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カテゴリー: 悲しみのサイザ

お題:黒い

気が付いた時には辺り一面が真っ暗闇で、見える物も触れられる物も何一つ無かった。
これが終焉というものなのか。
そう漠然と感じた時に、一つの事に気付く。
今自分は物を考えて、そして見えないと思う「目」も、触れられないと感じる「手」も、そしてそう考える「頭」も持っている。何もない、訳ではない。そしてここには「空間」がある。
そうなると、今のこの状況が余計に理解ができなくなった。
「足下」は分かるが「地面」は分からない。立っているような気もするが、浮かんでいるような気もする。思考なのか、独り言なのか、「口」が動くような気はするが、「声」は聞こえていない気もする。「脳」に伝わっているのか「耳」を介しているのか、それも分からなかった。
けれど、生きていることは確かだった。
どうしてこの場所にいるのか。それは思い出せなかった。気が付いたらここにいて、その前は分からない。今この瞬間にこの場に生まれ落ちたのだと思える程に何も思い出せなかった。
「   」
言葉を発する、という行為はしっていて、やり方も知っている。けれどそれは実行できなかった。間違っているのか、合っているのにできない状況なのか、それは判断できない。この空間で、自分に出来る事がなんなのかが分からなかった。
「なぁにもがいてるの?」
どうやら、「耳」が「音」を聞く事は、今の自分にも出来る事だったらしい。
不意に響いたその声は、どこか楽しそうに笑っている「女」の声だった。
「    」
しかし返事をする事はできなかった。言葉も分かるし、言おうとしている事もあるというのに。
「そうだなぁ、ゆっくりと考えてみたらどう?ゆっくり、ゆっくり、思い出そうとしなくていい。記憶ってモノは思い出すモノじゃない。そこに存在しているモノなんだか。それを辿ってみたらいいんじゃないかな」
それを「思い出す」と言うのではなかろうか。そう思いながらも、それを口にする事はできなかった。
女の言葉を真に受けるつもりはなかったが、他にやる事もないので試してみる事にした。辿る。ぷっつりと切れてしまっている糸の先を、遙か遠くを見通すかのように辿る。
真っ暗闇の中に細く微かに消えそうな白い糸が見えている、ような気がする。暗闇の中に見えるのは、それだけだった。途切れているような、隠れているような、そんな糸に思わず手を伸ばした。幻覚だと思っていたその白に、「指先」が少しだけ触れる。
その一瞬で、暗闇の色が反転した。

長い髪と長いスカートを揺らしながらスキップで広間を横切っていると、ふと視線を感じた。
「なーに?」
足を止めて視線を感じる先を振り返ると、そこには真っ黒なフードを目深に被り真っ黒なワンピースを来た少女が立っている。
「理解できない趣味だなって思って」
少女は悪びれもせずにそう言った。こちらも、悪い気はしない。何故なら人の趣味など理解できなくて当然だからだ。押し付ける気はない。
「ああいうヒトは消えちゃった方がシアワセなんじゃないかな。そしたらまた次があるんだし」
髪をくるくると指に巻き付けながら、暗闇の中の「分岐点」に立っていた人物を思い出す。暗闇に消えて溶けていくヒトもいれば、早々に意識を取り戻すヒトもいる、目を覚ましてすぐに「記憶」を取り戻して再び狂ったように暴れ出すヒトもいる。一度放り込まれたらその後の道は流れに身を任せるようなものだが、その流れをちょっとつついて変えてしまうのが好きだった。それが「趣味」だった。
「次、ね」
「なーに、ルイちゃんも次を見たい?」
「遠慮しておく。それに私には次なんてないって知ってるでしょ」
「まーね」
淡々と感情の籠もらない声に、精一杯の笑顔を向けて応えておいた。

思い出したら消えてしまうこの世界で、自分一人だけが異端者だった。

+++++
20分

悲しみのサイザ

あなたはだぁれ

 ひんやりとした空気の流れる夜。
 静寂な廊下を歩いていると、ふと人の気配を感じた。屋内で誰もいないはずのその場所で、しかし椏夢は臆することなく玄関扉へと続く土間へ目を向ける。思った通りそこには人が立っており、そしてその身体はぼんやりと朧気だった。
 けれど予想していなかったのは、もう一人の存在で。
 朧気な姿の少年とは対照的に、極々普通の人間のように佇む真っ黒な衣服に身を包んだ少女。長いコートで身を包み足下は見えないが、どこも透けているようには見えない。
 数度の瞬きを繰り返し、椏夢の視線は少女に固定される。すると少女の方も少し驚いたように目を軽く見開き、口を開き…かけたところで、別の足音が響いた。
「お客さんかい?」
 はっと椏夢が振り返ると、奥の部屋から丁度幸子が出てきたところだった。スッと歩き椏夢の隣に並ぶと、彼女の視線は朧気な姿の少年へと向けられた。
「おやおや、また迷子かい?ここにいたって独りだろう。早く行かなきゃいけないところに行きなさい」
 幸子の口調は柔らかく、けれど叱っているようで。少年は少しだけ淋しそうな顔をしたあと、それでもどこか嬉しそうに微笑み、幸子に一礼するとすっとその姿を消した。少年は椏夢の事を見ていなかったが、少年を見ていた椏夢を、少女はじっと見つめたままだった。
「迷い込んでくるお客さんはね、呼び止めちゃ駄目だよ。少しだけ話をして、満足して天国に行けるようにしてあげないと」
 優しく微笑みそう話す幸子は、少女に視線を向けようともしていない。人の存在を無視するような性格をしている幸子ではない。ここでようやく椏夢は気が付いた。幸子にはこの少女の事が見えていないのだと。
「どうかしたかい」
「…いいえ、なんでもないです」
 黙ったまま考え込んでいた椏夢の様子に幸子は首を傾げたが、椏夢はゆっくりと首を振った。
 ふと振り返ると、少女の姿はもうどこにもなかった。

「たまにいるの。私の事が見える人が」
 不思議そうに、だがどこか不機嫌そうな高い声が暗闇に響いた。パタパタと動き回る人影は少女に目も留めず足を止めない。
「死期が近い人なのかと思っていたけど、そうじゃないのね」
 少女の視線は部屋の奥へと注がれているが、その奥の様子は暗闇で何も見えない。少女にも見えてはいない。
「居るかもしれないね。ニンゲンはまだまだ分からない事だらけだから、何が起きても可笑しくない」
 姿は見えないが声だけは響いてきた。クスクスと笑い声の混じる声に、少女は少しだけムッとした。彼の言う事が、本当の事なのか偽りなのか、少女に区別を付ける事はできない。
「そう機嫌を損ねないで。次の仕事があるんだろう?」
「ある。だから空き時間に聞きに来たの、気になったから。でも答えは無いのね」
「何か分かったら教えてあげようか?」
「………、何か分かったら、ね」
 どうせ何も教えてくれないんでしょ。
 声には出さずに、少女はくるりと部屋に背を向けた。そして音もなく歩いて行く。
 終わる事のない仕事へ。

悲しみのサイザ憂き世の胡蝶