Encounter
04
「すごい血だな……」
呟く声が、静かに風に紛れた。顔を上げ、男は辺りを見回す。周囲には誰も居ない。土に染みこんだ血は黒くなり、光の弱まりつつある夕暮れで赤は判別できない。男はひとつ息をつくと、おもむろに煙草に火を付ける。深く息と共に吸った煙を、やはり息と共に吐き出す。一連の動作を終えると、彼は空を仰いだ。夜色のカーテンが近付く。微かなオレンジに、男の紫の髪が揺れた。
***
「そう言えば、どんな奴なんだ?」
唐突に、遊龍が口を開いた。
いつもの、遊龍や光麗が生活していた森の一角。涼潤と竜神がやってきてから1週間程過ぎた朝のことだ。陽が昇りつつある時間帯。気温はこれから上がってくるのだろうが、今はまだ清々しい朝の空気が森に満ちていた。
遊龍の視線の先には、腕や足や額にまで包帯を巻いた涼潤の姿。血の滲んだ包帯を新しいものに取り替えている最中で、遊龍に声をかけられその顔を上げる。完治したはずの傷がぶり返したのは、彼らが初めてあったその日のことだった。
あの日、光麗の道案内で帰路についた彼らだったのだが、すぐに異変に気付く。遊龍がふと振り返ると、涼潤は倒れていた。駆け寄るとその顔は青白く、赤い染みが地面に広がりつつあった。遊龍も光麗も状況が読めず、しかし無心に、出来る限りの、思い付く限りの治療を施した。血が止まり、顔色も戻り始めた3日目に、ようやく涼潤は目を覚ました。それまでの間、竜神はずっと涼潤の傍らに座り込んでいた。何かを睨むように、強く掌を握りながら。遊龍は、声をかけることが出来なかった。
「魔力を相当使ってしまったみたいなの」
目を覚ました涼潤の弁明は、こうだった。苦笑いを浮かべながら、気を失っていた間のことに礼を述べ、説明する。
「魔力を使い切っていても、使うことが出来る魔術があるの。借金みたいなもので、回復した時に使った分の魔力を消費するんだけど。あたしは魔術師ってものじゃなくて、ちょっと魔力があるからちょっとだけ魔術が使えるって身。借金していられる期間もそう長くなかったみたい」
正直な所、2人には魔術の仕組みなどというものはよく分かっていなかった。だからこの話で分かったのは、涼潤が無理をしていた、というただそれだけのことだった。無理はしないで、と咎める光麗に涼潤はゴメンねと笑って見せた。いや、涼潤が無理な魔術を使ったのはお前が騒いだからだろ、と胸中で遊龍は呟いた。
目を覚ましてから4日経つ今日には、涼潤の魔力とやらも回復してきたらしく、ゆっくりと傷を癒していた。顔を上げた涼潤は、主語のない遊龍の問いに首を傾げる。
「どんなって………誰が?」
「だから、あいつだよ。蒼い髪の男って奴」
「ねえね、なんの話ー?」
「あー…うるさい、静かにしてろ」
割って入る光麗を制し、落ち着かせる。酷くゆったりとした時間が流れる森で、彼らのやり取りを見ていた涼潤は肩を竦めて微笑んだ。その様子に気付き、遊龍はむっとして光麗の相手をするのを止めた。
どうにも最近調子が狂う。光麗は相変わらずマイペースだし、涼潤は傷だらけのくせにのほほんとしているし、竜神は………なんだか嫌われてるっぽいし。遊龍は溜め息をひとつつき、居心地の良さと悪さの同居したようなこの空間に、もう一度溜息をついた。
「―――あいつは………すごく綺麗だった」
呟くように発せられた言葉はどこか上の空で、遊龍に返している言葉と言うよりは、遠い昔を回顧しているような、自分に向けているような言葉だった。理解に遅れて、遊龍は目を瞬かせる。
「なんだそれ」
「あたしが初めて見たのは、後ろ姿だった。透き通るような、すごく綺麗で長い髪が風に揺れてた。そいつの陰に隠れて見えなかった父さんたちを見つけるまで、しばらく見とれていた。あんな罪人に勿体なさすぎるほどの、綺麗な蒼い色。名前も知らないし、顔も忘れてしまったけど、長い蒼い髪というのははっきり覚えてる」
