Encounter

08
 すっと冷たい空気が流れている。光麗はひんやりとしたその空気に身を震わせて身体を起こした。辺りは白。ぼんやりする頭を振り目を擦るが、その白が晴れることはない。光麗は首を傾げた。
 森の中を移動したあの日から3日経った朝だった。歩いては立ち止まり、休息を取ってはまた歩く。ぼんやりとした何もない日々が続き、すっかり蒼い髪の男のことについて忘れていた頃合い。目を覚ました時に辺りには何も映らず、風の声も聞こえず。光麗は少しの不安を覚えた。静かに目を閉じ、そして口を小さく動かしたがそれは言葉にはならず。そっと目を開けてもやはりそこには白の世界が広がるばかりだった。
 霧。
 細かな粒が流れるこの様子に、一言の単語が浮かんだ。無言で辺りを見回して、そしてふと気が付き口を開く。

「遊………涼ちゃん………、竜くん………っ」

 一緒にいたはずの3人が見当たらなくて。か細い声で呼びかける。見えない視界をぐるぐると見回して、何度か彼らの名を呼んだ後、白の奥から声が返ってきた。

「光、大丈夫?」

 チカリと、光が見えた。断続的に光るそれは、おそらく涼潤の雷。距離は全く離れていないのに、その光以外に見えるものは何もなかった。不安げな足取りで立ち上がり、数歩歩くとぼんやりと涼潤の影が見えた。慌てて駆けだして、そこに他の2人の姿も見つけた。安堵したように顔を歪めると、両の目から涙がこぼれ落ちた。

「怖かったぁ!」

 駆け寄った勢いで涼潤に飛び込むと、光麗は大声で叫んだ。ゴメンね、と涼潤は彼女の頭を撫でる。離れ離れになったわけでもなかったが、この濃い霧は視界を完全に遮断している。すぐ目の前の光麗はまだ見えるが、少し、と言っても2,3歩程の距離だ、その程度離れただけでも霞んでしまう。
 落ち着いてきた光麗の様子を見計らって、涼潤は声を掛ける。

「ねえ、光。この森、こんなに深い霧が出る事ってあった?」
「ううん、初めて見た。こんな奥までは来たことないから、こっちはどうなんだか分からないけど………」

 休息の為にと立ち止まった昨日の夕方。風に問うと、既に森の中央へと来ているとのことだった。ゆっくりではあるが3日間歩き続けて、それで中央。もしかしたら一直線ではなく、回り道をしながら歩いているのかもしれない、と可能性を話したのは涼潤だった。
 道中、小川が流れていたり木の実がなっていたりと、食料に困ることはなかった。時々池などもあり、同じように見えていた森の景色の中に、違いを探すことが光麗の楽しみになっていた。よく見れば似通った木々にも、同じ形のものはない。当たり前のことに気付いて、それが楽しかった。

「とにかく、原因を探さないとね」

 涼潤が呟いた。光麗が顔を向けると、涼潤は右手を顎に当て考える素振りを見せていた。何も見えない白の視界に、何かを見つけたように視線を投げかけている。光麗はその姿を不思議そうに眺めた。

「原因?」
「そう。こんな霧、異常だもの」
「光の風でこれ吹き飛ばせねーの?」

 遊龍の声に、反射的に光麗はそちらを向く。不思議な霧を見上げたままの遊龍は、怪訝そうな顔をしている。涼潤のようには落ち着いていない。竜神はぼんやりと見上げているだけのように見える。落ち着いていると言うより寧ろ、諦めている。
 遊龍はもどかしかった。自分が炎属性のせいか、周りにまとわりつく水滴に無性にイライラしている。払うことも出来ず、消し去ることも出来ず。もし自分が水属性だったら、この霧も消すことが出来るのだろうかとさえ思う。しかしその“水属性の彼”が何もしないところを見ると、そういう事は出来ないのかもしれない。
 遊龍の疑問に対して、涼潤はそうね、と頷く。光麗に向き直ると、首を傾げてるようにして問い掛けた。

「光、やってみてくれる?」
「うん」

 それは小さな声だったが。無理かもしれない、という弱気な声ではなく、少しだけ戸惑いの浮かぶ声音だった。涼潤はまたチクリと胸を痛める。けれどそうも言ってられず。霧が晴れるのを待つという、気長なことが出来ない性格だった。

