Encounter

18
 一瞬だった。
 目の前に鋭利な氷の塊が飛んできたのも、それを彼が遮った事も。
 何が起きたのかも理解出来ずに、ただ目の前に広がる赤を呆然と眺めていた。



* * *

 試行錯誤の結果が得られないまま、遊龍の苛立ちは募る。気掛かりなのはこの場だけではないのだ。光麗も、涼潤も、早く捜し出さなければと気持ちは焦る。けれどだからと言ってこの場を放っておける訳がない。飛び回り、忙しなく視界を走る氷たちが彼を尚も苛立たせる。しかし無意識に氷を目で追っていた事で、気付く事が出来た。
 飛び回る氷の中でも別格に大きく、更に刃のように鋭利な氷が、主とも言える少女へと一直線に向かってきていた。抱える事も出来そうな巨大な氷刃に、俯く少女は気付いていない。

「ッ、おい!」

 叫んだのと、身体が動いたのは殆ど同時。彼女へ報せようと思うより早く、身体は勝手に動いていた。複雑な事は何も考えていない。ただ無意識に、彼女を庇いたかった。理由なんて何もない。次の瞬間には、遊龍は氷刃と少女の間に飛び出していた。

「うりゃぁーッ」

 無論そのまま立ち尽くし、串刺しになる気など毛頭無い。遊龍はがむしゃらに両手から鮮やかなオレンジを放った。熱気で歪められた空気が揺らめき、キラリと氷が赤を映す。灼熱の炎は一瞬で飛び回る氷を水滴へと変化させる。一層強くなる風は尚も吹き荒ぶが、少女の顔に当たるのはほんのり冷たい空気と、熱を帯びた風。微かに混じる水滴の冷たさに、ドキリとする程度だった。
 オレンジを映して煌めいた氷を見た少女は、どうしようもなく綺麗だと感じた。自分の氷と、彼の炎。
 けれど、そう考えている場合ではなかった。

「あッ」

 少女へと向かってきていた鋭利な氷刃は、始めに比べれば大分溶けて小さくなっていた。それでもまだ、大きめのナイフ程の大きさはあるだろう。その形が無くなるよりも先に遊龍との距離はゼロになった。

「やべ…ッ」

 鮮やかにオレンジを映したまま、速度を落とさずに飛んできた氷刃は容赦なく遊龍を襲った。危険を感じ、突き出していた腕を咄嗟に引くと、両腕を顔の前へと持ってくる。突然パリンと音を立て遊龍の目の前で砕けた氷は、細かくなったもののその鋭利さは少しも衰えておらず、顔を庇った剥き出しの腕をズタズタに切り裂いた。いくつもの裂傷が、無数に現れる。グサリと音がしたのではと思える程の激痛が、脳天にまで響いた。
 パッと飛んだ鮮血が一滴、少女の頬に触れた。その生暖かさにビクリと肩を震わせ、少女はそっと頬に手を当てる。ぺたりとした感触。掌を眺めた少女は、ようやくそれが彼の血である事に気付く。頭の中が、真っ白になった。

 なぜこのばでちがとぶの?
 なぜじぶんのものではないひとのちが。

「嫌………」

 微かな、誰にも届かない声。少女は瞳に涙を溜め、肩を震わせた。辺りの時が止まったのではと思わせる程、何もかもがゆっくりと動いた気がした。飛び散った氷の破片は、炎の熱で即座に消え去る。少女を傷付けるものはない。だが少女の涙は止まらなかった。

「もうこんなの、……嫌……」

 懇願するような呟きに乗せて。
 雨とは違う水滴がひとしずく、風に舞った。





 砕けた氷が姿を消した時、吹き荒んでいた冷気の嵐が静まっている事に気付く。しつこいくらいにぶつかってきていた氷も水滴も、気配を感じない。遊龍は、恐る恐る両腕を降ろした。

