Press "Enter" to skip to content

カテゴリー: アズレ側

現代に近い世界を舞台にした話

お題:風鈴

人気の少ない路地だった。
道路、塀、固いアスファルトに閉ざされた一本道に、真昼間の太陽を遮る物は少ない。
空のど真ん中にいる太陽は、あちこちにとても短く狭い影しか作っていなかった。
道の両脇は民家。けれど静かなその道には不思議と全ての生き物が存在していないような空気が漂っていた。
そのじりじりと焼かれるような道の中を、両手で自転車を押しながら歩いていた。
本当なら自転車を力一杯漕いでこんな道をあっという間に通り過ぎてしまいたかった。
けれどぺたんこに潰れている自転車の後輪は、それを許さなかった。
峡は深く溜息を吐き、そして諦めて一歩一歩踏み出していく。
歩き始めてすぐに汗の滲み出した額や首元は、今は既にぐっしょりと濡れている。
拭う事は無駄だと分かっていたので流れるままに流していた。
この道を抜けたら大通りで、並木道。そこまで辿り着ければ日陰は増えているだろう。
それだけを頼りに、峡は歩き続けていた。
そんな峡の耳元に、チリンと軽い音が届いた。思わず足を止める。
辺りを見回しても民家の塀が見えるだけで、動くものは何も見えない。
チリン、もう一度聞こえた。
聞き覚えのある音だった。
風が吹く度に涼(の気分)を味わえる、夏の風物詩。
ぐるりと辺りを一周、二周見回したが、結局峡にはその音がどこから聞こえてきているのかは分からなかった。
音はすぐ近くから聞こえているような気もするし、風に流れてどこか遠くから聞こえているような気もした。
峡は足を止めたまま暫く待ったが、どうやら今日は風の少ない日らしい。それきり音は聞こえなくなった。
すっかり汗で湿っている両手でハンドルを握り直し、再び歩き出す。
その足取りは、ほんの少しだけ軽くなっているような気がした。

+++++
15分

Chestnut

お題:電話

ジリジリと電話のベルが鳴った。
いつもと同じ音なのに、何故か切羽詰まっているように聞こえる。
そういう日の電話は大抵、そういう内容の電話だった。
「もしも…」
「椏夢くん?!ちょっとお願いがあるんだけど!」
椏夢の声を遮って、若い女の声が電話から鳴り響いた。
「晞沙さん…少し深呼吸しましょうか」
ゆっくりとした声で、椏夢はそう伝えた。

「また…ですか」
「またって言わないでよ…こっちだってワケ分かんなくて困ってるんだから」
「すみません」
コンクリートで固められた土間には所狭しと背の低い棚が並べられ、そこには沢山の駄菓子屋玩具が並べられている。
普段は子供たちで賑わうその空間に、今は年若い少女と青年だけが並んでいた。
少女の方は困ったような焦ったような、慌てたような顔。
青年の方は困ったような、笑っているような顔。
その様子がどうしても少女は気に入らなかったらしい。けれどそれもいつもの事なのだった。
伍柳椏夢。この駄菓子屋の店主である彼は、いつだってその表情を崩す事がない。
「渓汰君、今日はどの辺りで?」
「用水路の所…落ちてなければいいんだけど…」
泣きそうな声でそう伝える少女、晞沙は、学校帰りだったのか制服を着たまま、鞄も持ったままである。
二人の話題に上がる名前、渓汰とは、晞沙の弟だった。
所謂霊感体質というものを持つこの少年は、他の人には見えない姿を見掛けては、よくふらふらとどこかへ行ってしまうのだった。
連れ攫われている訳ではない事が救いではあるが、それがいつもそうとは限らない。
「用水路…。あの人の所かな」
椏夢は目を閉じて少し考えると、そう呟いた。
晞沙が椏夢を頼ってくるのにも理由がある。彼もまた、渓汰と同じく霊の姿を見る事ができるのだ。
「悪い人じゃないよ。ただ大分長いから、そろそろ行った方がいいかなって思ってた所だったんだ」
晞沙には、二人の見える世界が分からなかった。
「今から、来てくれる?」
「そうですね。お客さんも来てないし、大丈夫かな」
念の為に、と、店の周りの道路も確認し、駄菓子屋はいつもより少し早い時間に閉店した。