ゆっくりと、その日の情景を思い返すように話し。悲しみも憎しみも、今のこの瞬間は消えていて、ただ無表情なまま、その瞳には空の青が映っていた。
「………オレ、もっとこう、ごつくて図太い、いかにも殺人鬼って感じのおっさん想像してたんだけど」
ぽかんと呟く遊龍に、こそこそと光麗も頷く。蒼い髪という特徴だけを聞かされ、それ以外はさっぱりの状態で人殺しとの話。2人の想像した人物像は、どうやら実物とは遠くかけ離れていたようだった。
「あははっ、そうだよね。うん、あたしも初めは分からなかったから。かなり若い奴だったよ。本当にアイツが人殺しなのかって感じでさ。………何年か経ってるから、変わってるかもしれないけど」
異様なまでに明るい返事に、遊龍も、光麗ですら戸惑った。返す言葉が浮かばない。笑って返すことも、不安げに尋ねることも、今のこの場には不釣り合いな気がした。言葉も表情も笑っているのに、彼女の本心はきっと笑っていないのだろう。寧ろ真逆の表情なんだろう。遊龍はそう感じた。
***
横たわる土の塊は、削られた森の地面。胴長に固められただけのその塊は、しかし幼い少女の言葉で微かに揺れる。凜とした声が、遠くの森で響き渡るように発せられた。
「4人の力を知りたいって言う人がいるの。調べてちょうだい」
まるで頼み事。少女が塊の上で手を動かすと、揺れはいっそう強くなり更に淡く光り出す。ゆっくりと、形を作り、手足が出来て。けれどそのまま、土の中に埋まるかのようにして消えた。あとに残るは少女だけ。少女は、にこりと微笑んだ。
***
ゆっくりとした時間は、1日の流れを遅くする。これといってする事もない森の中で、光麗は木の枝に上り、涼潤は傷を癒し、竜神はやはり座り込んだまま。竜神の寄りかかる木の裏側に遊龍は座り込み、ずっと続いている疑問を浮かべては消し、浮かべてはまた消しの繰り返しを行っていた。腑に落ちない部分は、まだその解消には至らない。木を挟んで背中合わせになっている竜神が、自分が居ることで不機嫌な表情をしていることには気付いていたが、だからといってその場を退くことはしなかった。
「涼が顔を覚えてないんなら、手がかりは無しって事だろ。どうやって捜すんだよ」
背を向けたまま、涼潤へと声を投げかける。竜神が僅かに反応するのが分かる。振り返ってくることはないが、意識はこちらを向いているだろうと、なんとなくそう感じた。
「捜す気なんて、ないけどね」
涼潤もまた、背を向けたまま声を投げるだけの返事を返す。その返事に思わず遊龍は振り返る。視線だけで涼潤の姿を捜し、その姿へ視線を合わせる。背を向けていて表情は読めないが、のほほんとした口調で嫌悪は混じっていないと思われる。
「別に、人混みの中から捜すわけじゃないから、顔を覚えていようがいまいが関係ないし。それに、アイツがあたしを呼んだんだから、向こうから出てくるはずよ。きっと」
「まー、そうなんだろーけど」
きっぱりと言い放つ涼潤に、遊龍は肩透かしを食らったかのように感じた。どうにも自分1人で張り切っていたようだった。相手を捜して、見つけて。あれ、見つけてどうすんだろ、なんて思ってから、見つけることを目的としていたと気付く。見つけて終わりではないのに。とりあえず言えるのは、自分の空回り。どんな相手かも分からないし、何が起きるかも分からない。涼潤の言うことの方が賢明だと思えた。
「あー、でも」
遊龍の思考が一通り落ち着いた頃に、ふと涼潤が呟いた。もう一度涼潤に視線をやると、今度は彼女と目があった。一瞬、どきりとする。けれどその感情はつかの間のもので。様子に気付いた光麗が木の上から下を見下ろす。