「止まっ……た?」

 右腕を動かした途端に激痛が走るが、力任せに無視を決め込む。辺りを見回してみても、もう何も舞ってはいない。氷の刃も何もなく、ただ穏やかな雨が静かに降りしきるだけだった。遊龍はほっと息をつく。雨を見て安堵するなど、初めての事だった。急にシンとした森は、何事もなかったかのようにひっそりとしている。否、嵐の傷跡は、あちこちに散らばる切り刻まれた木の葉や木の枝に残されていた。

「おい、大丈夫かよ?!」

 辺りに危険がない事を確認した遊龍はくるりと振り返り、そして思わずギョッとする。

「なッ、…なんで泣いてんだよ!」

 突然大声を出した所為か、少女はドキリと肩を震わせる。その途端、また一筋の涙が流れた。どうしたものかと遊龍はあたふたと視線をあちこちへ向ける。正直、涙というものは苦手なのだ。どう接したらいいのかが全く分からない。少しの間静止していた少女はしかし、遊龍の発した言葉の意味を理解しきるとバッと顔を上げ、彼を睨み付けた。

「ッ、泣いてない!」

 勢いよく否定された言葉に、今度は遊龍が動きを止める番だった。少女の声はそれでもまだ小さいものだったが、さっきまでの淡々とした声ではなかった。目をパチクリとさせ、そして僅かに間を置いた遊龍は思わず小さく吹き出してしまった。その様子に少女は訝しげに彼を見やる。

「なんで笑ってる?」
「へ?……いやだって、そんな………。ま、いーや」

 尚も笑みを浮かべながら、遊龍は言葉を打ち切った。不服そうに少女は睨み付けてくるが、思ったままを正直に言った所でやってくるのは反論だけだろう。そう思って遊龍は、自分の考えた言葉に蓋をした。そして代わりに、ニッと笑って言葉を掛ける。

「やっと元気になった?」
「え……?」

 案の定不思議そうに言葉の続きを待つ少女の視線が唐突にくすぐったいものになり、遊龍は思わず顔を逸らす。明らかに不自然な動きだったが、少女は気にも留めずに言葉を催促する。遊龍は仕方なく、頬を掻きながら小さく笑うと、言葉を続けた。

「さっきまで、全然元気ないように見えたからさ」

 間が空き、今度は少女がパッと顔を背けてしまった。彼女の動作に似たものを感じた遊龍は、催促することなく少女の様子を見守る事にした。それからしばらく動きはなく、双方とも黙り込んだままだった。





「それで?もう大丈夫なわけ?」

 額に巻いていた鉢巻きをグルグルと右腕に巻き付けながら、遊龍は少女に問い掛けた。
 怪我の手当てをしようにも、包帯も布も何もない状態ではどうする事も出来ない。せめて止血だけでもと鉢巻きを腕に巻いているのだが、遊龍の右腕だけで長さは尽きてしまった。仕方なく、短いながら袖も破って傷に巻き付けている。それでも遊龍の怪我全てを覆う事は出来ず、包帯を持ってくれば良かったと今更思ってもそれは後の祭りだった。その様子を静かに見守っていた少女は、苦しそうに顔を歪める。遊龍は何度も少女の怪我の様子を案じたのだが、少女からすれば、何故自分が心配されなければならないのかという程に、2人の傷の度合いには差があった。
 流黄秦羅、そう名乗った少女は色白で、線が細くて。今にも崩れそうな脆さを感じて。涼潤が話していた“冷気使いの秦羅”とは、とてもじゃないが同一人物だとは思えなかった。
 濡れるのも構わず木の下に座り込んでいた2人には微妙な距離感があり、それは歪な距離だった。

「止まったから、大丈夫なんだと思う。よくは、分からないけど」
「………。属性力、持ってる上に使えたんだよね……?」

 秦羅の物言いは、まるで人事のようで。違和感を感じた遊龍は恐る恐る首を傾げる。遊龍も、自分の炎の属性力の100%を知っているつもりはない。けれど彼女の場合は、自分の能力について知っている事が何も無いようにも見えた。2度目の問い掛けで、秦羅は遊龍へと視線を向けた。と同時に遊龍は右手に目を落とす。怪我の具合を眺める振りをして、目を逸らしていた。どうにも、目を合わせて話すのは得意ではないらしい。相手が見知らぬ少女なら尚更だ。

