Encounter

16
 全部全部
 消えて無くなってしまえばいい
 あの日に崩れた全部全部
 元に戻らないというなら
 全部全部、壊れちゃえばいい

 泣いて泣いて
 何も変わらないなら
 この涙は何の為に流れるの?
 雨が地面を穿つように
 涙で全てが洗い流せればいいのに



* * *


 誰も居ない家だった。
 夜が近付くと明かりの灯る家に、今は誰の気配もない。玄関の扉を開いた途端に漂う暗い空気に、少女は言いようのない不安を抱く。口を開く事も忘れ、怖々と一歩を踏み出し。けれど家の中にはやはり、誰も居なかった。

「いないの………?」

 小さく小さく、掠れた声で問い掛けるが、返事が返ってくる事はなかった。
 静寂をひとしきり睨み付けたあと、少女は弾かれたように家を飛び出していく。林の中に建てられた古い家は、やがて来る夜の色に飲み込まれるのだろう。それでも今はまだ、残照に赤く照らされている。周囲にはこの家の他には何の建物も建てられてはいなかった。あるのは乱雑にそびえ立つ樹木のみ。少女は林の中を走った。
 酷く嫌な予感が、頭の中を高速で走りすぎた。


 不意に見掛けた人影に、少女は足を止める。この人里離れた場所に、自分たち家族以外の人がいる事など滅多にある事ではない。疑うことなく少女は人影へと近付く。けれど。
 鮮やかなまでの夕陽に照らされるのは、あまりにも美しすぎる蒼だった。
 長い髪を静かな風に揺らし、こちらに背を向け。何も言わずに佇む様に、少女はしばらくの間見とれていた。見入ってしまう程の、美しい光景だった。
 やがてゆっくりと振り返った人物の顔は、逆光で隠れてしまっていて。だがその事が気になる前に、少女の視線は彼の足下へと移っていた。横たわる、2つの影に。2人の、人だったものに。

「!?っ……父さんっ、母さん…っ!!」

 突然目に飛び込んできた光景に、少女の頭の中から蒼髪の姿は消え去る。上擦った声で叫び、少女は2つの影へと駆け寄った。既に血の気の無くなった顔は、認めたくなくても見知った顔で。開く事のない瞼に、力のない腕に。少女の思考回路は、完全に停止していた。

「なんで……どうして…っ!」

 溢れ出す涙の止め方なんて、知らない。止める理由も、知らない。
 握り締めた拳に雫が落ちて、そして少女は少女のすぐ傍らに佇んだままの影の存在を思い出す。こちらを見下ろして、何も言わずに。少女はバッと顔を上げるとその姿を睨み付け。顔色一つ変えない彼の姿に、少女は怒りに任せて立ち上がった。

「あんたが……っ」

 掴みかかろうとした少女の手をすり抜けて、蒼髪の彼はやはり静かに踵を返した。既に陽は沈んでいる。残された消え入りそうな赤も、もうじき闇に飲まれる。歩みを進める彼の姿も、闇の中へと消えそうで。揺れる髪の後ろ姿に、少女の怒りは爆発して。

「待ちなさいよ!」

 叫んだ声と同時に、小さな稲妻が男のすぐ横へと落ちた。まだ少女には能力のコントロールは上手くできない。この稲妻は、感情の高鳴りで偶然現れたものだった。しかしその偶然で、男はようやっと振り返った。
 薄暗い中に佇む姿。深い暗緑の瞳にはどこか寂しげな色が浮かべられ、放置すれば崩れ落ちそうな印象を受けて。憂い。その瞳に、少女は戸惑い、叫ぼうとした言葉を飲み込んでしまう。必死に叫ぼうと口を開き、しかし先に男が口を開く事で止めてしまう。

「森に来い。そしたらきっと………分かる」

 言葉の意味を理解するのに時間を要し、そしてその間に彼の姿は消えていた。



***


 なんで、みんなみんないなくなるの?
 どうして
 どうしてあたしはひとりなの?
 あの人はいない
 あの人もいなくなった
 あの人はいるのに、いないんだよ
 どうしてみんなみんな
 いなくなってしまうの?



* * *


 2年の月日が過ぎた。
 “森”というのが、この大陸の東にある広い森だという事はなんとなく察していた。けれど、気持ちの整理などすぐには着く訳もなく。とてもじゃないが、森へと足を運ぶ気にはなれなかった。アイツがいる、それだけは分かっているのに。すぐにでも向かいたい気持ちと、二度と会いたくないという気持ちと。重なって。
 けれど少女は、必ず森へと向かうと心に決めていた。そうしなければならない気がしていた。
 だが先に向かったのは、ロザートだった。足が自然とそちらへと動き、進むままに歩き続けた。そして、その地へと辿り着いた。

 生まれて初めてやってきたロザートで、少女は思わず目を覆った。夜だというのに街は明るく、見た事もないような高い建物ばかりが並んでいる。自然の光ではない色取り取りの明かりが、チカチカと点滅する。空も風も、木々もない。きっとこの街は眠る事がないのだろうと、そう思った。
 足早に、歩みを進める。どこかへ向かいたいわけではなかった。ただ足が進むから、思うままに歩く。そうして進んだ先は、高い建物が建ち並ぶ通りの、裏側。先程までの眩い明かりは、この裏通りには届いてこないようだった。1つの廃ビルの裏口の前で、少女は足を止めた。見上げればすぐに屋上が見える。周囲の建物よりも随分低いこのビルは、どうやら古くに作られ、使われ、そして捨てられた建物なのだと気付く。
 裏口には外れかけた古い扉と、意味を成さない錠。大きな隙間から、音も立てずに少女は中へと足を踏み入れる。建物の中は真っ暗で、人の気配も何も感じない。虫も小動物ですらもいないのではと感じた。暗闇に目が慣れるのを待ち、少女はゆっくりと奥へと入って行った。





