Encounter

25
 会った事もないのに、彼がそうなんだと遊龍は思った。
 その事実を何よりも流黄が証明している。彼女の表情がここまで変わるとは正直思っていなかったのだ。

「しゅ…ん………?」

 確認するように、更に小さく呟いた流黄の声は、しかし彼にはしっかりと届いていたようである。こくりと頷くと、彼の蒼の髪がさらりと揺れた。最後に峻と会ったのは、ほんの2,3日前の事である。だから『久し振り』という言葉が、その期間を指している訳ではないと流黄はすぐに気が付いた。だから答えは、出ていた。

「峻―――!」

 3回目の呼びかけは、既に確信だった。無我夢中に走り出して、言葉にも行動にも迷いを持っていない。一粒の雫がひらりと飛んだ。

 遊龍から見える光景は、会って間もない人と、初めて会った人同士の再会。全然知らない人たちのハズだというのに、その光景には少しばかりの安堵を感じた。それと同時に、ほんの少しの寂しさ。

 瞳にめいいっぱいの涙を溜めて飛びついてきた少女を支えるのは、難しい事ではない。難しいのは、本当の意味で彼女を支える事、次に掛ける言葉を見つける事。しかしそれらは、今すぐ必要という訳ではなかった。小さな少女の背を軽く叩くだけで、心が少し安らいだ。


「バカ」

 呟いた言葉が誰に対したものだったのか、流黄本人にも分からなかっただろう。



***

「遊龍」
「――へ?!」

 大分間を置いて唐突に掛けられた声へ、遊龍は思わず間抜けな返事をする。声の主は蒼髪の青年。隣に佇んでいるのは、ついさっきまで遊龍の隣にいた少女。泣き腫らして真っ赤になった目を、少しだけ俯いて隠したがっていた。自分の隣にいた時には気丈だったのに、彼の隣へ駆け寄った途端に涙を零した彼女が、あっという間に遠くへと行ってしまったような気がした。

「お前は、俺の話を聞く気はあるか?」

 峻がそう言う。普段の彼が一体どういう人物であるのかは知らないが、その声が少し震えていると感じたのは、気のせいではないのかもしれない。シーズに感情を弄られるまでの彼は、流黄曰く“やんちゃ”で“明るかった”らしい。今の彼が自分の感情を取り戻しているのであれば、その感情が彼にはあるという事になる。そうなると、きっと遊龍に声を掛ける事を不安がっていても仕方がない、と思うのだ。
 その考えとは別に。峻の言葉が自分へと向けられるのは初めてのハズだというのに、何故だか遊龍は懐かしさを感じた。それが自分の感情なのか、中に眠るという戦神の感情なのかは判断出来なかったが。
 峻の暗緑の瞳には翳りが無く、真っ直ぐに遊龍の事を捉えていた。

「オレは、流黄と話して流黄を信用したから。その流黄が信用してる相手なんだし、話、聞きたいと思う。まだ知らない事、多すぎだからさ」

 “今”はただ、解決方法を導き出したかった。言ってやりたい事も、嫌悪したい事も、今はまだ目を瞑っておく。そうしないと見たいものも見えなくなってしまうから。そうやって自分の奥の感情を押さえつけて、遊龍はぎこちなく表面の感情で笑って見せた。
 刹那の空白が生まれる。その間に、小さく小さく礼が述べられた事に、遊龍は気付かなかった。

「ルキから聞いたんだろう、閑祈の事は」
「あー、うん。一応。色々大変だったんだろ」

 しっかりとした答えをすぐには用意出来ず、曖昧な言葉を返す。下手に言葉を発すれば、脆そうな彼らはすぐに崩れてしまいそうである。自分を偽ってでも彼らを傷付けたくないと思う辺り、遊龍はどうやら根っからのお人好しのようである。

「まあ、な。それとさっきの続きだ。お前の親を殺したのはシーズだ。神の力を持つ者がロザートにいるとは思っていなかったようで、見つけるのに手間取ったらしい。見つけてすぐに手に掛けたと、聞いた」

 どんなにすごい力だろうが、身勝手な自分の都合という事には変わりない。遊龍には言葉を返す事が出来なかった。彼らの感情をいくら知った所で、「許す」「許さない」はまた別の所にあるのだ。遊龍の中では数度目かの葛藤が生じる。罵倒や殴打という選択肢すらも思い浮かぶ程に。しかし、「今だけは」、という言葉をこんなにも使ったのは初めてだった。今だけは、自分の事には我慢しよう、と。終わったあとにまた、考えようと。
 俯いていた顔を上げると、彼の瞳を自分の目へと焼き付ける。拳を強く握り締め、必死に耐えて口を動かす。