「ゆっくりした時間、もう終わりかも」
さらりと。なんでもないように発せられた言葉に疑問符を浮かべた遊龍と光麗は、しかしその意味を問う前に理解する。
「?!じ……しん?………きゃぁ!」
低い音が響く。地面が不自然に揺れた、かと思うとその揺れは一層激しくなり、木の枝から身体を乗り出していた光麗は体勢を崩す。辛うじて落下は免れているものの、大木に伝わる揺れは次第に大きくなりしがみつくのがやっとのようである。
「ちょ、お前、危な」
遊龍が思わず立ち上がって叫んだまさにその瞬間。揺れが、ぴたりと止んだ。地鳴りのような音も止まり、再び穏やかな空気が流れた。その隙に光麗は木の枝から飛び降りる。遊龍はもちろん目を剥くのだが、突風が吹き荒れたかと思うと風が光麗の着地を手助けた。
「びっくりしたぁ。地震が来るなんて珍しいね」
「お前こそ驚かすな。風が助けるなら先に言え!」
あくまでマイペースの光麗に遊龍が叫び、そして先に異変に気付いたのは光麗の方だった。
「え………?」
視点を一点に定め、目を見開く。遊龍も何事かと後ろを振り返り、言葉を失う。“そこ”にいたハズのないものが、いる。見れば涼潤も“そこ”を凝視していて。なんだよあれ、と掠れた声だけが漏れた。
「土人形」
背を向けたまま、涼潤は呟いた。恐らくこちらへと投げかけている言葉。土人形?と問い返して、遊龍は再び“それら”を見る。言われてみれば確かに人形のようだが、頭や四肢はあるのに顔のパーツはない。四肢もただ伸びているだけ、という印象が強く、まるで子供の土遊びのようなものだった。違うのは大きさ。土遊びの域を通り越した大きさで、この場で一番背の高い涼潤よりもまださらに高かった。
ざくり、と土が零れるような音がして、土人形は動き出した。全部で4体居たそれらは、初めこそ同じ動きをしていたものの向かってくるコースはバラバラになり始め。そして遊龍、光麗、涼潤、竜神、それぞれに1体ずつ向かってきていると気付いた。
「上等」
動揺する事もなく、涼潤は笑みを見せた。駆け出すと、一体の土人形―――恐らく遊龍か光麗に向かってきていたであろうそれを踏み台に、超人的な跳躍を見せた。涼潤へと向かっていた土人形が一瞬彼女を見失い、動きを止めた所へ、呟くように言い放つ。
「雑魚が、出しゃばるんじゃないわよ」
言葉と同時に向けられた右手から放たれるは、閃光の迸り。最初のバチリという音の直後には、激しい光と轟音が鳴り響く。思わず遊龍は目を閉じた。反響した音が治まり、遊龍が目を開けるとそこにはもう、土人形の姿はなかった。ただ、抉れたような地面ともうもうと立ち上る土埃が視界に入るだけ。言葉を失った。けれどそれも、つかの間。
「何してるの、来てるじゃない!」
涼潤の声にはっと我に返ると、右斜め前3歩分程の所に土人形が立っていた。涼潤の雷で粉砕されたのは、涼潤に向かってきていた1体のみ。
「う、うわっ」
一瞬呆気にとられ、そして即座に後方へと飛ぶ。土人形の歩みは遅かったが、振り下ろしてきた腕の動きは俊敏だった。後方へ飛び距離を置き、そして土人形の動きを見る。やはり自分のことを追いかけてきていると見え、歪な形をした足を引きずるようにこちらへと向かってきていた。
「(ってか、涼の雷で壊れたんじゃなかったのかよッ)」
胸中で叫ぶ。確かに涼潤の攻撃は広範囲で、4体ともその範囲に含まれていた。しかし崩れたのは1体のみで、残りの3体は今また動き出している。理解の追いつかない頭で次々浮かぶ疑問を整理しようと試みるが、目の前にいる土人形の虚ろな顔が目に焼き付き思考回路が回らない。ああ、焦ってるんだ、と妙にそこだけ冷静に思い付いた。
