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月: 2010年2月

Sacred prayer for you SideB

「ね、流黄ちゃん、お願い!」
「………何で私が」
「だって流黄ちゃんしか頼める人居ないのよぉ」
 両手を顔の前で合わせて必死の懇願。行き付けの喫茶店で流黄は、目の前の真鈴の行動に困惑した。時期が時期だから呼ばれた時からうすうす用件には気付いていたが、実際にこう頼まれてしまうとどうしたものかと思ってしまう。真鈴の用件は簡単だ、『バレンタインのチョコを峻に渡して欲しい』というもの。彼女はEncAnoterでキーボードを担当している彼の熱烈なファンなのだ。しかし当然接点などある筈もなく、実際に彼の事を見たのも過去に何度か参加したライブでのみ。対して流黄は、峻と同じ業界で活動している上所属しているレコード会社も同じ、峻が流黄の楽曲を手掛けているという繋がりもある。要するにこの二人は仲が良いのだ。だからといって真鈴を峻に紹介する、なんて事は無かったのだが。
「そういうのさ、不公平じゃん」
「流黄ちゃんだけずるいじゃない」
「ずるいって…」
「だって流黄ちゃんだってあげるんでしょ?」
「……そりゃ…、あげるけど」
「ほらぁ!」
 声を上げた真鈴に、流黄はむっと顔を顰めた。嫌いではない、嫌いではないのだが時々好きになれない時がある。彼女が心底峻の事が好きだという事は知っているのだが、だからといって人に頼ってばかりではどうにも手助けする気にはなれない。小さく溜息を溢して流黄は思案する。どう言ったら彼女は納得してくれるのか、自分が折れるしかないのか。誠意を見せる為にか真鈴は注文した飲み物に口を付けていなかったが、思案に結果を得られない流黄は自分の分のグラスに手を伸ばした。中身は100%のグレープフルーツジュース。好むのは甘いものだがお茶以外に好んでいる飲み物は100%果汁のジュースばかりだった。因みに真鈴が注文したのはアイスカフェラテ。
「渡せるだけで良いのよ、別にお返しとか返事聞きたいとか会ってみたいとかそういうつもりは…」
「ちょっとはあるでしょ?」
「そりゃちょっとはあるわよ、悪い?」
 ストローに口を付けたまま、はぁと溜息。友人の頼みなのだから聞きたいとも思うのだが、如何せん乗り気になれない。乗り気になれない理由に思い当たる節はある。真鈴から直接指摘されているが、どうやら自分自身自覚の無いまま彼の事を好いている、らしい。指摘されても納得はいかなかったが全否定する事も出来なかった。それを承知の上で真鈴も頼んでくるのだから、本当にただ渡したいだけなのだろう。以前はちょこちょこと言っていた“お近付きになりたい”という言葉も、最近ではあまり聞く事はなくなったとそういえば思う。もう一度だけ流黄は溜息を溢すと、仕方なさそうに真鈴を見た。
「渡すだけ、で良いの?」
 途端にパッと笑顔を輝かせる友人に、流黄は呆れたような笑みを向けた。貶している訳ではない、しょうがないなぁ、なんて言う保護者のような視線。
「渡して貰えればそれだけで充分よ。…お願いしていい?」
「仕方ないから、持って行ってあげる。要らないって言われても責任は取れないけど」
「いいのいいの、それは。渡したっていう自信になるから」
