Encounter

19
「………涼?」

 一瞬、何かが脳裏を駆け抜けた。それがなんだったのか、イマイチよく分からない。予感なのか、不安なのか。言葉に表せぬ感情が、表情に表れた。

「どうしたの?………涼潤?」

 不意に言葉を止めた遊龍に、少女は明確に言葉を掛けた。一見すれば無表情である彼女も、よくよく観察すれば浮かべているのは不安。遊龍は逡巡迷った。今の“何か”が涼潤の事だとすれば、今すぐにでも探し出したい。けれど、この目の前にいる少女を置いていく事もまた不安の要因なのだった。首を傾げた秦羅への返答を少し遅らせ、首をぶんと振った。
 今は、自分に出来る事をしよう。
 不安は拭えないが、だからといってただがむしゃらに走り回る事も賢明ではない。今自分に出来る事があるから、今は彼女を信じるしかなかった。

「話止めちゃってごめん。……もうちょっとさ、詳しく教えてくんない?Mistyのこと」


 彼らの事を知らなければ、何をするべきなのかも分からないのだから。



***


 なぜ
 どうして
 ―――いつからだった?


 朦朧とする意識の中で、その言葉だけが延々と繰り返される。答えのでない問いに、答える者も答える術も浮かばない。その答えは知っているはずなのに、分かるはずなのに。深く覆われた思考は正常な働きをしていない。
 同時に浮かぶヴィジョンは、真っ赤に染まった自らの両手。
 真っ暗な視界が、真っ赤に染まる。途端に真白な無の世界となり、再び暗転する。繰り返される光景に、突然現れる赤に。思わず悲鳴を上げたくなった。


「思い出した」

 急激に世界が変わった。
 一色だった視界は開け、様々な色や形が目に飛び込んでくる。曇り空から零れる微かな光ですら、眩しかった。そっと顔を上げ、久方ぶりに空を見上げる。一体どれくらい、“目を閉じて”いたのだろう。曇天の空に僅かな切れ目が生まれ、真っ直ぐに光が差し込んでいる。その着地点はここから近くはないが、いずれあの光は自分の所にまで届くのだろうかと、そう思った。
 ばさりと零れた髪を、鬱陶しそうに掻き上げる。

「どうして、今頃になって思い出すんだ」

 苦しそうに顔を歪め、溢れ出る涙は止まる事を知らない。指に絡んだ長い髪を、強く握り締める。空と海の混じった色と称したのは、あの少女だった。綺麗だね、と微笑んだのは彼だった。脳裏に浮かぶ彼らの声は、ガラスが割れるように崩れ去っていった。握った手に、一層力を込める。

 どうせなら、全てを消したままでいたかった。
 闇の存在も、自分の存在も。
 今はもう、苦痛以外のなんでもない。

 ざわりと木々が揺らいだ。風たちが、騒いでいる。それは恐怖なのか不安なのか、期待なのか歓喜なのか。彼らの言葉を聞き取る事は出来ないし、感情を読み取る事も出来ない。ただずっと、ざわざわと騒いでいるだけだった。

「どうして、戻したんだ?」

 言葉を宛てた人物は、ここにはいない。呆然とした呟きは、風に乗せられる。届けられればいい。届かなくてもいい。彼にはもう1度、会いに行かなければならない。放っておける訳がない。未だぼんやりとしている頭を叱咤し、ふらりと立ち上がり空を見上げる。流れの速い雲たちは、忙しなく動いて形を変える。降り注ぐ光はその量を増す。手を伸ばしても届かない光がもどかしくて、悔しかった。

「なんで、俺だけ」

 伸ばしたまま、手を握る。掴めたものは何もない。けれど誓った。
 大切な者をただ救いたいだけ
 闇に堕ちた者を光に誘いたいだけ

「間違っていないだろう?閑祈」

 峻はそう呟いた。


***

 死が目の前に迫っていた。

 涼潤は立ち上がれないまま、ただ呆然とヘルウルフが近付いてくるのを眺めていた。慎重に歩み寄る彼らは、真っ黒な巨体に真っ赤な宝石のような瞳を持って。その紅玉に、涼潤の姿が逆さまに映った。涙を流すその姿を見て、「弱虫」と自らを罵る。
 精神的にも体力的にも、立ち上がる事が出来ない。もういっそ全て投げ捨ててしまいたいとさえ思う。そうでなくとも、まだ激痛の残る傷跡に顔を顰めるばかりである。回復しようにも、涼潤の持つ魔力は元々少量ですぐに尽きやすい。深い傷であればその分治癒にも力が必要になる。明らかに、力が足りていなかった。