「うん、使えた。あくまで過去形。今は多分、使えないんだと思う。きっとさっきみたいに、暴走する」
「……なんで?」
「シーズが、私の能力の制御をしていたから」

 ドキンと。心臓が強く脈打った。
 シーズ。
 彼の名を聞くのは初めてではない。真鈴や烈斗の話に出てきた、―――光麗を連れ去った人物の名。彼らの話によれば、一連の出来事の元凶である人物。秦羅がMistyである以上、彼の名が出てくるのは当然の事だったのかもしれない。だが少しの可能性も考えていなかった所為で、遊龍は言葉を止めてしまった。
 雨はまだ降り続いている。穏やかに、静かに。まるで誰かが泣いているようで、無性にやるせない気持ちとなる。拳を強く握り、唇を噛みしめた。ここで、立ち止まっていてはいけない。何も進まない。

「そのシーズって奴と、Mistyとあんたと、どんな関係なワケ?Misty抜ける時は代償支払わなきゃなんないとか、そんなやつ?」

 今度は真っ直ぐに、秦羅を見て話す。苦手だとかそういう問題ではない。ただ無意識のままに、強く視線を向けていた。中々解決の出来ない疑問を解くチャンスなのだ。けれど今度は彼女の方が視線を落としてしまった。照れ臭さなどではない。俯いた、あまりにも淋しそうなその横顔に、遊龍はそれ以上に追究する事が出来なかった。

「そういうワケじゃ……ない。ただ、もう、必要じゃなくなっただけ」

 静かな、消え入りそうな声でそう言って。淡々としたその声には、また感情が込められていない。きっと感情を表現する事が苦手なんだろうと、遊龍はふと思った。けれどすぐに言葉の意味を考えて、訝しげに首を傾げる。強く問い返す事はしないが、沈黙だけで続きを促した。秦羅も、一呼吸置くと再び口を開いた。

「私、元々属性力は扱えないの。でもそれをシーズが制御して、扱えるようになってた。つまり、手綱はアイツが握っていたって事」
「そんな事って」
「出来るの。シーズは、………閑祈は、魔術師だから」

 半信半疑で疑問を口に出した遊龍だったが、即座に一蹴される。理解の追いつかない出来事の真相を聞きたかったのに、これでは謎が増えるばかりだ。言葉を一つずつ咀嚼し、一つずつ理解しようと努める。そして、聞き慣れない単語に首を傾げた。

「閑祈……?それに魔術師って……」
「……。彼は、人の記憶すらも操作出来るの。私も記憶を書き換えられていた。峻も」
「ッ、ちょっ、そんな事って」
「閑祈は、」

 話を折るように声を上げた遊龍を押さえつけるかのように、秦羅の声も張り上げられた。それはまるで悲痛な叫びのようで、思わず遊龍は息を飲む。何も、分からない。何故、彼女があんなにも泣きそうな顔で話しているのかが、全く分からなかった。

「閑祈は、強い魔術師で。世界で見ても5本指に入るとか言われてるらしいし。封印系の呪詛は大得意らしいし」

 顔を上げた秦羅は真っ直ぐに遊龍に視線を向け、そして淋しそうに、自嘲するかのように、笑った。

「だから、私なんかじゃ止められないの」


 仲間割れだとか、内部崩壊だとか。真鈴たちと話してからはずっとそういう事ばかりを考えていた。けれどこの少女の話では、既にそんなレベルの話ではないようで。

「リーダーは峻って奴じゃねーの?閑祈って誰なんだよ」

 考えても考えても、試行錯誤に慣れていない頭をフル回転させても、コレだと言える結論には行き着かない。考え得る可能性はもう出しきっている。真相は、当事者に聞かなければ理解出来ないのだ。当の少女は黙り込んだままで、しかし何も話さないという訳では無さそうだった。時折小さく動く口を見逃さぬよう、遊龍は彼女が話し出すまで待つ事にした。
 雨はまだ止まない。皆が皆、雨に隠れて空を見上げて、泣いていればいいと思った。