 彼女は強いな、と時々思う。一途なのかどうかはさておき、好きな物事に対しては一直線。決めたらとことん突き進んでいる。きっと今回のバレンタインも前々から決めていた事なのだろう。彼女に対して可愛いと言ってしまっては怒るだろうか、と流黄はらしくもない事をふと考えた。
「そういえば、」
 思い出したように流黄は口を開いた。鞄とは別に持参していた紙袋をテーブルの上に乗せていた真鈴は、動きを止めて流黄を見る。
「シュンだけ?渡すの」
 ただ純粋に脳裏に浮かんだ疑問を流黄は口にしていた。問い掛けの意味を理解した真鈴は、笑いながら紙袋に手を掛け動作を再開させる。中から出てきたのは、揃いの小さな箱が数個、それらとは形の異なる箱が一つ、そしてまた別のラッピングを施された袋が一つ。中身を出し終えた紙袋は丁寧に畳まれてテーブルの端に置かれた。流黄は興味深そうにそれらを一つずつ眺める。真鈴は一つきりの箱を手に取ると流黄の手元へと置いた。
「これが、峻くん宛の。よろしくね」
 真鈴はにっこりと微笑んだ。そっと流黄は箱を手に取り、肩を竦めて笑う。一つだけ形が明らかに異なっているのだ、宛先を聞かずとも理解できる。そして残りの小さな箱軍はどうやら頼み事ではなく紹介のようで、真鈴は一つ一つを丁寧に並べながらくすくすと笑った。
「弟と、隣の二人。あとは元同級生とその友達。それだけで五人分必要になっちゃんだから堪んないわよ。あ、あとついでにインカの残りの皆さんに」
「それちょっと酷い」
「なんとなーくの想像なんだけど、峻くんだけにあげたら悪い気がして」
「それはそうなんだけど、多分それあげてもそんなに変わらない気がする」
 そうは言いながらも流黄は可笑しそうに笑っていて、申し訳なさそうな顔をしていた真鈴もつられて笑い出していた。所謂義理チョコ。峻宛ての箱と比べても明らかに大きさが異なっている小さな箱を三つ流黄の手元に置き、真鈴の手元には彼女が直接手渡す分の五人分と、最後に取り出された袋が残された。流黄の視線は自然とそちらに向く。ピンクとオレンジの不織布に包まれ口をリボンで結ばれているそれは、ふわふわとした柔らかな印象。流黄の知る範囲では、他に真鈴が渡しそうな相手は思い当たらない。流黄の視線を追って彼女の様子に気付いた真鈴は、にっこりと笑ってその袋を流黄に手渡した。
「で、これは、流黄ちゃんに」
 予想していなかった言葉に一瞬きょとんとした流黄は、思わずそれを受け取るのを忘れる。真鈴はくすくすと笑うと、流黄の手にそっと袋を持たせた。
「ほら、よくあるでしょ。友チョコって」
「え、でも、私…真鈴の分用意してない」
 少しばかり戸惑っている流黄に向ける視線は、先程までの我が侭いっぱいだった彼女のそれとは違い、すっかり保護者のような目になっていた。面倒見の良い姉だとか先輩だとかは、きっとこういう目をしているのだろう。そしてそれは彼女に対しては比喩ではない。
「いいの、お返し欲しくて作ったんじゃないんだから。素直に受け取っておきなさい」
 流黄が袋を持った事を確認すると真鈴は手を離す。先程畳んだ紙袋を広げ直すと、残された小さな箱たちを丁寧にまた詰め直した。その間流黄は、真鈴に渡された袋を両手で持ってずっと見つめていた。リボンを解くのがなんだか勿体なかった。