***
土埃が治まる。崩れた土人形からこぼれ落ちたのは、金色に輝くガラス玉のような球体。掌にすっぽり隠れてしまいそうな大きさのそれは、姿を現した途端にヒビが無数に入り、そして粉々に砕けた。核<コア>と呼ばれるその球体は、人形師が人形に仮初めの命を与えるもの。
「やっぱり」
涼潤はいやに冷静で。ガラス玉の、土人形のあった場所を一瞥すると、視線を空へと移す。抜けるような青はこの場に似合わない。どうせなら、重い灰色が良かったと俯いた。壊れなかった他の土人形には、恐らく色の違う核が入っているのだろう。“雷では壊れない”他の色の核が。
土人形に追われ、この場から距離の空いた遊龍と光麗を眺めて涼潤は考える。確実に彼らもターゲットに入っている、と。違和感を感じた。この場に呼ばれたのは自分だったはずなのに、自分だけだったはずなのに。誰も居ないと思っていた森には先客が居て、現れた土人形はご丁寧に4体で。1週間前の男の言葉にも、そういえば違和感はあった。“関係”は、あると。
「(仕組まれた?)」
そんな考えがよぎるものの、心当たりのない誰かの計画を知る術はなく。ただ今は、事が流れるままに任せるしかなかった。
「(………3体?)」
ふ、と。唐突に思い付いたように気付いた。現れた土人形は4体。破壊できたのは1体。残りは3体。追われているのは遊龍と光麗と、―――
しかし思わず振り返った涼潤の目に映ったのは、土人形に迫られる彼の姿ではなくて。予想していた光景とはまるで違うその姿に、涼潤の動きは止まった。そして、逡巡思考を巡らせ、もう一度視線をそちらへ向けた時には既に結果が出ていた。
破壊された土人形の前に佇み、見下ろし。止めと言わんばかりに鋭く突き刺さった透明な刃は、的確に碧のガラス玉を貫いていた。土埃が消え去るのを待ちもせず、竜神はそこに背を向けた。
「うぜぇ」
掠れたような小さな声でそう呟くと、ふん、と鼻を鳴らした。だが、勝ち誇ったような表情で顔を上げた彼の瞳には、にこやかな笑みを浮かべる涼潤の姿が映った。竜神の表情も、動きも、そして思考ですら、一瞬で凍り付いた。
「竜くーん?なんで動けてるのかなぁ」
満面の笑みで歩み寄る涼潤とは真逆に、絶対零度の風が吹き付ける竜神は僅かに後ずさりする。しかし逃げるわけにもいかず、涼潤が目の前に来るまで足は止まったままだった。
「わ……かんねぇけど、涼の落雷の時から戻っ………た」
「ふぅーん」
切れ切れの言葉に涼潤は相づちを打つ。顔は笑っているが目が笑っていない。竜神の額から冷や汗が零れる。彼女が自分に対してキレていないと言うことは分かっている。分かっているがしかし、彼女の性格上、危機に晒されるのは自分だと言うことも分かっていた。
「じゃあ、アイツが言ってたことは嘘だったんだ」
ぼそりと。呟く声が聞こえたその直後には、パチリと言う聞き慣れた音。恐る恐る顔を上げる竜神の目に映るのは、既に笑みの消えた表情と放電の光。見なきゃ良かったと、後悔した。
「アイツ、あたしのコト騙しやがって!」
爆音と激しい閃光に、竜神は目と耳を塞いだ。目前で起きた惨状がそれほどのガードで防ぎ切れるわけもないのだが、視覚と聴覚は守れたようである。2度の落雷が治まった後、竜神はそっと目を開いた。
「人のこと弄びやがって。絶対許さない」
そう言い捨てると、涼潤は視線を竜神へと向けた。思わず竜神は姿勢を正した。幾分か落ち着いたと見える涼潤は、ひとつ溜息をつくと口を開く。
「ねえ。なんで元に戻ったのか、分かる?」
「いや、分かんね。雷の音が間近で聞こえたと思ったら、急に意識が冴えてきて………。それだけ」