***

「ひさしぶり」

 にこやかな笑みを浮かべて木により掛かっている姿に、涼潤はあからさまに眉を顰めた。あの笑みが、本物ではない事などとっくに気付いている。本当は、これっぽっちも笑ってなんかいやしない。
 魔力を発する木を介し、空間を越えて辿り着いたのは、まだ森の中だった。そこが同じ森の中なのか、別の森の中なのかは判断が出来ない。しかし辿り着く事が分かっていたかのように待ち構える姿に、涼潤は嫌悪の表情を浮かべる。魔力を制御しているのは彼なのだ。考えていなかった訳ではないが、誰がいつ、どこであの木に触れるかなど容易く分かる事なのだろう。

「光を、どうしたの」

 それだけが唯一の気掛かりだった。最後に光麗に会った時、彼女は目に涙を目一杯浮かべていて。その姿を思い出す度に胸が強く締め付けられた。だがその隣に彼の、シーズの姿がある事には気付いていた。困惑と、動揺と、敵意と殺意。混ざり混ざってごっちゃとなっていた思考回路は、降りしきる雨を冷静に見つめて落ち着かせた。万全ではない。けれど、黙って何もしないという事は、今の涼潤には出来なかった。

「彼女なら大丈夫だよ。ちょっと預かっているだけだから。怪我ひとつ無いよ」

 にこりとそう言って。涼潤の反応を窺うように、シーズは言葉を句切る。涼潤の頭の中では、何かがカチンと音を立てた。握り締めた拳から、バチリと鋭い音が走る。笑みを浮かべたまま不思議そうに首を傾げるシーズの態度に、涼潤の怒りは更に増す。彼は、分かっていて知らない振りをする。そしてその態度を隠そうとしない。
 ざわりと木が揺れた。森の風ではない揺らめきが、まるで不協和音を奏でるかのように木々の間を走り抜けていく。穏やかな雨の降る速度が、急に落ちた気がした。

「アイツはどこ。教えなさい」

 バチンと激しい音を立て、涼潤は雷の刃を引き抜いた。切っ先を真っ直ぐにシーズへと向け、鋭く睨み付ける。身の丈よりも少し短いくらいの刃は、バチバチと音を立て光だけでその姿を維持している。涼潤がどこをどう握っているのかは、正確には分からない。けれど雷属性であるから握れるであろうその刃は、常人には触れる事すらも出来ないものだった。触れた途端に、その雷は容赦なくその者を襲う。
 一層雷の勢いが激しくなった時、涼潤は微かに笑みを浮かべるシーズの姿を見た。もう1度、カチンと音がする。

「それで僕に敵うと思ってるの?前も同じ事をして、何も出来なかったよね」

 切っ先は、シーズの目と鼻の先だ。けれど彼は怖じける事も動じる事もなく、涼潤に笑みを返した。目の前には何もないと、そう言いたげに。
 ふと、シーズはその笑みを止めた。
 重い雲は辺りを翳らす。通り雨はその姿を消すが、曇天の空だけはその場に居座り続けている。空気にすら重みを感じ、涼潤は不快に顔を歪めた。

「雷空涼潤。君は彼らを知っているかい?」

 前置きもなく、まるで言い捨てるかのように発した言葉に涼潤は眉を顰める。淡々とした感情の籠もらない声は、笑みを浮かべながら話している時のような嫌悪感は感じない。けれど、妙な不快感を覚えた。その感覚が気に入らず、涼潤は雷の刃を強く握り締めシーズの喉元へと突き出した。