「…ありがと」
 漸く言えた礼の言葉に、真鈴は嬉しそうににっこりと笑った。

Jump into the Sideway

Sacred prayer for you SideA

「バレンタインかぁ」
 ぼんやりと雑誌を捲っていた涼はそう呟いた。隣に座る光も興味深そうに雑誌を覗き込む。色や形が様々な、可愛らしくもお洒落なチョコレートの数々。人にあげるよりも自分が欲しくなるようなものばかりで、そして食べるのが勿体ないとも思ってしまうような綺麗な箱詰め。わぁ、と光は感嘆の声を上げた。
「光は誰かにあげるの?」
 自然な流れだ。年頃の女の子の会話なんて、殆どこんなものだろう。誰にあげるのか、作るのか買うのか、そして本命が義理か。
「うーん、遊と竜君と烈君にはあげようと思ってるけど…」
 涼と光、そして遊と竜は現在マンションで同居生活中であり、彼らの隣の部屋に住んでいるのが姉の真鈴と二人暮らしをしている烈斗である。光は、真鈴と烈斗の部屋にしょっちゅう入り浸っている程彼らと仲が良い。やっぱりね、と涼はくすくすと笑った。
「なんで笑うのー?」
「あはは、ごめんね。光らしいな、って思って」
「そう?」
「そう」
 笑いながら涼は、ぱらりと雑誌のページを捲る。どこを捲ってもバレンタイン特集。雑誌の中も、街中も。それを見て思うものは、人それぞれだろう。わくわくとはしゃいだり、鬱陶しいと思ったり。開いたページは、手作りお菓子の特集ページだった。涼は途端に動きを止める。一心にページを見つめ、表情はどことなく険しい。不思議に思って光は彼女の顔を覗き込んだ。
「涼ちゃん?」
 声を掛けても反応が返ってこない。ページ内容を確認した光は、二つの可能性に思い当たる。
「涼ちゃん、誰かに手作りあげたいの?」
「…っ!」
 案の定だった。二つの可能性はもしかしたら初めから一つだったのかもしれない。パッと光を見た涼の表情は、明らかに焦っていた。口をもごもごとさせ、何かを言うのか言わないのかはっきりとしない。光はそんな彼女を見つめながら、じっと返事を待った。
「あのさ、光」
 漸く彼女の口が開かれたのは、かれこれ数分の後だった。短い時間ではあるのだろうが、静まりかえった時間はその感覚を狂わせる。光は真っ直ぐ涼を見た。
「なぁに?」
「あのさ、…お菓子作るの、手伝って貰っていい?」
 不安げにぎこちない声。この家の家事は当番制で、日替わりで料理担当も変わる。しかし涼だけは料理を担当した事が無かった。忙しいから、というのも理由の一つではあるが、それとは別に彼女が料理を苦手としているというのも理由にある。不器用ではないのだから真面目に取り組めば出来るだろう、とは遊と光の意見なのだが、中々練習の時間が取れないのと彼女自身が苦手意識を強く抱いてしまっている事が原因で未だ彼女が料理をした事がない。幸いにも今日と明日は涼の仕事は休みであり、バレンタイン当日までも日数は少ない。チャンスは今しかないのだろう。それに普段からプライドの高い彼女からの頼みを、断る理由も無い。光はにっこりと笑って頷いた。
「うん、もちろん。…ね、誰にあげるの?」
 やっぱり自然な流れだ。例え出てくる名前が分かっていても聞いてしまうものである。好奇心。涼はほっとした表情を困った顔に変えて小さく笑った。
「光と同じ。あと、あっちの二人」
「霧氷さんと雨亜さん?」
「うん。一応、ね」
 涼は現在、ThreeTreeというグループ名で音楽活動を行っている。爆発的人気という訳ではないがそれなりに知名度はあるようである。遊の買っている音楽雑誌を借りて見ていても、度々記事を見掛ける事がある。グループ名が指すように三人組であり、涼は紅一点。色々な縁が重なって、光も彼らと会話した事が何度かあった。彼らの顔を思い浮かべて、光は楽しそうに少しだけ微笑んだ。微笑んで、ふと思い立った事を呟いてみた。
「ねぇ涼ちゃん、インカの人たちには渡せない?」
「あー…それは、……どうだろ」
 EncAnoter、通称インカ。涼も光も、ついでに隣人の真鈴もファンである三人組バンド(但し都市伝説では五人組)である。メディア露出がほぼ無い彼らとの接点は、ライブか下手したらファンレターだけ。同じ業界にいる筈の涼でも一度も接点を得られた事がないのだ。涼の反応を見る限り、彼女も一度は考えたのだろう。しかし結果は変わらない。
「会えるっていう確証がないしね」
「送っちゃ駄目かなぁ」
「あ、それは駄目なんだって。前に雑誌に書いてあった」
「そうなんだ…。うーん、残念だなぁ」
 雑誌のページを捲り、作るメニューを考える。美味しそうで、簡単なもの。いきなりレベルの高いものを選んでしまっては成功率が格段に下がってしまう。あれこれ二人で案を出し合い、作るものはチーズケーキと生チョコに決まった。本格的なものは難しいのだろうが、メジャーな分簡易的なメニューも多く存在していて、短時間で作る事が出来るのも決定理由だった。材料をメモし、涼と光は買い物の準備を始めた。同居人の二人はまだ帰ってくる気配がない。
「じゃ、行こっか」
「うん」
 楽しげに弾んだ声。涼と二人で出掛ける機会は休日の一致が少ない所為もあり中々無い。光にとってバレンタインメニューを作る事もあげる事も楽しみだったが、それと同じくらい涼と行動を共にする事も楽しみだった。
「美味しく作れると良いね」
 思わず光はにっこりと笑い、つられて涼もにっこりと笑い、頷いた。

