雨は辺り一面を打ち鳴らしていた。
バシャバシャと音を立て、狭い世界中をその音で包み込む。呆然とその様を見つめ続けていると、あっという間に彼らに自分の世界を制圧されたような気がしてくる。実際、されているのかもしれない。
何もない、冷たい音だけがただただ響いている。
気持ちいいと。洗われるようだ、と。頭の片隅でそんな言葉がよぎった。その直後に、一体何が洗われるのだと思った。どちらが本心なのか、そもそも今のは自分の言葉なのか、それすらも分からない。自分の言葉であると、認めたくないだけかもしれない。
「何やってんの」
雨音に支配された世界に唐突に入り込む不協和音。けれどそれは、雨音よりも聞き慣れた声だった。
走ってきた音は聞こえなかったが、どうやら迅夜もこの雨の中をずぶ濡れになりながら駆け抜けてきたらしい。軽く息を切らし、訝しげにこちらを見ている。それはそうだ。あと数歩で宿の庇の下へ入れるという距離で、雨から逃げる事もせず突っ立っているのだから。走ってきた努力も報われずずぶ濡れになった迅夜は、それ以上の回避を諦めたらしい。目の前に立ったまま、室内に促す事もしなかった。
「何かあった?」
呆れられているのか、怒られているのか、睨むように見上げ問い掛けてくる時は、大抵返事ができない。今もこうして、声が出ないのだ。そしてそれは、彼も知っているはずで。それでも彼は、事ある毎にそう問い掛けてくる。
「別に。何となく、だ」
少しだけ目を逸らして、そう呟いた。
嘘ではない。そういう気分の時もある。ただそれだけだった。何かあったのなら、きっとここには戻ってこない、そんな気もしていた。
「……風邪引いたら仕事できないからね」
「ああ」
「そしたら俺一人で頑張るんだけど」
「……そうだな」
「その後同じだけ俺も休むからね」
「……、……好きにしろ」
そして同時に溜息を吐いた。
「ってかこれで中入ったら怒られそうじゃん、どうすんの?!」
「お前もどうするつもりだったんだ」
コロコロと表情を変える迅夜は、まるで子供だ。突然土砂降りの中駆け出して水溜まりで遊びだしても違和感は無い。呆れはするが。それでも極稀に見せる表情がいつも気に掛かって、ただの子供扱いをできなかった。例えばつい今し方のあの表情。あの表情がなければ、とうの昔に彼を置いて一人で逃げていただろう。そう、逃げていた、だろう。
やはり、あれは洗い流していたのかもしれない。逃げ去りたい、消し去りたいという気持ちを。
雨はまだ降り続いていて、遠のく気配もない。全てを消し去る前にやってきた相方は、やはり自分を消し去る事を許してはくれないのかもしれない。
それなら今、気付いた今この瞬間に逃げてしまえば ―――
「サイ、中入んないの?」
背を向けようとしたその瞬間に、宿の扉を開けた迅夜の声がガシリと肩を掴んだ。不思議そうにこちらを見ている彼の目に、他意は無いように見える。
「……、あ、あぁ」
小さく小さく息を吐き、扉へと足が進む。
どうやら本当に、逃がしてはくれないようだ。
歩んだ先、背中でゆっくりと扉が閉まった。