「分かった。………オレの親の事はもう、いーよ。だからさ、今からの事教えてよ。閑祈は、…シーズは光を連れて行って何をしよーってんだよ」

 言い切ってひとつ、息をつく。平気じゃない、なんていうのはバレバレだったが、ここでウダウダ言っていても先へは進めない。これから起きる事がまた誰かを傷付けるかもしれないと言うのなら、今は先の事だけを考えようと思った。今捜しているのは、光麗と涼潤の事なのだ。光麗は、目の前でシーズと共に消えたから。
 夜の帳が降りてくる。少しずつ、少しずつ。光が減り、闇が増す。暗さに紛れて、互いの表情は消え去った。夜の風が淋しげに通りすぎていく。

「シーズは、創造神だけでは足りなくなったらしい」

 不意に発せられた言葉は、遊龍の予想とは大分外れていた。一瞬理解に追いつかずにきょとんとするも、その意味に気付くとはたと表情を止めた。それは流黄も同じだったようである。「え、」と小さな声が漏れる。

「それってどーいう…」
「正確には、創造神ではなく別の力を求め始めた、か。創造神は“創造”の神だ。“力”の神ではない。莫大な力を持っている事に変わりはないが、それは主に“創る”という行為に発揮される。つまり、」
「純粋に“力”を持った神の力が欲しくなった、ってこと?」
「おそらく」

 流黄の言葉に、峻は頷いた。

「何がしたいっつーんだよ………」

 遊龍には、そうとしか言えなかった。力を求めて、何をするというのだ。彼が力を求める理由が、遊龍には―――いや、遊龍だけではなく、流黄にも峻にも分からなかった。そして。

「創造神より“力”がある神って、なんなんだよ」

 その疑問へと辿り着く。シーズが求めているものが分からなくては、防ぎようがない。彼が何をしようとしているのかが分からずとも、これ以上おかしな現象を発生させたくなかった。
 “力”、と聞いてすぐに連想したのは、戦神だった。遊龍自身の中にいるというその神は、神話の中では最強の戦の神だったと。しかし今の所目立って遊龍に何かあったわけではないところを見ると、他の力があるのかもしれない。そう思った。おずおずと、窺うように峻を見やると、硬くなった彼の表情が目に入る。はっきりとは見えないが、口を閉ざして沈黙を生み出す所を見ると、どうやら言い辛い事象のようである。顔を背ける気配がした。

「邪神ライヒンス。彼女の力は、フェイゼニス神と同等。ただ、さっきも言った通り純粋に“力”という面だけを見れば彼女の方が強い」
「ちょっと待てよ、邪神って倒されたんじゃねーの?」

 述べられた言葉に違和感を感じて、遊龍は真鈴に聞いた神話の記憶を辿る。神々の心から生まれたという“邪心”は、いつしか実体を持って“邪神”となった。多くの神が消える原因となったその邪神は、創造神とその補佐の神、彼らが倒したと、そう言っていなかっただろうか。首を傾げて問い掛ける。

「正確には倒してはいない。封印しただけだ。封印されたまま現代にまで残り、そして彼女は今、限りなく目覚めに近い」
「マジかよ………」

 邪神が目覚める。それが指す意味は不明瞭すぎて想像が付かないが、良い事ではないのだろう。相変わらず突拍子もない夢物語も、ここまで連続で話されれば信じてしまうものなのかもしれない。“神”という言葉の連呼に、遊龍はいつしか慣れてしまっていた。
 邪神の話に、自分の中で何かが疼くような気がした。もしかしたらこれが、見た事もない太古の神の力なのかもしれない。


「だが強大な神の力を、ヒトの身に宿す事は不可能だ」


 峻の言葉は、揺れていた。
 遊龍はその言葉の意味を考える。物語なんかでよくある話だ。力を吸収しすぎて、自滅してしまう悪役の話。まさか現実にそんな事を見るだなんて思ってもいなかったが、少なくとも今の峻はその事を危惧しているのだろう。
 月のない、夜が始まった。星明かりだけでは照らしきれない3人は、すっかり暗闇の中に潜ってしまっている。別行動中のメンバーも、今頃は休んでいる事だろう。

「負の力が更に閑祈を飲み込む。もしくは、ヒトの身が破壊される」

 そう峻は続けた。流黄はずっと黙り込んでいる。彼らもまた、大切な人を失いたくないと思っていた。目の前で失って、遠くへ行って。その事すら忘れていた5年間は何も感じずとも、今の彼らは思い出してしまっている。大切だった人の事を。今またシーズを―――閑祈を失えば、彼らにとって2度目の喪失という事になってしまう。自業自得、とは遊龍には言う事が出来なかった。
 握ったままで、爪まで立てていた所為で赤くなった拳を開くと、もう一度遊龍は強く握り締めた。覚悟を決めるように。