Jump into the Sideway

White world

一面の、白。

「すっげぇ…」
 思わず感嘆の声を漏らした迅夜は次の瞬間には相方の眠る布団の上へと飛び乗っていた。
「ね、サイ、雪!雪積もってる!」

 季節毎のなにかしらのイベントの度に人が集まってしまう事にはもう慣れている。呼んだ訳ではないしそう決めている訳でもない、ただの溜り場。だから莅黄は朝起きて外の景色を見た途端に、今日一日が騒々しい日になる事を悟ったのである。何か温かいものを用意しておいた方が良いだろうか、なんて思ってしまう程には彼らが遊びに来るのを期待している自分が居るのも、もう認めてしまっている。あぁでもどうせ暴れるんだろうな、だったらいっそ冷たいものでも用意した方が良いかもしれない。いやでもそれだと暴れない人達が気の毒だろうか。ぐるぐると考え込んでいた莅黄は自分の顔がいつの間にか綻んでいた事に気付かない。

「無理、勘弁」
「なんでですか?莅黄さんが美味しいもの用意して待ってて下さってますよ」
「確実性が無い」
「温かいですよ?」
「そこに行くまでと帰る時に冷える」
「…弱気ですねぇ、らしくない」
「不可抗力には逆らわねぇ主義だ」
「そうでしたっけ」
「大体異常気象を喜べる程の感性は持ってねぇよ」
「“稀少なモノ”、“特異なモノ”が大好きな方が何を言ってらっしゃるんですか」
「…分かったら一人で行ってこいっての」
「分かりませんので黒翔さんが行く気になって下さるまで行きません」
 常々思う、何故この笑顔に逆らえずに行動を共にしてしまうのだろう、と。溜息。似合わないのは百も承知だ、無理なものは無理。外の空気はまるで肌を刺すかのように凍り付いている。

 扉が開くと同時に鳴るベルに、莅黄は顔を上げた。最初に現われるのはどちらだろう、そう思ったのだが答えはそのどちらでもなかった。そして騒動の悪化を覚悟する。
「今日は非番で…。何か温かいものは貰えないか?」
 人を追い返す事の出来ない莅黄でも思わず「帰った方が良い」と言い掛け、しかしそれよりも先にまた、扉が開いた。二対の視線の先にはやはり二対の目、軽く見開いた後に楽しげに細められるのは片方。肩から髪から、もう降っていない筈の白い雪がぱらりと落ちる。
「あれ?うっちゃんも来てたのー?!」
 嬉々とした声に表情を陰らせたのは同席者三名。