 投げ捨てるのは簡単だ。このままここで、何もしなければいい。そうしたらあたしは終わる。全部全部忘れて、全部終われる。涼潤は静かに目を閉じた。


『1人じゃないんだからね』


 ドキリ、と。呼吸を止めた。そして目を開く。ヘルウルフとの距離は先程とは変わっていない。鋭く睨まれる視線もそのまま。窺っているのは、飛びかかるタイミングなのだろう。彼らが良しと思えば、すぐにでもその牙は自分に突き刺さる。
 脳裏に響いたのは、あの風の少女の言葉。柔らかい声音で、優しい笑みと共に貰った言葉だった。ギュと、涼潤は唇を噛みしめた。
 彼女の平和を、平穏を奪ったのは自分だ。例えそれにMistyが絡んでいようとも、変える事の出来ない事実。彼女も知ってしまったから、涙した。あの優しい子に、あんな悲痛な涙は似合わない。
 もし彼女が最初から知っていたら―――。同じ言葉を掛けて貰えていたのだろうか。
 謝りたかった。会って、ちゃんと。許して貰えずとも、憎まれても恨まれても、謝りきれなくても。ただ、ごめんなさいが言いたかった。

 ヘルウルフの気配が動いた。最初の1頭が踏み出したのを合図に、残りの十数頭が一斉に駆け出す。勢いよく涼潤へと数頭が飛び掛かった時、彼女は彼らを見上げた。否、彼らの遥か上空、空を見上げた。
 鋭利な稲妻が、空から地面へと走り抜けた。
 バチンと音を立てて、涼潤の目の前まで迫っていたヘルウルフに次々と突き刺さる。雷の槍は、飛び掛かってきたウルフ全てに狙いを定め、そして的確に射ていた。しかし間髪入れずにその後方から別のウルフが飛び出す。その姿を涼潤はただ凝視していた。危険など微塵も感じさせない表情で、静かに呟く。

「雷壁」

 恐らく1秒後には涼潤の喉元を噛み切っていたであろうウルフの牙が、バチバチと音を立て突き刺さった。勿論涼潤にではない。感情という感情のない、本能のままに動いている魔獣、ヘルウルフ。彼らでも“恐怖”と“混乱”は持ち合わせていたのだろう。飛び退ったウルフは、何が起きたのか分からないといった風に低く唸っていた。涼潤の周囲に瞬時に展開された雷壁は、何人をも拒む。触れれば即座に雷の餌食である。それに気付いたであろうウルフが、警戒しながら涼潤の周囲をグルグルと回った。
 最初の稲妻で仕留められたのは6頭。残りは8頭。威嚇し再び狙いを定めるも、雷壁がある為に飛び掛かる事は出来ないでいるようだった。
 雷壁を展開させたまま、涼潤は再度回復魔術を試みる。傷が完全に癒えずとも、せめてこの痛みだけでも引けばなんとかなる。いつまでも雷壁に頼ってはいられなかった。掌で小さく光り出した仄かな白い光は、静かにゆっくりと涼潤の身体を包み込んでいく。その光を背に集中させ、シーズの刃によって傷付けられた部分を集中的に治癒していく。普段よりも力を込めるせいで、息が上がる。回復しているのか身を削っているのかの判別が付かない程、高度な治癒術は彼女にとって負担だった。

「やー兄」

 小さく、小さく呟く。“どこか”にいるであろう彼の姿を思い起こしては、何度も気を滅入らせる。魔術を使う度に思い出すのは、彼の事だった。魔力の少ない涼潤とは違い、彼は生まれつき豊富な魔力を持っていた。涼潤には見えない者を見る事が出来、会話し。そして彼女に魔術を教えたのも彼だった。何よりも、大切な人。
 拳を握り締め、魔力に集中する。じんわりと、彼の魔力が混じる。

「あたし、やー兄に会えないの?」

 誰かに宛てているとは思えない程の微かな声で、不安を口にする。その途端、涼潤は首を左右に振った。自らの考えを、思い切り否定して。

 絶対に。

 唐突に、激しい轟音が鳴り響き辺りは閃光に包まれた。雷壁の周辺にいたヘルウルフたちの姿も、涼潤の姿も、閃光に包まれる。耳をつんざくような音に潰されて、他の音は全て飲み込まれた。大地が揺れ、低い地響きまでもが雷の音に混じり轟いていた。
 どれくらい続いていたのだろう。やがて収束していく白い閃光の中、動くものは何もなかった。地響きは長く引き摺られ、何かに反響するかのように低く波打つ。閃光よりも収まるまでに時間を要した。そしてようやっと辺りが静寂を取り戻した時、閃光の発生した中心部分から、涼潤はふらりと立ち上がった。ぐるりと周囲を見回してみても、もう何も残ってはいない。強烈な霹靂は全てを無に帰す程の勢いで、ヘルウルフたちを燃やし尽くしたのだった。
 いつの間にか解けた髪を風に揺らし、立ち尽くす。今の雷は、自分のものではない。扱った事のない激烈な力に、涼潤は戸惑った。しかし掌を呆然と眺め、やがて気付く。創世神話に出てくる導神≪ミチビキノミカミ≫は、雷の神だったと。

