ネオンとか、雑踏とか、クラクションとか。
そういったモノを一切遮断して、無機質な蛍光灯が照らすだけの地下通路には、少し足を踏み入れただけでも音が遠くにまで響く。違反だと分かっていながら爆音で通り過ぎていくバイクも、たまにはいる。
けれど正規の利用方法以外として一番使われている理由は1つだけだろう。
左翊は地下通路の入り口に立った瞬間に、その足を止めた。
音が、聞こえる。
大きくはない音。何度も聞いていればどの辺りでその音が鳴っているのかなんてこと、簡単に分かってしまう。通路の丁度ど真ん中。人数は1人。他に歩いている人も、誰もいないだろう。
耳を澄まして、音を確かめる。
今日は誰だろうか。先日見掛けたテノールの美声は、反対側からスカウトしに来た別人に取られてしまった。その前見掛けたデュオは、二度見掛ける事はなかった。そろそろここへ足を運ぶ回数は二桁を超えるだろうか。そう簡単に逸材が見つかるとは思っていなかったが、2度もチャンスを逃してしまっていてはやる気は削げてしまう。
足を一歩踏み入れ、音に耳を傾けた。ギターの、音がする。
「……………酷いな」
ぼそりと呟くと、彼は踏み出した足を再度止めた。奧から響いてくるものは、とてもじゃないが演奏と呼べるようなモノではない。まだ和音を弾いている“だけ”、ならいい。これでは和音にすらなっていない。ギターに興味を持った少年が初めてそれを手にした時、見様見真似で適当に弦を弾いている…、まさにそれと同じだった。いや、それよりも酷いかもしれない。時折聞こえる音は、明らかに弦が緩んでいる掠れた音。チューニングもまともに出来ていない、とんでもない奏者がこの中にいるのだった。
(よくこれでストリートなんてやろうと思ったもんだな)
呆れて苦笑いすら浮かべる事の出来ない左翊は、中に入る事もやめた。普段だったら好みでない演奏でも、通過はしているのだ。もしかしたら、“まさか”な事があるかもしれないから。だがしかし、今回ばかりはそれは望めないと、そう判断した。
踵を返して、数歩。
歩いた所で不意に彼は足を止めた。
音が、聞こえた。
背後の地下通路。通路の丁度真ん中辺り。さっきの下手くそなギターの音が聞こえてきた辺り。どうやらさっきの演奏は、前奏だったらしい。という事はこれはAメロだろうか。もしかしたらサビかもしれない。いや、そんな事はどうでも良い。曲は、今は関係ない。
「あのギターの奴が歌ってるのか………?!」
音が響くのも構わず、左翊は地下通路の中へと駆け出した。歌声はまだ、音痴過ぎるギターの音と一緒に響いている。伴奏に合っていない歌声は、地下通路の中には優雅に繊細に響き続けている。ギターの音と、左翊の足音だけが雑音となっていた。
若い奴だった。
やはり通路の真ん中辺り、古くなってチカチカと点滅している蛍光灯の下。壁により掛かりながらギターを手に歌声を奏でていたのは、予想していたよりもずいぶん若い男で。目を閉じて歌う姿に歌声はよく似合っているのに、ギターの音だけが不協和音を奏でている。いっそのこと彼の持つギターを取り上げて折ってしまいたいとすら、思ってしまう程だった。今の彼に、今のあのギターは不要だ。
こちらに気付いているのか、いないのか。
歌う事をやめず、ひたすらに、陶酔しているかのように彼は歌い続けていた。歌声はずっと聴いていたいのに。中断させたくないのに。このギター音だけが不快で、中断させたくなる。
微妙な葛藤を繰り返しながら、左翊は彼の目の前に立ち尽くしたまま歌声に聞き惚れていた。
今日は、勝ち取ったと思いたかった。
「視聴料」
歌が終わり、音痴なギターソロが終わり、演奏が終わった。
目を開いた彼は戸惑うことなくまっすぐに左翊へと手を伸ばし、開口一番にそう言った。勿論左翊は、は?と問い返してしまう。反響した声で彼がなんと言ったのかが聞こえなかったというのもあるが、まさか演奏が終わった途端に向こうから声を掛けられるとは思っていなかったのだ。
問い返した左翊に、手を伸ばしたままの彼は不機嫌そうにもう一度口を開いた。
「視聴料。ずっと聴いてたでしょ」
催促するように手をグイとやる彼を見て、ようやく左翊は意味を理解した。そして同時に、思っていた以上に彼が子供なのかもしれないという可能性に、眉をひそめた。
「お前のギターなんかに金が払えるか」
「は?!ずっと聴いてたくせに何それ!酷くねえ?!」
喚き散らす声が響き渡る。思わず耳を押さえたくなる衝動をグッと抑え、左翊は盛大に、そしてゆっくりと溜息をついた。言いたい事を全て整理しよう。このチャンスを、逃してたまるか。
ひらりと、何かが舞った。座り込んだままの男は、その動きを思わず目で追い、そしてそれらが地面に落下した所でそれがお札である事に気付く。千円札が3枚。男の足下に散らばった。
「ギターには払えないが、歌声になら払える」
男が左翊を見上げると、左翊は見下ろしたままそう言った。
「俺と組む気はないか?」
人付き合いが得意とは言えない左翊の、精一杯の勇気だった。自分から何かを始めるだなんて、今までに数える程の回数があっただろうか。返事が戻ってくる事に怯えながら、それでも何かを確信したような目で、男を見下ろしていた。
「オレの歌声、三千円なんかじゃないから」
少しの間を置いて、男はそう返した。それは、喚き散らしていた声とは打って変わった大人びたトーン。彼の歌声に似た響きに、ドキリとする。
無音の時間は長すぎたように感じたが、無音がなくなるとその時間は急速に遠のいていく気がした。左翊は、男を凝視して言葉の意味を考えた。彼の本質は、一体どちらなんだろうか。しかし返す前に、男の方が口を開くのだった。
「もーちょっとさ、くんない?ちょっと今金欠なんだよねー」
肩を竦めて笑う男に、深く考えすぎたと左翊は後悔した。単に彼は、金が欲しいだけではないか。別に、何かでかい事を考えているわけではなかった。だがさっきのあの声は。あのトーンは。演技だとは思えなかった。
再び溜息を溢すと、左翊はしゃがみ込み散らばっていたお札を拾う。
「あ、オレの金」
「まだ俺のだ。…お前、誰かと組む気はあるのか?」
むう、と唇を尖らせる彼に呆れながらもその感情は顔には出さず、方向性を変えて問いかけた。もしかしたら既に相方がいるのかもしれない。全く組む気はないのかもしれない。とにかくその意思が知りたかった。
不機嫌そうだった男はほんの少しその表情を変え、少し思案したあと意外な程まっすぐな表情で左翊に返した。
「ココで歌ってればスカウトが来るって聞いてたんで。“遠藤”サイキさん?」
彼はニッと笑った。
が。
「………。誰から聞いたのかは知らないが、俺は“古河”サイキだ」
「あれ?そうだっけ」
慌てた素振りも全く見せず、謝る気もどうやら全くないようだ。だがそれで充分だ。こちらとしては、思わぬ所で自分の名前が出てきて焦っているのだから。どこで聞いたのだろう。まさかとは思うが、毎夜この地下通路に来ていた事が噂にでもなったのではなかろうか。居心地の悪さを少し感じながら、しかし未だ楽しそうに笑う彼を見て、追求するのはやめようと思った。
これはもしかして。
「まいーや、そういうワケ。古河サン?」
今度こそ、勝ち取れたのかもしれない。