「……ただって……いつかは……事が…」
「…子は………きっと…………」

 屋上へと続く階段を2歩上がったところで、微かに声が聞こえた。やはり人はいた。そっと階段を上りきり、屋上への入り口の扉に張り付く。耳を澄ますが、あまりよく聞き取る事は出来ない。何を話しているのかも、何故そこにいるのかも。
 ふと、この扉も入り口の扉と同じように隙間が出来ている事に気付く。入り込める程の大きさではないが、屋上を覗くには十分な大きさで。少女は屈むと、その隙間から様子を伺う。屋上とはいえ、両側にはこのビルよりも遥かに高いビルが建てられており、やはり暗かった。ぼんやりと見える人影へと、目を凝らす。
 彼らの姿がはっきりと分かった時、少女は思わず息を飲む。光景が、動きが、全てが止まったような気がして。そして次の瞬間には、少女は扉を蹴破り屋上へと飛び出していた。 3人の人物のうち、こちらに背を向けていた1人は、長い、蒼の髪。見間違えるはずもない彼の姿に、少女の思考回路は一瞬で弾け飛んだ。
 その後の事を、少女ははっきりとは覚えていない。
 飛び出してきた少女に、2人の男女は目を見開き、蒼髪の男はゆっくりと振り返る。少女が殴りかかってくるのを男は静かな動きでさらりとかわす。かわした直後に、少女と男の目が合う。あの時と同じ、暗緑の瞳。けれど今は憂いは込められておらず、鋭い視線が少女を刺した。少女の頭にカッと血が上る。慌てて少女は右手に稲妻を集め、それを彼へとぶつけた。再び彼がそれを避けた時、稲妻の向かう先には見知らぬ男女の姿があった。
 思わず、少女は動きを止めた。
 けれど止まったのは彼女の動きのみで。飛び出した稲妻は真っ直ぐに、彼らの元へと向かった。彼らは少女をじっと見つめたまま、身動きもせず。そして少女には全く理解できないタイミングで、最期にそっと微笑んだ。



 何が、どうなった ――――― ?




 呆然とする少女の目の前で、激しい轟音と閃光が弾ける。轟音が鳴り響く中、階下からどさりという音が聞こえた。閃光が治まり眩んだ目が正常に視界を映し出した時には、彼らの姿はそこにはもう無かった。部分的に欠如した古びた手摺りと、焦げた床。落ちたのだと、すぐに分かった。
 頭の中は真っ白になり、考えようとしても思考力が追いつかない。それ以前に、何も考えたくなくなった。何も、何も知らないと。関係がないと。

 ―――――言える訳がない。


 彼らは最期に何と言っていた?微笑んで、真っ直ぐに。


『あなたの所為じゃない』



 なんで?
 なんでこんな事になったの?
 じゃあこんな事になったのは、誰の所為なの?
 全部アイツの所為?
 あたしは、何もしてないって言えるの―――――?



 気付いた時には少女の身体は宙に飛んでいた。次いで、腹部に激しい痛みが走る。その場にまだ残っていた蒼髪の男の存在をすっかり忘れていた少女が、その攻撃が彼からのものであると気付くのには時間が掛かった。思考回路が上手く回らない状態のまま身体は落下し、背を床に強く打ち付ける。息が詰まる痛みに、少女は声にならない呻きを上げる。屋上から落ちなかった事は、不幸中の幸いだろうか。

「お前は………」

 微かに聞こえた青年の言葉を全部聞き取る前に、少女の意識は途切れた。




***


 あのあとはどうやって帰ってきたんだっけ。
 気が付いたら、家の近くの林の中に倒れていた。そう言えば帰りの記憶がないやと、今更思い当たる。気に留めはしないけれど。

 寄り掛かった木に体重を預け、遥か遠くに見える空を見上げる。手を伸ばしてみても、届くはずもない。涼潤は伸ばした手をそっと下ろすと、膝を抱えて俯いた。流せるだけ流しきった涙は、跡は残っているがもう流れてはいない。誰かに見られている訳でもないが、泣き腫らした真っ赤な目を隠し込んだ。

「あの時の2人が、光の両親だったんだ―――」

 初めて光麗と会って会話した時、一瞬ドキリとした。2年前、ロザートで両親が死んだ。ただそれだけのフレーズで、あの日の事を強く連想させた。確証がなかったから、違うのだと信じ込んだ。感じる予感を、全力で否定していた。けれど、予感は当たってしまった。
 彼女が一番に大切にしているモノを奪ったのは、他でもない。自分だったのだ。


 もう、彼女には会えない。
 そして、彼らにも会えない。
 独りでどうにかするしかない。
 やっぱりあたしは、独りでいなければならないんだ。
 ずっとずっと。
 今までも、これからも。



 見上げた空には暗雲が増え、彼女の心境をそのまま映し出したかのような空模様になっていた。