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タグ: カイ

記憶の彼方にある話

そこは紙のにおいと埃のにおいが入り混じった空気の立ち込める部屋だった。
扉を開けたカイが、自らこの部屋に足を伸ばす事はまずない。各地から集めた多くの書物が保管された部屋。文字の読めない彼が立ち寄った所で、内容を理解できる物など一つもないのだ。退屈しのぎにこの部屋に居座ってみても、物の数分で飽きるか、においに当てられて退出を余儀なくされる。だというのに今日この日、この部屋に入ったのは他でもない。話し掛けようとした人物がこの部屋の中へと入って行くのが見えたからだった。
目的の人物は探すまでもなく、入り口近くに置かれた椅子に座っていた。机には一冊の、小さいが分厚い本。カイは眉を顰めた。
「なんか用?」
先に口を開いたのは目の前の相手、ロイだった。顔は上げないが、こちらの事は分かっているのだろう。
「何してるのかと思って」
「……それ用ないよな?」
淡々と返される言葉に、しかし嫌味は含まれていない。追い返される訳ではなさそうだと分かり、カイは机の上の開かれた本を覗き込んだ。ページ一面には想像以上に細かい文字が所狭しと並べられ、思わずうえ…と声が漏れる。
「何してるんですか…」
「ん、調べ事」
「マジで」
カイにとっては大層予想外だった言葉に、自然と声が大きくなっていた。そこでようやくロイは顔を上げ―――そしてカイの顔を見て苦笑いを浮かべる。
「俺だってそんくらいやるっての。てか、勉強とかそういうの好きだから」
後半の言葉は、カイの性格を知っているから出てきた言葉だろう。固くなったままのカイの表情も、ロイにとっては想定内。「俺は嫌い」とぼそりと呟いた声も、想定内。
「お前の話はしてないっての」
呆れたように言うと、ロイは再び視線を本へと落とした。
面白くない。内心そう思いながらも、カイは空いていた椅子へと腰掛けた。
静寂な部屋に、パラリとページを捲る音が響く。字の羅列というよりは単語の羅列に見えるその本が何について書き記された物なのか、カイには分からない。しかし、文字を追うロイの視線が、文字の全てを読んで理解しているというようには見えなかった。一部を確認し、またすぐに次の場所へ。内容を読み込んでいるようには見えない。
「ねえロイ、何調べてんの?」
両腕の上に顎を置いて机に突っ伏し、見上げるようにロイの顔を覗き込む。文字を追い掛けるロイはやはりこちらを見ようとはしないが、少しの間の後、口元が動く気配があった。
「昔聞いた話、調べてんの」
パラリ、とまたページが捲られる。何千ページもありそうなその本の、どこに目的の情報があるのか分かるロイはすごいなあと、声には出さずにカイは思う。
「昔聞いて、そん時は意味分からなかった話、そういやどういう意味なんだって思って」
「その本で分かんの?」
「分かる、と思う」
確証があるようなないような返事。カイはもう一つ訊ねる。
「それ何の本?」
「……国語辞典」
聞いた所で、カイには分からない話だった。表情を変えずにへーと返すと、微かに溜息を吐かれる。
「お前ももうちょっと勉強したらいいのに」
「やだ」
「あっそ」
机上だけで繰り広げられる知識に、何の意味があるのだろうか。現実で、実戦を伴う知識以外に、必要な物があるのか。それがカイには分からなかった。

開いたページに書かれた索引は「か」、その項目の最後に近いページ。
目的のものを見付けたのか、ロイは文字の傍らに指を添え微かに目を細めた。そこでようやっと、ロイは内容を読み込んでいるようだった。その様子を興味なさそうに、深そうに、カイは眺める。
「『坩堝』」
「かん…?」
「もしくは、『るつぼ』。物の名前だけど、比喩表現では『いろんなものが混ざっている状態』」
カイの理解を待つことなく、ロイは淡々と言葉を吐き出す。他人に対する説明とは到底思えず、カイはそれ以上の理解を諦めた。口に出しているのは、自身が反芻するための独り言なのだろう。傍観を決め込みカイが口を閉ざすうち、ロイの手は再び動いてページを捲った。大雑把に開いたページには、先程とはまた別の種類の単語が並ぶ。
「『那』は、たくさんって意味もある」
「たくさんの物が混ざってるって事?」
聞こえた単語だけを拾い、カイは適当に思い付いた事を投げ掛ける。退屈しのぎ、とまでは言わないが、それが意味のある問い掛けだとは思っていなかった。思っていなかったが故に、ロイの視線が不意にこちらへと向けられた時には、「へ?」と疑問符を浮かべてしまうのだった。
「そうかもなあ」
そう言ってロイは、小さく溜息を溢しながら「国語辞典」を閉じた。
「単純すぎんだろ、荘太郎の奴」
「っ、なんだよ、また荘太郎の話かよ」
「そうだけど」
面白くない、そう吐き捨てると、いつもと同じようにロイからは乾いた笑い声だけが返された。
ロイは立ち上がり、閉じられた本を手にくるりと背を向けた。見るからに重量があるであろう本は、いっそ武器にでもなるんじゃなかろうかとカイは考えた。歩き出したロイは、しかし二歩進んだ所でふと足を止める。背を向けられているせいで表情は見えないが、おそらく笑っているとも、悲しんでいるとも取れない表情を浮かべているのだろう。「いつも」のように。
「…どうせ、思い出話だよ」
部屋の奥に向かって吐き出された言葉は、広い空気の中にぼんやりと漂い、そして消えていった。

がくせん!