「あなたが、導神なの?」

 どこか確信した声音で、問い掛ける。辺りには誰もいない。問い掛けの先は、自分の中なのだ。そして、返事は聴覚ではない所から聞こえた。

『迷惑を掛けて、ごめんなさい』

 脳内に直接響くゆったりとした声は、落ち着いたトーンを醸し出している。言葉数は少なく、それ以上の返事はなかった。けれどそれだけで、知るべき事は知る事が出来た。風が頬を撫でる。髪が弄ばれ、揺らぐ。風の少女を捜して、風たちも森の中を忙しなく動き回っているのかもしれない。涼潤は拳を握り締めると、強い視線で前を見据えた。

「あたしはまだ死ねない。会いたい人が、いるんだから」

 背の傷の痛みは、大分和らいでいた。見る事は出来ないが、血は流れていない。恐らく、先程の治癒魔術が効いたのだろう。ただ、少しばかり魔力を使いすぎた気がする。まだクラクラとする頭を押さえ、一歩ずつ踏み出す。まずは、彼らを捜さなければ。

「あたしを泣かせた罪は、でかいんだから」

 歩む先を鋭く睨み付けて、涼潤は拳を近くの木の幹にぶつけた。拳に感じる痛みよりも、まだ背に感じる痛みの方が大きい。それでも、やるべき事は定まった。あとはもう、そこまで歩いていくだけ。アイツを見つけるだけ。

 ―――だから、待ってなさい。




***

 激しい轟音が聞こえた。あれはきっと、雷。そして、彼女。まさかじゃなくて、絶対。

「やっぱり、涼なら大丈夫だよな」

 話の途中でもどこか浮ついていた遊龍は、とうとうその視線を秦羅から外した。見上げるのは空。ここからは何も見えないが、どこかで空からではない雷が落ちたのだろう。厚い雲で覆われた空には、所々切れ目が見えている。差し込む光は徐々に増し、やがて夏の晴れ空が広がるのだろう。雨の所為で沈んでいた周囲も森も気持ちも全部、陽の光に照らされればいい。
 空を見上げる遊龍を不思議そうに眺めていた秦羅は、可笑しそうに小さく吹き出した。しかし、からかわれるのが嫌ですぐさまその表情を消す。そしてちらりと彼の様子を伺い、気付かれていないかを確認してしまう。幸い遊龍は振り返ることなく、空と睨めっこをしたままだった。

「それで、何から話せばいい?」

 間を置いて、秦羅は声を掛けた。ふっと遊龍は振り返り、彼女へと視線を合わせる。座り込んだままの地面はまだ湿っているが、衣服も髪もまだ濡れたままでは気になる事もない。陽が差して晴れ渡れば、きっとすぐにでも乾くのだろう。ひんやりとした地面は、どこか心地よかった。秦羅の問いに、遊龍は思わず左手を顎や口に当てながら頭を捻ってしまう。

「えー…っと、何って言われてもなー。何も分かんねーからどっから聞いて良いのやら………」

 頭をあちこちに傾けてはうんうん唸る彼の様子に、秦羅は呆れるやら可笑しいやらで肩を竦めた。すぐには答えが出ないと思い溜め息を零した所で、突然遊龍は声を上げた。

「そだっ、あのさ、結局の所Mistyって、誰がなんの為に作ったワケ?」

 唐突さに目をパチクリとさせた秦羅は、質問の内容に今度はキョトンとする。

「そんな事で良いの?」
「いや、ほら、気になるじゃん。そう言う事。それに、目的とか分かれば対処も出来ると思うし」

 人差し指を立てそう説明する遊龍に、秦羅は一応納得した風を見せた。恐らく彼女は、すぐにでも解決に結びつくような問いを期待していたのだろう。けれど遊龍からしてみれば、根本的な部分が何も分からないままでは解決も何も出来ない、だから元を知りたい、という事なのだった。
 秦羅は軽く俯き少しの間目を閉じ、何かを思案しているようだった。遊龍は不安げにその様子を眺めていたが、やがて彼女の目はゆっくりと開かれた。きっと話す内容を、纏めていた。その口が、やはりゆっくりと開かれる。


「Mistyは、初めは3人だけだった。その3人が創始者。作った頃はこんな、人を殺したりするような目的なんて何も、無かった」
「え………?ってか、その3人って、」

 視線をすっと上げて。雲の隙間から覗いた青の空に、彼の蒼を重ねた。呆然と見つめる遊龍に視線を戻すと、彼女はにっこりと微笑んだ。

「峻と閑祈。それに、私」