「風さん、お願いします」

 光麗の声を聞いて、風が集まる。声がしなくても、その場にいないわけではなかった。ゆっくりとくるくると集まる風は、辺りの霧を巻き上げて渦を作る。渦は次第に大きくなり、周囲の視界が段々と晴れてくる。風の渦が空に舞い上がると、視界に強い光が差し込んできた。―――夜が明けて、大分時間が経っているようだった。陽が高く昇っている。光が届かなかった所為で低かった気温も、徐々に上昇する。周りの湿気も次第に和らぎ、遊龍はほっと胸をなで下ろした。

「風さん、ありがとう」

 光麗は静かに、しかし嬉しそうにそう礼を言った。風はくるりと一回りすると、数枚の木の葉を巻き上げて空へと飛び立った。

「一体、どうなってんだか」

 ぼんやりと呟くように、涼潤が言う。竜神も、霧が巻き上げられた先の空を見上げるように睨む。陽の光が眩しい。澄み渡る青には雲ひとつ無く、霧が充満するような天気ではない。だから思い付いた可能性をひとつ、涼潤は呟く。

「誰かいるわね」

 霧が完全に晴れると、遊龍は辺りを見回して思わず走り出した。見えている異常はないが、何もないはずがない。涼潤の言葉でその考えを更に確定させる。不安に駆られて、動かずにいられなかった。竜神も、遊龍とは違う方向へと走り出していた。浮かぶ表情は苛立ち。
 思わず走り出した2人だったが、この時走り出したことを後に2人は後悔することになる。



***

「ったく、今度はなんなんだよ!」

 一人歩きながらぶつくさと呟く。時折大きくなる声は不安を押し隠しているもの。走り出したのは良いものの、いつどこでどんな奴に遭遇するかだなんて分からない。歩くのは道ではない。鬱蒼と茂っているわけではないが、木々の間を通り抜けて先へと進んでいく。
 遊龍は足を止めると辺りを見回した。誰も居ない。誰かがいたような気配もない。そもそも、この辺りにも霧が立ち込めていたのかも分からない。そう言えば何も考えずに走り出していたんだった、と遊龍は今更ながらに思い付いた。

「さっきの霧、絶対Mistyとかいう奴らのだろーなー」

 声に出して呟く。周りには誰も居ないからだろうか、つい声が大きくなる。些か大きすぎる独り言だが、本人は大して気にしていない。

「……Misty……。会っちゃったらオレ、やっぱ逃げるべきなのかなー」

 ふと小さくなる声は覇気が無く。誰に問い掛けるわけでもなく空に向かって呟く。正直なところ、自分がまともに戦えるとは思っていない。竜神に言われた、「動くだけの人形を倒す」と言う言葉。癪に障るが冷静に考えれば否定は出来なかった。涼潤の手助けにはなりたい、足手まといにはなりたくない。しかし自分に戦力があるかと聞かれれば、すぐには頷けなかった。
 そう言えば。昔会ったスイワの人は言っていたっけと思い出す。「自信過剰は良くないが、自信喪失はもっと良くない」、と。今の状態は自信喪失だろうが、しかしここで「大丈夫」と言いきっては「自信過剰」に当て嵌まるのではないだろうか。答えの出せない悩みに、遊龍はひとしきり唸っていた。
 と、何かの気配を感じた。
 誰もいなかった草の茂みに、今は何かの気配がある。素早く振り返り、辺りの様子を見回し、しかしそれが面倒になったのか茂みに向かって炎の塊を投げつけた。

「出てこいよっ!」

 バシャリ、と。
 投げつけたはずの炎は一瞬にして消える。水が散らばる音がして、茂みの奥から歩いてきたのは竜神だった。遊龍はゲッと顔を顰める。

「やっぱお前、バカだろ」

 心底呆れたような声で、一言。竜神は言い捨てるようにそう言うと、何かを握るような仕草をする。途端に散らばっていた水は宙に浮き、竜神の手の中へと収束した。そして更にぐるりと腕を伝うと、縄状になった水は動きを止めた。
 遊龍と竜神は別々の方向に向かって走り出していたのだが、どうやら途中でそのコースは一致していたようだった。

