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first…

 声の入っていないメロディラインが静かに流れている。微かに入ってくるコーラスは、きっとアーティストの裏声だろう。まるで二人の別人のようだと感心する。曲調はあまり好まないものではあったが、目を付けておくのも悪くないだろうと思う。テンポが落ち、ボリュームが下がる。もうすぐインストルメンタルを含めた全6曲が終了する。ケースを手に取り、表と裏を交互に眺める。アーティストの写真ではない、デザイン重視のジャケット。図柄が好みで購入を決めたものの、あまりに懲りすぎている為だろう、曲名もアーティスト名も一目見ただけでは分からない。崩されたフォントで書かれたアルファベットの羅列を辿ってみたが、それらの内どれが曲名なのか、アーティスト名なのかの判別も難しい。裏側にも抽象的なイラストが描かれているだけで、どうやら中身を開かなければタイトルは分からないという造りらしい。机に置かれていた付箋を一枚剥がし、CDケースにぺたりと貼り付ける。音楽が止まり、回転音すらも沈黙した。実物を見ずに音だけでそれを確認すると、机に重ねていたCDケースに手を伸ばし―――しかしその手前、光と振動だけで着信を知らせる携帯電話に気付き、動作を止めた。音楽に音を重ねることを好まないので、この携帯が音を持つのは外出時くらいのものである。CDケースよりも簡単に開く画面を数秒見つめ、あぁと気付く。まだ見慣れているとは言い難い、最近知り合った人物の名。しかし用件の方は容易に想像出来、何気なくひとつ頷いてから通話ボタンを押した。
「もしも―――」
『あ、ロンちゃん?なんかあった?』
 自分の声を盛大に遮り、主語述語と言った文法を一切無視した大声に、思わず携帯を耳から離した。この手の電話が掛かってくるのはもう4回目になるだろうか。未だに、最初から耳を離しておけば良かったと思ってしまう。来週こそはと、カレンダーを眺める。来週も同じ時間帯に携帯が鳴るということは分かりきっているのだ。
「今週は今の所……うーん、ストライクってのはないです。ちょっと目を付けてみようかと思ってるのが1枚。あと2枚残ってますけど。山下さんの方は?」
『こっちも微妙かなぁ。好みってのはあるんだけどストライクってのは中々……。俺もあと1枚残ってるんだけど』
「え、まだ聴き終わってないのに電話してるんですか?珍しい……」
『んー、申し訳ない程度にコレ好みじゃなくて』
 声音は薄く苦笑いである。受話口から流れてくるメロディラインに耳を傾け、ふんふんとリズムを取っていた遊は、ふと声を漏らす。
「この曲調、オレ好きですけど」
『え、マジで?』
 少し驚いたような声のあと、アーティスト名とタイトルを告げられる。手近にあった紙にメモを取り、積まれた数枚のCDを眺めてみたが、同じタイトルの物は置かれてはいなかった。その旨を伝えると、弾んだ声で「明日持って行く」と返ってくる。「お願いします」と伝えたあと、今度は遊が、今週の収穫であるCDのタイトルとアーティスト名を伝える。まだ聴けていない2枚を含めて全部で5枚。内訳としてはシングル4枚とアルバム1枚なので、今週の出費は少ない方である。5枚全てがアルバムだった週は財布が悲惨なことになってしまう。伝えた5枚の内、2枚はどうやら相手も持っていたようである。音楽の好みが一致することは少ないが、ジャケットデザインの好みは割と一致することが多い。被った2枚もイラストを使用した物だった。
 
 受話口から聞こえていた音色が変わる。購入したCDを聴き終わってから電話を寄越すのが相手の日課だったが、今日のように、全てを聴き終わる前に電話を寄越すこともある。その時いつも不思議に思うのは、彼は電話口で会話をしながらCDも聴いているという事である。会話の内容も覚えているし、どうやら歌詞も耳に入っているようである。「よく両方聴けますね」と訊ねた所、返ってきた答えは「だって耳って2つあるじゃん」というものだった。時折遊は、彼の言葉をどこまで信じて良いものなのか分からなくなる。