「タイミングが悪かったな」
「申し訳ありません…」
「いや、店長が謝る事ではないだろう。どう考えても」
「………はい、…あ、いいえ」
 スローテンポなローテンション。カウンターテーブルの奥に入る莅黄と、どうせなら、と共に入っている役所の受付人。当然莅黄は彼が雑用の手伝いを名乗り出た時点でその提案を断ったのだが、彼曰く、“料理や掃除をしている方が連中の騒動に巻き込まれずに済む”。思わず納得して頷いてしまった莅黄は、役人や受付人と呼ばれながらも一応軍人という肩書きを持つ彼に布巾を握らせる事になってしまった。引き返せぬ今となっては、目前に広がる喧騒から回避する為には致し方が無い、そう思う事しか出来ない。

「だからっ、なんでいっつもいっつも!」
「それはこっちの台詞だっつってんだろうが、ここはお前らの溜まり場じゃねぇっての」
「店長の店はみんなのものでしょ、俺らが居て何が悪いの!」
「だったらこっちが居ても文句言うんじゃねぇよ」
「盗人の癖に!」
「だったら捕まえてみやがれこのガキ」
「……どっちもガキだろ」
「あら、貴方も喧嘩売っちゃうんですか?」
「………。…お前には売らない」
「つれないですねぇ」
 ぎゃんぎゃんと喚く二人の傍らで絶対零度の笑みが空気を凍らす。逆らわない方が良いとは思いつつ、これでも負けず嫌いな部分のある左翊である。結果面倒を引き起こす事になろうとも何もせずに黙っているのも癪で、思わず小さく溜息を吐いた。首を傾けて疑問符を浮かべるような顔をする彼の頭の中にきっと疑問符は存在していない。