久し振りに声帯が役割を果たしているからだろうか。声は所々掠れていた。しかしその声は確かに彼のもので。4年間聞いていなかった声の記憶は、あっという間に戻ってきた。
詰め寄るように問う涼潤に、あくまでも竜神は冷静を装った。けれど涼潤の表情を見る度に、今までの自分と今の自分を思い出して、どうしようもない気分に落とされた。フィルターが掛かったような思考回路は、あの時からずっと。4年間も続いていた。全てがもどかしかった。だから涼潤との会話が―――例えそれが恐怖だったとしても、懐かしく、嬉しく、そして悔しかった。
「アイツは、さ」
少しの間のあとに、涼潤が言った。
「『俺が望むようになった時、元に戻してやる』って。そう言ってたの。アイツの望みってのはさ、あたしがここに来るだけで良かったのかな。だったら、森に来た最初の日だって良かったんだよね。何が、どうなってるっていうの?」
問いかけている、と言うよりも自分に問いをぶつけていた。竜神にだって、その答えを導き出すことは出来ない。答えのない問いが脳内を巡り、それを言葉に出さないとただ不安が増大するだけだった。2人とも、黙り込んでしまった。
「あ」
先に沈黙を破ったのは意外にも竜神で。顔を上げた涼潤に、竜神は視線で意図する方向を指した。
「あいつら。遊龍と光麗だっけ。放っといて良いわけ?」
竜神が示した方向には、未だ逃げ回っている光麗と、どういう訳か土人形と対峙している遊龍の姿があった。土人形の破壊はまだ遠いらしい。固かった涼潤の表情は、次第にポカンとしたものへと変わっていた。
「そうだった。すっかりあの子たちのこと忘れてた」
土人形は対象を追い掛けはするものの、どうやら攻撃性はないらしい。あの特殊な核を見る限りでは、自分たちの能力を測っているだけだと思われる。だとすれば彼らに危険は及ばないのだが、いつまでも追い掛けっこをさせているわけにもいかなかった。
「じゃ、俺、遊龍の方見てくるわ。ちょっと気になるし」
2人の様子を見比べていた竜神は、最後まで言い終わる前に軽くステップを踏むと、あっという間に駆けだしていた。彼の俊足は、4年のブランクがあっても健在だったようで。止めることもなく涼潤は、数度瞬きを繰り返し、そして小さく吹き出した。
「いつものあいつだ」
***
「(だあぁーもう、なんなんだよコイツらは。いきなり出てきやがって…)」
胸中で叫ぶ遊龍の訴えは、もちろん相手の土人形には届かない。まるで鏡のように、遊龍が動きを止めると土人形も動きを止めた。その事に気付いてから、遊龍は思考に時間を割くため動きを止め、結果的に土人形と対峙する形になっていた。けれど残念ながら、遊龍の望む地点へと思考は辿り着いていない。
「(涼が来た途端色々起こりすぎてるし…。コイツらだって涼だけ狙ってるってワケでもなさそーだし。オレらにも関係あるってのかよ)」
ギリ、と拳を握ってみれば、土人形も攻撃態勢に入ったかのように見えた。どこまでも自分の動きを真似てくる奴だ。滑稽な姿も相まって、嫌悪感が沸々とわき上がった。
「なんもしねぇでどうする気だよ」
「は?!」
人の気配を感じなかった真後ろからの突然の声と、聞き覚えのないそれに遊龍は反射的に振り返った。そして黒髪の彼と真正面で向き合うことになった。
「ななななんでお前がそこにいるんだよ!ッって言うか声!」
目の前に現れた竜神の姿にビシリと人差し指を向け、遊龍は言い放った。言い放ったあとも言葉になっていない声を上げ、理解の追いついていない脳内の整理に掛かった。対する竜神は表情ひとつ変えず、少しだけ背の高い遊龍を嫌そうな目で見た。
「俺がここにいたら悪いか」