「ばっ、…バカってなんだよ、バカって!」

 咄嗟に遊龍は叫ぶが、竜神は涼しい顔で。ちらりと横目で遊龍を見やると、鼻で笑った。

「なにもかもだろ。まず逃げるとか言ってる時点で」
「げ」

 顔を背けて、遊龍は苦虫を噛み潰したかのような顔になる。一番聞かれたくない奴に一番聞かれたくない部分を聞かれた。そんな遊龍に、竜神は追い打ちを掛ける。

「それから、気付くの遅すぎ。いきなり炎投げるな」
「あっそーですか。悪かったね遅くて。……て、ちょっと待て。最後のは自分で危なかったから言ってんじゃねーのか?」
「ばぁか。俺が危ないわけないだろ。証拠に炎は即消火」

 ムッと。遊龍は拳を強く握り締める。眉がぴくぴくと動いてる気がするがとりあえず無視。炎と水という、物理的に考えれば勝ち目のないような状態にイライラしつつも、きっとどこかに打開策があると信じ込むことにする。

「大体、独り言多すぎ。敵に居場所晒してる上、場合によっては敵が逃げる。こういうのは静かに行動しないと意味がない」
「あーそーですか、悪かったねオレがバカで」

 いっそのこと開き直ることにしたらしい。反論すれば倍返しが返ってくるのだ、流してしまえばいい。だが否定しない遊龍の言葉に、竜神はまだ続けた。

「分かってるじゃねえか、そうだよな、お前はバカだよな。何も分かってねえし、首突っ込みたがるし。少しは物事考えて動いた方が良いぜ?身を滅ぼすのがオチだ」
「ご心配どーも。何も分かってないことだって百も承知。けどな、オレだってお前に心配される程バカなままではいねーんだよ、ばーか」
「誰もお前の心配なんかしてねえよ。ただここまで首突っ込んでて何かあったら………………涼が悲しむだろ」
「……………。……あ、そう」

 相当な嫌みな表情が突然真顔となり。何を発するのかと思えば涼潤のことで。あまりにも真顔でそう言われてしまったので、思わず遊龍は返事の言葉を無くす。キョトンとして間を空けた後にやっと返したが、先程までの怒りのボルテージは一気に急降下した。
 惚れた弱みですか、あーそうですか。
 思わず遊龍は溜め息をついた。

「俺が溜め息つきたいところだ……」

 竜がぼそりと言うので、遊龍はちらりと視線を向ける。

「勝手についときゃいーだろ」
「お前のあとなんかにつけるか」
「関係ねーだろ」
「大アリだ」
「ねーよ」
「ある」
「ないッ」
「あるッつうの」
「な」
「うるせえよ、お前ら」

 子供のような2人の言い合いは中途半端に止まる。低い声は、わざとそう出しているようにも聞こえた。突然割り込んだ第三者の見知らぬ声に、2人の視線は一斉にそちらへと向けられる。
 少し離れたところに立つ1本の木。その木の幹に背を預け、地面を見つめている青年をすぐに見つけた。口に咥えた煙草。紫の髪、腰の刀。一風変わった印象を受けるその青年は、ちらりと2人へ視線を向けると静かに言った。

「どっちもバカだ」

 気のせいか、バカと異様に強調された気がする。遊龍も竜神も、黙り込んだまま彼の様子を眺めた。見知らぬ人物に、反論しようとした遊龍の口も何も発することなく閉じてしまった。しばらく間が空いた。

「……Misty」

 ぼそりと呟いたのは竜神で。遊龍はハッとして隣を見やる。自分たちが探していたのは、Misty。誰もいなかった森の中で、怪しいこと極まりない彼の存在にMistyを連想させたのは竜神だけではなく、遊龍も同じだった。しかしそれを認めたくなくて、何も言えなかった。

「よく知ってるな。俺も―――」

 青年は言いかけた。言いかけたがそれは途中で遮られる。
 ダッと走り出した竜神はもう既に臨戦態勢で。右腕に巻き付いたままだった水の縄は青年に向け投げられる。縄だった水は竜神の腕から離れた途端に数個の弾となって青年へと飛んでいく。しかし難なくそれを避けると、青年はニッと笑った。

