Encounter

02
−−−森の外れ


「さすがにこっちは暑いな……。ルオと違いすぎる」

 誰に当てたわけでもなく、少女はそう呟いた。そして目前に流れる幅の狭い小川を飛び越える。その後ろには、もう1人、少年。やはり同じように川を飛び越えた。
 森の北西部。誰も居ないその森の入り口で、少女の声は風にかき消された。ぐるりと回ったその風が、後にこの森の住民へと言葉を伝えることを、少女は知らない。川と、風の音だけが聞こえる。
 日は既に、高く昇っていた。

「アイツが言ってた、“リュートの外れの森”。ここで合ってるハズ。ここに何があるって言うの………?」

 独り言。返事をする者はいない。少年は、黙ったまま森を見つめていた。川の流れる音は不変。ただ流れ続ける水に、少年は一瞥をくれると再び森へ視線を戻した。
 少女は、静かに目を閉じた。聞こえるのは水の音、風の声。他に何かが聞こえたわけではないが、目を開けると森の奥を凝視した。

「………誰か居る。属性を持つ者。本当に、……ここなんだ」

 呟きを聞いていたのは少年だけで、返すのは誰も居らず。少年は視線を少女に移したが、やはり何も言わなかった。2人は、再び揃って歩き出す。
 数歩進んだ先にあった2本目の川は先程の小川より幅はあったものの、2人はまたそれを飛び越えていった。



***

「あぁーっ!」

 突然の大声が、森の一角で上がった。

「何だよいきなり!でかい声出すなッ」

 すかさず、それを咎める大声が上がる。森の日常に、風が笑った。
 所変わって、森の西部。すぐ近くにある小さな泉で昼ご飯用の水を汲み、普段の生活の場へと遊龍が戻ってきたちょうどその時に、少女光麗は突然大声を上げた。危うく水の入った容器をひっくり返しそうになった遊龍は、なんとかそれを持ちこたえ、反射的に叫び返していた。言葉が分からずとも風が笑っていると言うことは何となく分かってしまう。思わず、本日3度目の溜め息。

「なんで急に大声出すんだよお前は!」

 先程よりはやや抑え気味に、遊龍は言った。言葉を発しつつ、汲んできた水を平たくなっている地面へと置く。自然に沿って形成されている森の地面はやはりボコボコとしており、何も考えずに物を置けば傾いてしまう。1年間でそういった所も学んだ遊龍は、平らな地面、或いは地面が凸凹でも倒れない場所を探すことに慣れてしまった。

「遊、そんなにビックリしたの……?なんか意外」
「そんなこと聞いてねー!」

 ビシりと言って、光麗の表情がキョトンとしたものから笑い顔になるのを見て、遊龍は本日4度目の溜息をついた。因みに過去の最高記録は1日に24回である。無意識に数えている自分を、暇人だな、なんて自嘲する。

「あはは、ゴメンね。あのさ、今日はなんの日でしょう!」

 謝りつつ笑いつつ、光麗はにこやかに問題を出した。なんだか凄く楽しそうに見える、と遊龍は少しだけ嫌な予感がして、眉をひそめた。こういった問題を出す時の光麗は、相手が答えることを前提として出している。つまり、答えられて当たり前だと、そういう態度。それが遊龍は苦手だった。なぜなら。

「………知らない」
「ひどーい!もうちょっとちゃんと考えてから言ってよ!そんなことも分からないの?!」

 大概遊龍は問題に答えることが出来ず、機嫌を損ねた光麗が大喚きする。たまにポコポコと頭を叩かれるオプション付き。痛くはないが、面白くもない。

「知らないモンは考えても出てこねーだろ、なんなんだ」

 今回は頭は叩かれなかったが、光麗は酷く不機嫌そうに遊龍を見ている。余程答えられなかったことが不満なのだろう。むぅと唸りながら、しかしまだ答えを期待した目で見ている。光麗の髪がふわりと揺れたのを見ると、どうやら風も光麗を宥めているらしい。そのまま落ち着いてくれと、遊龍は胸中で呟いた。

「大事な日なのにぃ」

 光麗がぼそりと呟いた。その声はすっかり沈んでしまっている。あんまりにも淋しそうに呟くので、思わず遊龍はどきりとした。喚かれるのは嫌だが、落ち込まれてもなんだか困る。居心地の悪さを感じて、遊龍は頭を掻いて思案する。本当に、今日は何かの日だったか―――?