途端、遊龍の声が止まる。ぱちくりと竜神を見やると、益々今まで想像していた彼の性格像が崩れ去っていった。初日に睨まれはしたものの、喋ることなくボーッとしたままだった竜神は、きっと物静かで一歩引いた少年なんだと、遊龍は勝手に想像していた。そしてそれは、見事に間違っていたようである。遊龍の問いを一言で片付けた声は、酷く面倒臭いという感情が込められていた。
「来るぜ」
さらっと投げられた言葉にはっと顔を上げると、遊龍の目前には既に土人形が迫っていた。いつの間にか振り上げられた腕は、遊龍の真上に添えられ、振り下ろされた。
「うわっ」
横に飛ぼうと態勢を少し下げた途端、足が震えていたのかもしれない、何もない地面で躓いてしまった。結果的に土人形の腕が当たることはなかったが、あまりの情けなさに顔を上げることが出来なかった。土人形が目前にいることが、落ちてくる影で分かった。
「お前さ、それで涼のこと助けるとか言ったワケ?」
竜神の声が聞こえた。呆れたような、見限ったような。遊龍は顔こそ上げなかったが、地面を思い切り睨み付けた。そこに自分がいるかのように。分かってる、分かってるんだけどとりあえず今のこの状況を誰か説明してくれ、そんな言葉は言い訳にしかならないから自分の中だけに押しとどめておく。
いつの間にこんな、物事いっぱい考える性格になっちゃったんだろ。そう自分で笑って、遊龍は立ち上がった。竜神は一歩足を引き様子を眺める。
「考えるのはあとだ」
口に出してみて、その言葉が案外自分にしっくり来ると気付く。だったら最初からがむしゃらに突っ走れば良かったんだ、と遊龍は思い直した。土人形を見据える。これくらいの相手だったら、考え無しに突き進んだって大丈夫な奴だ。そう感じた。
「オレだって戦える」
突き出した右腕にまとわりつくのは鮮やかなオレンジ。徐々に勢いを増し燃え盛るのは紅蓮の炎。ぐるぐると円を描き、遊龍の腕から離れた炎はやがて矢のように土人形へ向けて飛び出す。狙いを定めた遊龍の瞳に、瞬時に燃え上がる土人形の影が映った。熱風は竜神にも届き、黒い髪が僅かに朱を映す。周囲の草木に、少しの焦げも見当たらなかった。
「………終わり?」
すっかり原型をなくした土人形を見下ろし、遊龍は不安げに尋ねた。実はまだ無事だった、なんてオチはあって欲しくない。振り返れば少し離れた所で竜神がこちらを見ていることに気付いた。
「核が壊れてれば終わり」
間を置いてもそれ以上の言葉が戻ってこない所を見ると、返事はそれだけのようである。核とはなんの事なのかという所から分からない遊龍は、首を傾げながら再び土人形の残骸を見やる。するとそこには、小さな赤いガラス玉のようなものが転がっていた。
「何?コレ」
訝しげに手を伸ばした遊龍だったが、手が触れる前にそれは粉々に砕け散った。ガラス玉があった場所のすぐ上で、手が止まった。
「なー、核ってガラス玉みたいなもん?」
「………。何色だった?」
竜神に向けてそう叫んでみれば、問いとはかけ離れた問いが返ってきた。中間の省略された会話を想像し、とりあえずガラス玉のようなものが核であると判断した遊龍は、その色を思い出す。鮮やかな、まるで炎を閉じこめたかのような、赤。
「赤」
一言で返事を片付ければ、やはりもう返事は戻ってこなかった。土人形の形はもう残っていない。焼けた土がどさりと残るその場は、作った自分で言うのも可笑しいが、異様だった。
「お前さ、」
不意に声をかけられる。いつの間にかすぐ横にまで来ていた竜神に遊龍は少なからず驚くが、おう、と相槌を打っておく。そういやさっきの質問はなんだったんだと、言葉には出さずに問いただした。
「ロザートの街中で、能力でも使ってたのか?」
案の定前の会話とは関係のない問いに、こいつとの会話は面倒臭そうだと遊龍は溜息をついた。しかしどうやら竜神はこちらの返事を待っているようで、答えないのも居心地が悪い気がして結局言い返すこともなく遊龍は答えた。