「…ッ、おい竜!」
「うっさい。Mistyなら早くに潰した方が良いだろ!」
「お前なー!」

 さっき言った台詞をそのまんま返してやりたいよ、と遊龍は胸中で呟く。いきなり炎を投げつけるなと言った本人がいきなり水を投げつけている。どこに違いがあるんだか、とぼんやりと思うが遊龍は頭を振る。どうせ自分が竜神でも同じ行動を取るんだから、咎めるのはやめておこう。結局考えていることは、同じだった。
 竜神はまた走り出すと青年へと向かう。右腕には既に水の縄が巻き付いている。もしかしたら空気中から水分を集めているのかもしれない。
 割って入ることも出来ず、遊龍は呆然と眺める。
 青年から漂う雰囲気も、竜神の攻撃をかわした動きも。遊龍が太刀打ちできるようではないと感じる。かといって竜神なら大丈夫なのかと言ったら、それは判断できない。傍観者の立場を取ってはいるものの、戦局を見極めるなんて芸当、経験のない遊龍には出来ないのだった。
 一方の青年はと言うと、竜神の突然の攻撃に驚くわけでもなく、こうなることが分かっていたかのように平然と構えていた。竜神が地を蹴り青年のすぐ間近へと迫った時、その右腕に巻き付いていた水が腕から離れた。青年はかわすことなく、そのまま水の縄に縛り上げられた。

「(マジかよ………)」

 遊龍は胸中で呟く。竜神のスピードは速かった。攻撃のスピードと言うよりも寧ろ、足の速さ。ああいうのを俊足って言うのか、なんて呑気に考えたあとに、ハッとして青年へと目を向けた。彼は自分を縛り上げている水の縄を、面白そうに眺めている。逃れようともせず、引き千切ろうとするわけでもなく。その様子が逆に、遊龍を不安にさせた。何か、ある。

「観念しろMisty。もう逃げられねえぜ」
「だぁーれがMistyだ」

 竜神の言葉に笑って返したのは、囚われたままの青年で。ムッと竜神が彼を睨み付けると、青年は目を細めて小馬鹿にしたように笑った。

「こんなので捕まえたつもりか?」

 瞬間、水の縄が消えた。
 否。水は消えたのではなかった。細かく、一粒一粒を見ることが出来ない程小さく、分裂した。それは霧。霧散。
 様子を見ていた遊龍も、強気の表情を浮かべていた竜神も。言葉を失った。唖然とする2人に、青年は言った。

「自分たちが強いとか思ってんじゃねえよ。上には上がいるんだ」

 昔聞いたような言葉を言われて、遊龍はドキリとする。けれど今はそれどころではなくて。呆然と彼を見つめる竜神の姿を見やると、今のこの状況をどうすればいいのか余計に分からなくなる。
 散った霧ははらはらと地面に降りていくと、やがてその姿を消した。

「俺は和坂霧氷。言っとくが、俺はMistyじゃない」

 彼の声は最初の時のような低さはない。やはりわざと低く話していたのかもしれない。どことなく楽しそうにそう話した霧氷は、ニッと笑った。
 遊龍はそんな彼に興味を持った。ポカンと眺める表情からは、警戒心が減っている。今は好奇心の方が勝っていると思う。けれど。

「信じられるか、んなこと。今すぐ潰す」

 隣から聞こえる言葉は物騒な意味合いを含んでいて。慌てて遊龍はそちらに視線を向けるが、彼の表情にははっきりと怒りの色が浮かんでいた。遊龍は困惑する。霧氷はMistyでは無いと言っているし、敵対心もないように見える。だから竜神の発言が、理解できなかった。

「まっ、待てよ竜。こいつ違うって……」
「こんな見ず知らずの妙な奴の言葉をどうやって信じるんだお前は!」

 制止しようとする遊龍の言葉を勢いよく遮り、ビシリと霧氷を指さす。差された本人はキョトンと2人の様子を眺めたが、すぐに状態を理解して笑みを浮かべる。開いた口から聞こえるのは淡々とした言葉。

「ま、どうせ信じないとは思ってたが」

 竜神を睨み付けるように目を細めると、右手の位置を下げる。動きを目で追っていた遊龍は、ハッと気付き霧氷の表情を伺う。笑ってはいるが、冗談の行動ではない。

「信じる信じないはお前ら次第。信じないなら―――」

 言い終わるか終わらないかの境目で、霧氷の右手は腰の刀を引き抜いた。一瞬で刀身を表したそれは陽の光でキラリと光る。次の瞬間には間合いを詰め、竜神の目の前。咄嗟に築いた水の防御壁で直撃は免れるが、壁はぐにゃりと歪んだ。透明な壁越しに紫の男が見える。歪んだ彼は、しかしニヤリと笑っていた。