 窓の外には静かに白の世界が広がっている。一年を通して比較的温暖な気候であるシャオク大陸に雪が降る事は、そう滅多にある事ではない。中央部に位置するアクマリカも沿岸部に比べ幾分か降雪し易いとは言え、それだけである。降るのは年に一度か二度、積もるのは数年に一度有るか無いか。その数年に一度がどうやら昨夜だったらしい。辺り一面を白に染め上げた雪雲は、次第に風に押し流されていく。太陽が存在を主張し始めると共に、屋根の上の白は地面へと滴り落ち始めていた。
 扉の前に立ったままだった迅夜は、ふと気付いたように口を尖らせた。狭い喫茶店内、視線をぐるりと回してカウンター席に腰掛ける三人とその奥の二人を見やる。
「っていうか何でみんな部屋ん中に居んの?勿体ないじゃん」
 指差す方向は窓の外。店に来る途中の道端でも既に雪を握り締めたり投げたり飛び込んだりと延々はしゃいでいた相方に、いつか言い出すだろうと分かっていた左翊は溜息を零す事しか出来ない。そしてその現場を見ていない四人からも、合わせたように溜息。
「十分騒いだろうが」
「だって積もるなんて滅多に無いよ?」
「だったら一人で行ってこい」
「僕とお役人様はやる事沢山ありますから…」
「どこまでもお子様ですねぇ」
「お前は犬か」
「何、みんなして猫側なの?」
「…、誰が猫だ」
 あからさまに不機嫌な声に、一瞬で空気が変わった。全ての犬猫がそうだという訳ではないだろうが、印象としては犬は外、猫は中。恐らく今の迅夜が本当に犬だったとしたら、千切れんばかりに勢い良く尻尾を振っているに違いない。迅夜の走り回り具合は犬というより寧ろ猪だったが。座ったままの黒翔は、立ったままの迅夜を見上げて睨み付けた。
「もしかして黒翔、寒いの苦手?」
 ニヤニヤと笑みを浮かべながらからかいの声。人の弱点を見つけた時の彼の表情は新しい玩具を見つけた子供のようで言ってしまえばタチが悪い。一瞬で顔色を変えた黒翔は思わず立ち上がり、その瞬間に内心で後悔した。感情を表に出さないよう、見下ろすように迅夜を睨み付ける。
「誰が苦手だって?」
「“黒翔”が、“寒い”のが苦手?だってそうじゃん、誰も外出ないし」
「ほーぉ、俺に苦手があると思ってんのか、上等だ表出ろ」
「苦手な癖に無理しちゃってー、大丈夫?」
「今この場で息の根止めてやろうかこのガキ」
「…黒翔さん、そんなお子様の挑発に乗る事なんて無いですよ?なんなら私が」
「お前は黙っててくれると助かる」
「あら、酷いですねぇ。先に貴方から始末しましょうか?」
「あの…店内で喧嘩はやめて下さい…」
「………これ以上やったらお前ら全員連行するぞ」
 手に鮮やかな赤の光を携える迅夜と、その胸倉を掴む黒翔。互いに己の武器を取り出す左翊と影凜。この光景に見慣れてしまった自分はどうすればいいのだろうかと莅黄は一度本気で役所の受付人に相談した事があった。残念ながら明確な回答はまだ得られていない。実際に喧嘩が行われた事は幸いにもまだ一度も無いのだが、いつか現実になるのではと気が気でない。彼らが本気で暴れたら店が一溜まりもない事くらい、莅黄の想像でも分かるのだ。
 チッと舌を鳴らし、黒翔はその手を離す。口喧嘩の後の行動に発展しないのは、黒翔の場合は莅黄の存在の所為だとも言える。“莅黄の言う事なら聞く”という程ではないが、彼はどうやらこの店の店長にはあまり逆らえないようである。お陰で大体の騒動は莅黄がストップを掛ける事で粗方治まる事が多い。但し動作限定、言い争いに関してはさほど効果はない。
「連行されたら困るって、こいつら俺らが捕まえるんだから」
「だったらさっさと捕まえて連れてこい」
「捕まるかバーカ」
「捕まえるし。報奨金貰うし」
 見上げるように睨み付ける、表情は余裕。因みに莅黄の提案で、この店内にいる間は何でも屋と盗賊の追い掛けっこは“一時休戦”扱いとなっている。役所非公認、受付人除く。左翊はカウンターテーブルに肘を着き、随分と前に出された珈琲の残りを飲み干した。すっかり冷め切っており冷えた身体は温まらないが、気を落ち着かせる為には十分である。ひとまずこの店から宿へと帰る方法を考える。何となく視線をぐるりと回し、そして彼は窓の外の光景に気付いた。暫し思考回路を巡らせ、室内に差し込む陽光から経過時間をぼんやりと考えて、納得。呆れたように相方へと視線を向けた。
「迅。雪、溶けてる」
「え、うっそぉ!?」
「あらあらぁ」
 相方の発言が耳に届くと同時に、迅夜は弾かれたように窓枠へと飛びついた。窓の外は白。しかし左翊の言うように、所々にもう地面が見えていた。無理もない、出された飲み物を啜りつつケーキを食し、延々と不毛な言い争いを繰り返している内に時間は昼を回っていたのだ。曇りならばいざ知らず、天候は晴天、気温は徐々に上がってきていた。
「うっそぉ…つまんねぇ、折角降ったのにさぁ」
「お前はもう十分遊んだだろ」
「足りないって、雪合戦してねぇもん」
「……人を巻き込むな」
 窓にぺったりと張り付いたまま、口を尖らせた迅夜は盛大に溜息を溢した。一連の様子を見ていた黒翔はふぅと息を吐く。
「残念だったな、遊べなくて」
「誰も出てくんないからじゃん」
 声を掛けられ迅夜はぐるんと首を回して後方を見る。角度の所為でもあるがその視線は黒翔を睨み付けているようでもある。黒翔は再度、呆れたように大袈裟に溜息を溢した。
「っとに、ガキ」
「寒いの嫌いな奴に言われたくない」
「ガキは寒い中延々と遊ぶんだろが」
「うっさい。…懐かしかったんだもん、騒ぎたくなるじゃん」
「…は?」
 不意に小さくなった声。黒翔が疑問符を浮かべるのとほぼ同時に、迅夜はハッとして窓の外へ視線を戻した。自分は今何も言っていないと、そういう雰囲気を醸し出して。窓ガラスに映る顔は情けなく口を尖らせている。本当に、どこの子供だろうか。いきなり会話を終了させられた黒翔は首を傾げるばかりだった。