「あのねっ、今日は光がここに来て、風さん達と会って2年。で、遊がここに来て1年の日なの。だから光にも遊にも大事な日なの、今日は!」

 ほんの少し淋しそうに、しかし嬉しそうにも見える表情で光麗はそう言った。にっこりと笑って、そしてそのまま沈黙。風が吹き抜けて、遊がようやく口を開く。

「………そうだっけ?」
「ひどーーーい!」

 遊龍の言葉に光麗は猛反発し、そして今度はやっぱり頭を叩かれた。あーあーごめんなさいねと小攻撃を避けながら遊龍は謝ってみるがあまり効果はないようだ。むぅと膨れた光麗の表情が変わることはない。とりあえず治まるまで待つしかないようだ。
 光麗にとって、風や、遊龍との出会いは大切、らしい。深く考えたことの無かった遊龍には、ほんの少しだけ、不思議な感情だった。来年もまた同じ事を聞かれるのだろうかとふと思って、来年もここにいるのかな、と考えがよぎる。それはまだ、分かるわけがないかと微かに苦笑した。
 未だ止まない光麗の小攻撃にいい加減呆れた遊龍は、そろそろ、と抗議の声を上げる。

「オレはそんな細かいこと覚えきんないんだって。ここに来た日付とかそんな………、光?」

 止まないと思った攻撃が、ふと止んだ。
 そして目前の少女は、遠くを―――ここから北西の方角だろうか―――を一心に見つめている。先程の膨れた顔も喚いた声もすっかり治まり、ただただ真剣に、何かを見透かすかのように、木々の間のもっとその向こうを見つめていた。

「どうしたんだ?光。………なんかあんのか?」

 堪らず、遊龍は問うた。光麗には似合わない表情に、戸惑う。ただならぬ雰囲気、とでも形容するものなんだろうか、なんて考えて、光麗の様子を伺う。瞬時に普段通りの様子に戻るとは思えなかった。

「誰か、来てるんだって。風さんが………、………行ってくる」
「て、え?」

 少ない言葉でそう言うと、光麗は一目散に駆けだした。遊龍が返答する間もなく。一瞬ポカンとその様子を見送ってしまった遊龍だが、木の陰に光麗が隠れてしまう直前にはたと気付き、その後を慌てて追いかけた。

「ちょ、光!待てよっ!」

 うっすらと、笛の音のような風の声を聞いた。





 うっかり見失うかと思った光麗を、遊龍は見つけることができた。森の中の感覚だから合っているのかは定かでないが、元いた場所から一直線に駆け抜けただけだと思われる。その先に、光麗は立ち止まっていた。辺りを、きょろきょろと見回している。

「おまっ、急に走り出して………なんなんだよ、しかも意外と速いし」

 息を切らして遊龍も立ち止まる。膝に手を当て、息を整える。対する光麗は、どうやらそんなに息を切らしていないようだ。少しだけ、屈辱感。

「誰か、ね。森の中に入ってきたんだって。風さんが教えてくれたんだけど………風さんがいなくなっちゃった………場所が分からないの―――」

 動揺している。おろおろとした様子はどうやらからかっているわけではないようで。確かに今の状態は、無風。光麗曰く、無風の状態でも風はそこに居り、ただ黙っているだけ、とのこと。風属性ではない遊龍に真偽を知る術はないが、もしそれが本当のことならば、今のこの風のない状態は異常なことらしい。風が、居ない。
 けれど打開策どころか居るのか居ないのかすら分からない遊龍にとっては、それが光麗にとって大変なことであっても、大問題として捉えることはできなかった。

「居ないもんは仕方ないんだしさ、とりあえず待とーぜ。風が居なくなったっつっても、全く居ないワケじゃないんだろ?また出てくるって。森に入ったって人だって、そんな気にすることもないだろ。オレだって入ってきたんだし。だから、ほら、さっさと戻ろーぜ。腹減ったっての」