「教えて。峻はどこ」

 強く、低く。しかし不意に訪れたのは言葉に出来ない不安感だった。ゾクリと、身が震えるのを感じた。

「彼らは、君と会いたがっている。遊んであげなよ」

 シーズが真っ直ぐに右手を伸ばし、涼潤は背後から感じたのが殺気だと気付く。シーズの伸ばした手の先を追うように、ゆっくりと振り返る。その視線はそのままの位置で固定され、瞳は大きく開かれた。
 空間の歪み。一瞬現れた仄かな白の光は、その後に現れた黒の空間に飲み込まれた。歪んだ森の木々は、そのものが変化しているのではない。平常な森の木々の前に、別の空間が開いていた。その中に不気味に光る無数の紅。思わずそれらを意図せず凝視する。

「僕を忘れていたらいけないよ?」

 声にハッとして振り返るが、既に手遅れだった。いつの間にか握られていた黒の刃が、目の前で振り下ろされた。避ける間もなく、涼潤は赤が散るのを見た。と同時に反動で俯せに倒れ込む。がはッと咳き込み、口に当てた手までも赤く染まった。激痛を背に感じ、立ち上がろうにも思うように身体は動かなかった。グッと右腕に体重を掛け身体を起こすが、それ以上には上がらない。
 顔を上げた時、涼潤は目の前に広がる闇に気付いた。先程の空間の歪み。それは人1人がゆうに入れる程の大きさの入り口で、しかしその中は広く深く。見慣れぬ木々が鬱蒼と乱立し、この森以上に明るさを与えられていない。恐らく、ここではないどこか別の場所に繋がっているのだろう。無数の紅は減ることなく、真っ直ぐに涼潤を向いていた。

 魔術師は未知なるものだった。属性者と似たような術を使い、だが根本的な何かは大きく異なっている。現に、このような空間を操作する術など、属性者に扱う事は出来ない。固定された自然の力1つを生まれた時から与えられているのが属性者である。それが炎であれ、雷であれ、変える事も無くす事も、新たに得る事も出来ない。そう伝えられてきた。しかし魔術に関しては、少なくともこのリュート大陸では深く伝えられていない。治癒の魔術が扱える涼潤ですら、その原理を理解していないのだ。

「何がしたいの?あたしを殺したいなら、すぐに殺せるんじゃないの?」

 忌々しげに下から睨み付け、涼潤は言った。息が荒く切れる。流れた血が地面を黒く染め、涼潤の顔色は反対に白くなっていた。流れすぎた血の所為で、頭がクラクラとしている。シーズは小さくふっと笑った。

「別に、殺したいワケじゃない」

 視線を空へ向け一呼吸置き、そしてもう一度涼潤へと視線を戻す。

「憂さ晴らし、って言ったら君は怒るかな」

 全くと言っていい程感情の籠もらぬ声に、理解出来ないといった顔で涼潤は無言で睨み返す。しかしシーズはその表情に答える事はなく、ふらりと踵を返した。ハッと涼潤が息を飲む。また、逃げられる。けれど彼はその足を進めることなく、背を向けたまま言葉を発した。

「君も大変だね。大切な家族を失ってからも、こんな目に遭ってる」
「あ、アンタなんかに言われたくないッ!遭いたくて遭ってるワケじゃない。あんた達は何がしたいって言うの?!」

 シーズの言葉に大きく叫び、途端にゲホゲホと咳き込む。痛みは引く事を知らない。必死に掛ける治癒の魔術も、効いているのかどうか怪しい所だ。何か様子がおかしいと気付き、シーズの後ろ姿を睨み付けた。その視線を感じたのか、静かに彼は振り返った。

「そっか。君には魔術の毒はあまり効かないんだったね。忘れてたよ」

 ふっと笑みを浮かべ、そう言って。本当に忘れていたのだろうか。いや、きっと初めから知っていた。知っていて、忘れていた振りをしているのだ。何故ならそう話した方が攻撃力があると知っているから。“魔術”という言葉が涼潤を縛っている事を、知っているから。

