨日、家が爆発に巻き込まれて、燃えて。それで2人とも」

 少女はまだ黙っている。続きを待っていると言うよりは、言葉を探しているように見えた。口が微かに動くのを見ていると、なんだか罪悪感を感じる。けれど少年は言葉を続けた。

「自棄になりそうだったんだけどな、森に………ここに来て、お前がいてさ。ちょっと良かったって思ってる。なんか、落ち着いた」

 少女が顔を上げた。少年に視線を向けてくる。やっぱり口はまだぼそぼそと動いていて、言葉を探しては却下して、また探して、の繰り返しを行っているようだった。けれどその口が、不意に止まった。風が一陣、吹き抜けた。途端に、少女の瞳から涙が零れた。

「って、何でお前が泣いてるんだよ!」

 ギョッとして声を上げた。驚かれたり慌てたりという予想はしていたものの、流石に泣かれるとは思っていなかった。今度はこちらが驚く番だった。

「だっ…て、悲しいじゃん。遊は泣かないの?悲しくないの?」
「男が泣けるか!」

 やっと出てきた少女の声は、泣いているせいで上擦っていて。風がくるくる回って慰めて、時折少年に流れてくる一陣に、え、オレが泣かせたの?と少年は焦る。何も言えなくなって少年は黙り込むと、とりあえず風に任せることにした。不思議な光景ではあるが。





「慰めてくれてもいいじゃん」

 涙を収めた少女の第一声は、少しだけ不機嫌で。再びギョッとした少年は、バツが悪そうに頭を掻いた。掛ける言葉がない。

「ねえ、遊。行く所がないならさ、ここに居て良いよ」

 ふっと、少女がそう言った。少年は顔を上げる。一瞬前の不機嫌な表情は既にそこにはなく、にっこりと、でも少しだけ不安げな顔で、少女は少年を見据えていた。風が止まり、森の音が消える。誰も居ない、でもきっとそれは、風が動きを止めたから。風が動き出せば、他の生き物たちも動き出す。ただ今は、少しだけ2人の様子を見守っているだけ。
 少年は考える。行く場所は―――無い。ここに来てどうするつもりもなかった。他の街に行けば生活はどうにか出来るかもしれない、けれど。ぐるぐると考えても、今の考えを否定する程の材料は出てきやしなかった。

「ここに居て良いなら、居座るぜ?」

 吹き抜けた風は、歓迎の意だろうか。
 少しだけ賑やかになった世界を、少年は見回した。何もない。でも、何かがある。先のことが見えないなら、先のことを創ればいい。風がそう言っているように聞こえた。少女に視線を戻すと、嬉しそうに大きく頷いていた。



***

 月日が流れるのは早くて。あっという間で。

「ねぇ遊ー。今日のお水当番、遊だよー!」

 甲高い声で叫んだ光麗は、木をくり抜いて作った容器を持って大きく手を振っている。視線の先には、目を擦りながらこちらに歩いてくる遊龍がいた。寝起きでその表情は不機嫌そのものだった。

「昨日行っただろーが、オレは…」
「でも今日はオレが行くって昨日言ってたじゃん」

 寝ぼけた頭で、そんなこと言ったっけ、なんてぼそぼそと言えば、言った!と元気な声が返ってくる。光麗は毎日が早起きで、日の出と共に起床するのが日課だった。そしてその習慣に1年経った今でもついて行けない遊龍は、毎朝眠い目を擦るハメとなる。


E495年、7月。

 まだ噛み合ってもいない歯車は、少しずつ、ゆっくりと、その役目を果たそうと動き始めていた。