「実力で確かめてみるってえのはどうだ?」
「面白れぇ」

 竜神が一歩後退した瞬間に壁は消える。それとほぼ同時に、霧氷も後ろへと飛び退った。飛び散った水滴は竜神の周囲へと集まり、再び縄状となり右腕に巻き付く。霧氷は刀を構えると、竜神の様子を伺っているようだった。

「(………オレ、どうすりゃいーの)」

 完全の蚊帳の外となっている遊龍は、ぼんやりとそう思うがこの中に入っていこうとは思えない。どうすることも出来ない自分に、イライラすると同時に落胆した。
 なんでこんなに弱いんだか。

「お先にどうぞ」

 刀の切っ先は狂うことなく竜神へ。嫌みを込めたその言葉に、竜神は一瞬の間を置くと地を蹴った。人の話を聞かない彼も、こういう場面でのこういう言葉は素直に聞くのだろう。ほんの僅かな間で間合いに入り込んだ竜神は、右腕から延びる縄状の水を霧氷へと向ける。それは既に縄ではなく、刃先を持つ鋭利な剣。
 霧氷は一歩引くことでそれをかわすが、竜神の剣はその切っ先を伸ばす。その後も霧氷の動きに合わせ、追跡するかのように伸縮する。くねり、伸び、その姿はさながら蛇のようだった。一瞬の隙を突き竜神が水の剣を振りかざすと、霧氷は動きを止めた。振り下ろされた剣を彼は刀で受け止めたが、それとはタイミングをずらして、歪んだ切っ先は刀を通り越して霧氷へと刃を向けた。そもそも形を自由に変えることの出来る水。固定された姿は持たないのだ。剣の形もまた然り。竜神の操る通りに姿形を変え続ける。
 水の刃は霧氷の右肩へと到達する。届いた刃は右肩を切り裂くが、致命傷に至る程深くはない。擦っただけとも言えるかもしれない。それでも僅かに血が飛ぶと、霧氷は舌打ちして後退する。
 それでも怯むことは全くなかった。先程は防いだ刀を今度は振り上げ、水の刃へと向け振り下ろす。ザンッと切り裂かれた水はその切り口から霧と化して消えていく。まるで紙が燃えて灰になるように。風に流れて飛んでいく細かな霧を見やると、竜神はムッと顔を顰めた。散らばった水を集め始めるが、霧氷はそれを待つような性格はしていなかった。即座に踏み込むと、竜神との間合いを詰めた。十字に刀が振られる。
 咄嗟に集めた水を壁として、竜神は防御を図る。
 縦に払われた刀は防いだ。水の壁はぐにゃりと歪み、しかし直後のその全ては霧散した。消え去った壁に動揺し、竜神は目を見開いた。直後に、横薙ぎに刀が払われた。

「っ…、竜!」

 思わず身を乗り出して、走り出しそうになる身を押さえて。遊龍は叫んだ。
 どさりと膝をつく竜神は俯き、左手で体重を支える。深くはない。危険を察した瞬間に後方に飛んだ為、そこまで深い傷にはなっていない。けれど腹部は赤く染まりつつあった。鋭い痛みが走る。
 立ち上がらない竜神の様子に流石に焦りを感じて、遊龍は一歩踏み出す。しかし。

「来んな」

 掠れたような竜神の一言に、動きを止める。

「お前の手なんか絶ッッッ対借りない。こんな奴、俺1人で充分だ」
「お前な……」

 言い切る竜神に、呆れたように遊龍は呟く。そりゃ確かに自分が行って何か変わるのかと言われればそれまでだが、それでも彼1人で充分と言える程優勢にも見えない。立ち上がる彼の足は少しふらついていたし、冷静になっているとは思えない。
 けれど、遊龍は彼の言葉に従うことにした。多分、自分があの立場でもきっと助けの手を拒んだだろう。だから彼の意見を尊重することにした。危険になったら、止めればいい。
 と考えて、彼を止める手段がないと気付く。彼のことだから、止めろと言って止めるようなことはないだろう。うーんと唸り、ふと思い至る。

「(……涼呼んでくれば良いんじゃねーの?)」

 だが振り返ったその先に広がる森の中。元の場所へと戻る為の印を残していないことに気付き、冷や汗が流れた。そう言えば何も考えずに走ってきている。帰りの道順なんてもの、考えてもいなかった。
 思い付いた提案は、実行されることなく消えていくのだった。