 一方通行にドッと言ってから、遊龍は光麗の返事がないことに気付いた。視線をそちらへ向けると、光麗はうつむいたまま。首を傾げていると、ゆっくりとその顔を上げた。瞳が、何かを訴えかけている。なんだよ、と遊龍は光麗の言葉を待つ。

「あのね、光、道順とかは全部風さんに聞いてきたの。それで一気に走ってきて………そしたら風さん居なくなっちゃって………」

 光麗の言わんとすることが何となく分かった気がして、嫌な予感。周囲を見回して、自分がどこから走ってきたのかが分からない程に同じ形の木に囲まれていると気付き、冷や汗。

「まさか、帰り道分からない上に………迷った、とか?」
「ごめん」

 ほんの少し期待を込めた問いは、一言によって玉砕。
 鬱蒼と茂っているわけではない。暗いわけでもない。けれど同じ形の木々は、同じ場所なのか違う場所なのかの判断をさせてはくれない。現に、今いる場所も、元いた場所と景色自体はさほど変わらない。空が見える。太陽は見えないが雲が流れている。方角だけなら分かるのにな、と呟いて、それだけじゃあまり役に立たないねと、返される。
 森は広い。光麗も遊龍も、全部を回りきったことはない。広さは1つの街よりまだ少し大きいかもしれない。世界に目を向ければ巨大すぎる、ということはないのかもしれないが、大陸の4分の1を占めている、と考えれば、その大陸に住む者にとっては巨大なものとなる。とにかく、2人は普段過ごしている場所の周辺しか分かっていなかった。事情により移動せざるを得ない時は、風が道案内をしてくれていた。

「風が来るまで待つのかよ」

 ぼそりと呟いて、2人はその場に座り込んだ。





 陽がが昇りきり、そしてゆったりと下降。昼ご飯を食べ損なってしまった2人から、情けない音が響く。あれから小一時間程は経ったのではないだろうか。未だ風は、ない。

「大体なんでこの辺はなんもないんだよ。食い物どころか水もない。元の場所と違いすぎるっての」

 元の場所。
 遊龍たちがいつもいた場所には、すぐ近くに小さな泉があった。泉はいつも冷たく、澄んだ水で満たされていた。その周りに生えている木々には、ロザートでは見たこともないような木の実や果実がなっていた。光麗はそれらを食料としており、初めのうちは抵抗のあった遊龍も、次第にそれらを日々の食料とするようになった。もちろんそれ以外に食料はなかったわけだが。甘い物から酸っぱい物まで種類は豊富で、時たま光麗は酷く苦い物を食卓に混ぜた。そして決して彼女自身はそれを口にはしなかった。
 せめて何か食べられるものがあったらなーと何度目かになる溜息をついた時、ふと変化が訪れた。視線の先にある光麗の金色の髪が、静かに揺れた。
 風が、戻った。

「あ、やっと戻ってきたぁ。これで道が分かるよ!」

 静かな風に、光麗は満面の笑みを浮かべる。僅かだった風は次第に集まり、森を吹き抜ける心地よい風となった。頷く光麗の様子から、風と会話をしているのだろう。だがその内容までは掴めない。いつまで経っても道順の説明をしない光麗に、痺れを切らして遊龍は話しかける。どうも、道を尋ねるというより世間話をしているようにしか見えなかったのだ。

「光、さっさと戻ろーぜ。もう、腹減って死にそう………」
「あ、そうだった、忘れてた」

 案の定、ここで風を待ち続けた理由を忘れ去っていた光麗は、ゴメンゴメンと笑い出す。遊龍には、笑っている元気がなかった。そしてまた風に話しかける光麗は、笑顔をさっと消し、「どういう事?」と微かに口ごもった。はっきりと聞き取れなかった遊龍は、光麗の様子に首を傾げた。
 けれどその答えが得られる前に、光麗はぱっと遊龍に振り返り、早口に伝えた。