「ロザートじゃなくて、スイワ。街中で会ったスイワの人に、なんか無理矢理力の使い方習わされてて、それであんな感じ」
不意に出会った1人のスイワの人は、他の街のこと、属性力のこと、そしてその使い方。属性力を持つならその力のことを知らないといけない、そういった理由で彼は、半ば無理矢理に遊龍に教え込んだ。その期間は短かったのだが、今まで知らなかった知識を大量に仕入れた期間でもあった。当時の遊龍にとっては、酷く貴重な時間。
「オレだってやれば出来るんだぜ?ビビってんじゃねーよ!」
黙り込んだ竜神の様子を見て、次第に遊龍には土人形を倒した実感が沸き始める。馬鹿にされたような目で竜神に見下ろされたが、それは向こうがこちらのことを分かっていなかったからこそ。オレはちゃんと、実力を持っている。そう遊龍は確信した。
直後、竜神の視線は遊龍へと向けられた。
「あんな動くだけの人形壊して何が嬉しいんだよ。ばーか」
カチン、と。何かの音がした。顔は笑みを作ろうとしているのに引き攣る。思わず握りすぎた拳を振り上げそうになっていたのを、なんとか理性で押さえ込む。竜神はと言えば、そんな遊龍の様子をちらりと見ると、ふんと鼻を鳴らしすぐにその視線を外した。ぶち、と、何かが切れた。
「てっめぇ、威張りくさってんのもいい加減にしろっつうの!」
詰め寄り振りかざした拳を降ろせば、ばしゃりと水の弾ける音と水を被る感触。何が起きたのか理解できず竜神の姿を捜せば、彼は少し下がった所に立っていた。では今殴ったのは、と視線を降ろすと、びしょ濡れになった自分の右腕と地面が映る。つまり今殴ったのは、
「水………?」
複数考えられる答えの1つに行き着き、唖然として遊龍は呟く。彼は水属性の力の持ち主、かもしれない。しかし思い至ったのはそれだけである。そしてその中途半端な結論に更に怒りが込み上げ、遊龍は憤然として竜神を睨み付けた。相変わらず竜神は涼しい顔である。
「気に喰わねー!」
思わずそう叫ぶと、握った拳を開く。躍り出た炎は土人形を灼いた赤。脅しでもなんでもなく、狙いは竜神一直線である。けれどそれは、竜神に辿り着く前にバシリと音を立て散り散りに消えた。2度目の攻撃も全く届かず、遊龍は息を飲んだ。だが竜神の表情に気付くと、その首を傾げた。竜神が、ぱちくりと炎の消えた辺りを見ていた。
「お前じゃねーの?」
訝しげにそう問えば、違う、と返ってくる。先程の飛び出そうなまでの怒りは一気に下がり落ちる。炎の消えた形からして、なにか壁のようなものにぶつかったことは確かである。しかしその壁に心当たりはない。何なんだ、と呟く遊龍は再び炎を竜神へと向けるが、やはりその炎は竜神に辿り着く前に消えるのだった。
「!壁」
炎が消える場所、消えた瞬間。僅かに広がりを見せる炎に、遊龍は壁を見た。透明で、まるで磨き上げられたガラスのように光り、そして一瞬遊龍の姿も映した。
見えない壁が、前にそびえ立っている。竜神もその光景に納得がいかないのか、じっと1枚の壁があるらしい場所を凝視する。バシ、と鋭く飛んできた細長い水の刃は、炎と同じく壁を突き破ることが出来なかった。
「次から次へと………。なんなんだよ!」
そう叫んで振り返った遊龍は、ゴンという鈍い音を聞き同時に額に鈍痛を感じた。
「はぁ?!」
振り返ったその場にも、見えない壁。一見何もないそこへ手を伸ばすと、ひんやりとした壁に手が触れた。嫌な予感を感じ、辺りを見回す。そこには、太陽光を反射させ僅かに姿を見ることが出来る壁が、無造作に現れていた。
その光景に目をぱちくりとさせたのち、遊龍の脳裏に“不安”の二文字がよぎった。