「オレは、正直あんた達を許せないし、特に閑祈の事はもっと許せない。力に溺れたとか、オレに神に力が宿ってるとか、そんな事言われたって結局は全部そっちの都合だろ。オレらは勝手に巻き込まれただけだし」

 だから許せない。涼潤も竜神も、同じ事を考えるんじゃないかと思った。強く拳を握ると腕にも力が入り、途端に激痛を感じて、そういえば怪我していたんだったと思い出した。ズキズキと痛むのを考えると、いつの間にか傷口が開いていたのかもしれない。だがその痛みすら無視して、遊龍は言葉を続ける。

「けど、それとは別に考えたんだよ。失うのは嫌なんだろ。オレだって嫌だよ。だから、許せないけど、協力はしたい。大事な人を2度も失って貰いたくない」

 返事は何もなかった。静かすぎる周囲に、自分1人しかいないのではという錯覚に陥る。おもむろに遊龍は左手を挙げた。パッと広がる深紅の炎に、暗闇だった空間がゆらゆらと照らされる。見えなかった人影が露わになった。
 蒼の彼は、変わらずこちらを凝視していた。ただひとつ違うのは、その暗緑の瞳から一筋の線が生まれていたという事。揺れる炎を拒むことなく写し取り、紅く煌めく一筋。遊龍の炎に気付き、峻はそっと目を伏せた。

「いいよな、峻」

 出来る限りに笑った。もの凄く必死だったが、大事なものを守りたいのはお互い同じだと、そう思ったから遊龍は笑った。

「ああ」

 言葉少なに、峻は頷いた。彼は、何故、と思わずにはいられなかった。恨まれて当然だったのに、恨まれると思っていたのに、遊龍は笑った。それが作っているものだとしても、笑って協力すると言ったのだ。全てを灼く事が出来る炎は、自分へと向けられる事はなかった。その炎は優しく、かつての閑祈を重ねた。
 これ以上、闇を増やしてはいけないと思った。
 自分の弱さゆえに失ったヒカリ、2年前の彼らはもう戻っては来ない。せめて彼らの言葉は叶えたかった。そして戻す事の出来るヒカリは、取り戻したかった。

『あなただって、いつかは分かるはず。きっと気付く事ができる』
『あの子は、優しい子だから。きっと分かってくれる』

 あの日のあのヒカリは、全て知っていたのだろうか。遠風光麗の両親は、峻に対してそう言っていた。今思えば、不思議な言葉を投げ掛けてくる人だったと峻は思う。峻と出会った時には、何かの覚悟を決めていたような。その時の事はあまり覚えていないのだが、彼らの言葉は鮮明に脳裏に残っていた。

「光の―――いや、シーズの居場所、教えてくれ」

 揺らめく炎をまだ掲げながら、遊龍は言った。2人の会話をずっと見ていた流黄は、遊龍の左手に現れる炎に違和感を感じたが、何故それを違和感と感じたのかには気づけなかった。
 遊龍が光麗ではなくシーズの居場所を訊ねたからだろう。峻はドキリと遊龍を見やった。自分よりも随分年下に当たる彼は、年相応の顔付きだというのに今の自分よりは随分しっかりしていると見えてしまった。
 峻は、怖々と口を開く。

「遠風光麗の場所じゃなくて、いいのか」
「シーズの所に、いるんだろ」

 この時の遊龍が、一番強がっていたかもしれない。
 遊龍の考えている事が事実ではなければ、彼女が巻き込まれている事も、連れ去られた理由も説明する事が出来ない。認めたくはなかったが、峻の表情の変化で、その考えはほぼ確信的なものになってしまった。
 ざわりと揺れる風が頬を撫でる。風が騒がしかったのも、この所為なんだろうかと遊龍はぼんやりと思った。峻は息をつくと、そっと話し出した。

「邪神も創造神や補佐神と同じように、今はヒトの身に宿っている」

 黙ったまま、遊龍は言葉の続きを待つ。胸中で「やっぱり」と、呟いた。遊龍がその先に気付いているという事にも気付いていたが、それでも事実を述べる事が峻にとって重荷だった。流黄は、不安げに峻を見上げる。


「邪神ライヒンスは、今は遠風光麗の中にいる」


 夏の生暖かい風が、森の中を全力で駆け抜けていった。