「ちょっと待ってて。やっぱり誰か居るって。もうちょっと先に行った所らしいから……」

 言うが早いか、遊龍に背を見せたと思った時には既に彼女は走り出していた。全速力で。呆気にとられた遊龍はまたしても出遅れるが、数度瞬きをして、現状を理解する。またしても、置いて行かれたのだと。

「だから待てって言ってんだろ、いい加減にしろー!」

 光麗の姿を見失わないうちに、遊龍もまた、全力疾走で彼女のことを追いかけた。少しだけ足が軽いのは風が背を押しているからか、気のせいか、それとももう無我夢中すぎるのか。とりあえずどれでも良いので、早く光麗の用事が済めばいいと思った遊龍であった。



***

「また、誰か来た」

 少女はそっと呟いた。その声は少し嗄れていて、息が荒い。身体の至る所にあるのは、擦り傷や、切り傷。まだ新しいそれらは、真っ赤な鮮血を流し続ける。自分のそれを見るのは、不快だった。

「あんたたちの、仲間?」

 呟きは、目前に立つ人物へと投げられる。ちょうど逆光になってしまっていて、顔は陰に隠れている。良かった、と少女はこっそり思う。あの人を馬鹿にしたような表情は、出来ればもう見たくない。男の隣に立つ、連れと見られる少女は、静かにこちらを見ている。2人が現れてからずっと口を開いていない。オレンジという底抜けに明るい髪色は、この場には不釣り合いだと感じる。膝をついた少女を見下ろす形で、長身の男は呟いた。

「仲間ではないけど、関係はある。君にも。それじゃ、また」

 言葉を言い終わるか終わらないかの内に、仄かな白い光に包まれた男とオレンジの少女は、光が消えると同時にその姿を消していた。後には何も、残らない。

「消えた………?」

 呟きを聞く者は、誰も居ない。唐突に現れた2人は、同じように唐突に消え去った。不思議な光景に思案しながら、堪えきれなくなって少女は近くの木により掛かる。身体の痛みはすぐに引くものではない。
 小さく口を動かし、何事かを呟く。祈りにも似た響きを持つその言葉はやがて、力を少女の周りに満たし始める。先程の光によく似た、白い光が少女を包む。もちろんそれは彼女をどこかへと運ぶわけではなく。腰まである濃い茶色の髪が、静かに揺れる。傷口が、少しずつ塞がる。彼女が癒しの力、と呼ぶそれは、しかし彼女の傷を完全に癒す前に光を失った。

「やっぱだめだぁ。力がかなり減ってる………。これじゃ、回復まで時間が掛かる」

 独り言。落ち込んだように聞こえたその声音は、やがて怒りの表情を入り混ぜていく。溜め息を一つ零せば、あとに残った表情は怒りそのものだった。

「ふざけんじゃないわよっ、あのやろ。次会ったときは絶対ぶちのめす」

 勢いよくそう呟いて、傷に響いたのか痛みに顔をしかめ、再びゆっくりと癒しの力を使い傷を癒し始めた。



***

 光麗が走っているその前方で、仄かな白の光が見えた。思わず、足を止める。じっとその場を見ていると、何事か呟く声も聞こえた。なんと言っているのかは分からないが、とりあえず誰かが居ると言うことは分かる。光が見えたのは、草の茂みの、その向こう側。走るのを止め、歩む。遊龍の姿はまだ後ろには見えない。歩み寄って茂みの隙間から向こう側を覗いた。そこにいたのは、1人の少女。





 カサリ、と音がした。ふと、少女は顔を上げた。草の茂みの隙間から、誰かが覗いているのが見えた。目があった途端、相手は驚いたのだろう、瞬きを数回繰り返した後茂みにガサリと突っ込んだ。金髪の、少女。
 聞かれたかな………と少女はばつの悪さを感じた。しかし言ってしまったことは取り消せない。聞かれてないことを祈りつつ、少女に向けて声を掛けようと、口を開いた。

「あなた酷いケガ!早く手当てしないと!」

 少女が言葉を発するよりも先に、それを金髪の少女―――光麗が遮り、言葉と共に茂みから飛び出した。