『あ、』
 暫くの無言の後、小さく声が聞こえた。唐突に会話が無くなっていた所為で電話を切るに切れずにいた遊は、携帯を耳に当てたまま机に置かれたCDケースを眺めており、相手のちょっとした変化に気付くのに少し遅れた。ワンテンポ遅れてから、「どうしたんですか?」と声を投げ掛けてみるも、相手が集中しているのであれば声を掛けても返っては来ないだろういうのは分かりきっていた。思った通り相手の声はそれ以降聞こえず、変わりに聞こえてくるのは彼が現在聴いているであろうCDのメロディライン。あぁこの曲が好みだったんだろうな、と遊は思った。遊の持つCDコンポよりも随分と良いものを使っているのだろう、携帯で聴いても分かる程度にクリアな音が聞こえる。加えて、遊の部屋ではこの音量で音楽を聴くことは出来ないので、彼の生活環境というものを少し羨ましく思う。
 メロディラインはやがて終焉へと向かう。嫌いな音ではない。

『この人ら好きかも』
 無音が数秒続いた後、そう声が聞こえた。いくらか弾んでいるこの声は、何度か聞いたことがある。お気に入りを見つけた時の声だ。彼が「曲」と言わず「人」と言うこともその指標である。電話口だった所為もありはっきりとは曲を聴くことが出来なかった遊には、まだ良し悪しを判断出来ない。「誰のですか?」と問い掛けた。
『んー、ん……横文字読めない』
「またですか」
『なんで最近のアーティストって横文字多いンかなぁ』
「山下さんのとこも横文字ですよね」
『俺が決めたんじゃないもん』
 賢いのだか頭が悪いのだかさっぱり判断出来ない相手である。電話越しに曲名やアーティスト名を伝えられる時などは、アルファベットの羅列で伝えられることが多い。メモした遊がその発音を伝えるのである。因みに彼の所属するグループ名は「EncAnoter」。造語であるこの名を付けたのはリーダーだという話はちらりと聞いたことがある。
『えーっとねぇ、……シレン?』
「試練?」
『ん。エス・アイ・アール・イー・エヌ。SとRが大文字』
「あれ、…あ、英単語ですか。あー」
 最初に聞こえた単語を真っ先に漢字へと変換していた遊は、直後に聞こえたアルファベットを急いで紙へと走り書く。出来上がった単語を眺めて、その発音を脳内から探し出して頷く。
「それ多分、サイレンだと思います」
『サイレン?……あぁ、そう読むんだ』
 分かっているのかどうかはさておき、どうやら理解はしたようである。自分よりも7つは年上であるはずの彼の教養レベルには不安に思ってしまう所が多々あるが、恐らく何を言っても改善はされないであろうという事は残念ながらこの一月の付き合いで分かってしまった事である。知力はあるのだが学力がないと言い切っても良い程度だろう。訊ねられた事一つに対して一つ答えていけば一応大問題には発展しない、ハズである。
『ロンちゃんは聴いてない?』
「あー、はい、持ってないです」
『んじゃコレも持ってくわ』
「お願いします」
 二人揃って水曜日にCDを買うのが日課であれば、自然と木曜日は貸し借りのラッシュとなる。固定された就業時間というものとは無縁の世界で働く彼の時間に合わせて、遊は学校帰りに近くの喫茶店へと寄るのだ。電話と同じく、これも明日で4回目になる。
 
『一緒に仕事出来たりしないかなぁ』
「……えらい飛躍しましたね」
『夢は持つモンでしょ』

 彼の言葉に苦笑しながらも、案外叶わない夢でもないんじゃないかなんて思ってしまった遊は、自分に対しても肩を竦めて笑った。早く明日になれと、思わざるを得ない程度に彼らの曲を聴きたいと思っている自分がいるのも、事実なのだった。