「君には、魔術師の血が流れているんだったね。それから、お兄さんも魔術師で……」
「それ以上言うなッ!」

 思い切り、叫んだ。動かなかった身体を奮い起こして、怒りに身を任せて立ち上がる。ぐらりと揺れる視界が気持ち悪くて、足がふらりとバランスを崩しそうになる。それでも、立ち続けた。
 一番聞きたい言葉を、一番聞きたくなかった口から聞いた。
 今の涼潤を支配するのは完全な嫌悪。そして憎悪だった。消えていた雷の刃を再び手にし、切っ先を鋭くシーズへと向ける。だらりと血が零れる。少しでも動けば、また倒れそうな気がした。

「兄の事、その口で話すな」

 大切な人
 会えない人
 会いたい人

 長い間抱き続けていた感情が溢れ出す。突然失踪した兄には、その時から一度も会っていない。幼い頃の記憶は、日増しに強く濃く脳裏に残り、少しも色褪せる事など無かった。今でもまだ、彼に会える事だけを祈っていた。

「そっか。そう。じゃあ、もう終わろうか。彼に………会ったんだけどね」
「ッ?!」

 ドクンと鼓動が早まり、目を見開く。動揺を誘っているだなんて、そんな事は分かっている。ニヤリと笑んだあの表情が何よりの証拠。だがその理解以上に、言葉は涼潤の思考回路にまとわりついた。

「どこで!?どこで会ったの!」
「さあ。どこだろうね」
「答えて!教えてッッ!」

 悲痛に叫んだ声は虚しく響く。駆け出した涼潤の目の前で、間を置かずシーズの姿は消え去った。目標物を失った視線は、なんの動きも見せない森の木々だけを映す。呆然とそれらを見つめた涼潤は、どさりと地に座り込んだ。全身の力が抜け、思考はグルグルと靄の中を漂っていた。

「やー兄………どこ……?」

 無意識のうちに涙が溢れ、そして流れる。
 兄が行方を眩まして、立ち直れなかった日々は長い。だがようやっと立ち直りつつあった頃に、両親が殺された。峻の手によって。憎悪よりも先に来たのは、果てのない喪失感。全てが無になった気がして、何もかもがどうでも良いと思った。それが憎悪に駆り立てられここまで来たのは、犠牲になったのが自分だけではなかったから。自分だけだったら全てを捨てていたであろうあの時、幼馴染みも同じ目に遭っていたから。そして彼は、自分では何も出来ないという状態に陥っていたから。思えば、なんて分かりやすい筋道なのだろう。
 今になって、兄が生きているという可能性を微かに掴んでしまった。それが嬉しくて、それ以上に悔しさと空しさが込み上げた。

 ザッと、重い足音が聞こえた。
 まだ涙の浮かぶ目を、ゆっくりと背後へと向けた。足音と共に聞こえるのは、低い唸り声。幾数もの声が混じり合い、重なり合い、辺りに響き渡る音には暗い重さを感じる。
 空間の歪みから現れたのは、闇色の狼だった。深紅の瞳と、鋭く覗く牙と。向けられた彼らの視線は、純粋な敵意。

「ヘル……ウルフ」

 闇色を特徴とする獣、いわゆる魔獣と呼ばれる生き物は、本来この辺りには生息していない。人間との共存を図る事の出来なかった彼らは、多くは深い山奥に暮らしている。つまり、あの空間の歪みはその山奥へと繋がっていたのだろう。突然現れた空間に、獣たちも混乱し、そして怒っている。彼らの言葉を知る術はないが、それだけは理解した。
 ざっと数えて十数頭。こちら側の森に出てきたヘルウルフは、次第に涼潤との距離を狭めてくる。その背後で、音も立てずに空間の切れ目は閉じていた。ウルフたちを、追い返す事は出来ない。涼潤の顔が真っ青なのは、恐怖からだけではない。すっかり血の気を失った顔には、まだ困惑も浮かべられていた。
 ヘルウルフの低い声が、涼潤に狙いを定めた。