「用が済んだなら帰るか?」
 堪らず左翊は立ち上がり、迅夜に声を掛ける。会話の強制終了の直後から店内はすっかり静まりかえっていた。平和とも取れるが慣れではない。少しの間唸り続けていた迅夜も、漸く振り返って笑顔で頷いた。ほんの少し前の彼の表情は既に影も形もなく、これだから彼の考えている事が読めないと思ってしまうのだ。
「ん、もういいや。雪溶けちゃったし」
 くるんと向きを変えた迅夜はカウンター席へと寄り、ポケットに突っ込んだままでくしゃくしゃになった紙幣をひらひらと莅黄の前へと落とした。釣り銭を用意しようと慌てた莅黄に対して、迅夜は手をひらひら振って笑う。
「いつも言ってんじゃん、お釣り要らないって」
「え、いえ、でも…」
「遠慮無く受け取っとくの、そういうのは」
 ニカッと笑った顔に、莅黄は申し訳なさそうに礼を言った。いつもの事だった。今この場にいる五人に、莅黄は釣り銭を渡した事がない。僅かな差ではあるが、回数が重なればそれなりの量となる。そしてそれは悲しくも有り難い収入源だった。
 立ち上がった左翊を連れ、迅夜は扉へと向かう。雪は止み、溶けている。しかしそれでも気温が低い事には変わりなく、冬はまだまだ終わらない。扉を開けた迅夜は外気の冷たさに身を震わせた。陽射しはあるものの澄み切った空気は尚更冷気に拍車を掛ける。寒がりな割に薄着が好きな迅夜に対して、左翊は呆れたように何度か上着を投げ付けた事があった。そういえば今日に限って投げ付けていないな、と今更左翊は思い出した。
「迅」
 丁度外へ一歩踏み出した迅夜に声を掛けたのは、先程から黙ったままだった黒翔だった。寒さに顔を顰めながら迅夜は動きを止め、「何?」と面倒臭そうに振り返った。言外に「早くしてよ」と言っている。黒翔を除いた全員が、訝しげな目で彼を見ていた。座ったままの黒翔は視線を迅夜に合わせると、仕方なさそうに…という上から目線で彼を見た。
「次、雪降ったら遊んでやるよ」
「……は?」
 表情はニヤニヤとしたからかいだ、しかしどうやら本気も含まれている。それに気付かない程バカじゃない、冷静に考えた迅夜はついさっきの自分が見せてしまった表情を思い出し、軽く後悔した直後に盛大に笑い飛ばした。
「寒いの嫌いな癖に。強がり」
「嫌いとは言ってねぇだろが」

 外に出て、宿に向かう途中。道の端々に残る白には沢山の小さな足跡が残されていた。街に住む子供たちはきっと、積もった雪というものを初めて見たのだろう。今は丁度昼食の時間帯だからか、動き回る姿は少ない。しかし子供たちが声を上げてはしゃぎ回っている光景は容易に想像が付く。迅夜の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
「ねー、サイ」
 呼び掛けられ、左翊は足を止めずに視線だけ迅夜へと向けた。どこか楽しそうな彼の表情は、妙な企みや策略のない純粋な笑顔。この顔を見てしまうと、彼もまだまだ子供なんだと、そう思ってしまう。
「次雪降るの、いつだろ」
 思わず左翊は溜息を吐きたくなって、小さく笑った。

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