「渓汰ー?」
呼び掛ける声に返事はない。
椏夢と晞沙は、人通りの少ない道をゆっくり歩いていた。時間の割に陽はまだ少し高い位置にいる。
晞沙の話では、渓汰はこの道を晞沙と二人で歩いている時に、不意にいなくなってしまったのだという。
隠れられるような場所は少ない。
用水路に引きずり込まれて連れ去られちゃったんじゃ…そう泣きそうになりながら話す晞沙を宥めるのはもう何度目だったろうか。
歩いた先、椏夢は足を止めた。
そこは用水路の上を道路が走る、小さな橋となっている場所だった。
一点を見つめる椏夢の視線の先に、晞沙は何も見る事はできなかった。
「どうやら、あの方も少し困っているみたいです」
暫く黙っていた椏夢は、そう言って柔らかく笑った。
当然晞沙は首を傾げるばかりである。
橋の横まで歩いた椏夢は、ぐっと身を乗り出し橋の下を覗き込む。
前日に雨が降っていればそこは雨水で埋まっていただろうが、今日はそうではなかった。
「賑やかそうですね」
用水路の淵に器用に腰掛けた少年が、びっくりしたようにこちらを見ているのを見付けた。
「あ、あゆ兄~」
観念した声で青年の名を呼ぶと、少年、渓汰はしょんぼりと肩を竦めた。
けれどすぐにハッとして椏夢を見る。
「ねーちゃん、いる…?」
「いるよ」
椏夢の優しい声に、今度こそ本当に渓汰は肩を限界まで落とした。

細い用水路の淵を綱渡りのように歩いて橋の上へと上がってきた渓汰に、晞沙はまず一発げんこつを喰らわせた。
けれど彼が抱きかかえていた子猫を見付けると、黙り込み、そうしてもう一発げんこつを喰らわせたのだった。
痛がる少年とぷんと怒っている少女を置いて、椏夢は何も見えない空間へと向き合っていた。
「疑ってすみません。貴方は関係なかったんですね」
そう伝えると、椏夢はふわりと笑う。
様子に気付いた晞沙は恐る恐る彼に近付き、そして耳打ちする。
「あの、なんて」
「ここにいる方を渓汰君が見掛けて近付いてきたらしいんですが、その後用水路に落ちてしまっていたあの子猫を見付けたそうなんです。それで渓汰君、あんな所に」
上れなくなった子猫を見付けても幽霊では助ける事ができないから、嬉しかったそうです。そう椏夢は付け足した。
「じゃあ、連れ去られたわけじゃないんだ、よかった…」
そうほっと息を吐き、けれどすぐに少年へと振り返る。
「って、よくない。危ないでしょ、一人であんな所に行ったら!」
「だってかわいそうだったんだもん」
子猫を抱きかかえたまま、渓汰はそう言った。
渓汰の言葉に反応したのか、子猫はうなーんと上を見上げて鳴いた。

ふわりと。
唐突に光が飛んだ。
子猫がびっくりしたように短く鳴き、そしてすぐに腕を動かして光を捕まえようとする。
晞沙も渓汰も驚くが、すぐにその正体に気付いて表情を和らげた。
椏夢は相変わらず微笑みながら、その光を目で追っていた。
やがてふわふわと、数が増えていく。
「ホタル…こんな所にも出るんだ」
晞沙がそう呟くと、椏夢はゆっくり頷いた。
「このホタルを、見たかったそうなんです」
光を見つめながら椏夢はそう言った。
「毎年楽しみにしていたそうで、だからまだ消えたくなかった。だから長い事留まっていたんですね」
さわさわと風が流れ、草を揺らしていく。
「綺麗ですね」
それは、晞沙には見えない人物へと投げられた言葉だった。

+++++
40分

憂き世の胡蝶

あなたはだぁれ

 ひんやりとした空気の流れる夜。
 静寂な廊下を歩いていると、ふと人の気配を感じた。屋内で誰もいないはずのその場所で、しかし椏夢は臆することなく玄関扉へと続く土間へ目を向ける。思った通りそこには人が立っており、そしてその身体はぼんやりと朧気だった。
 けれど予想していなかったのは、もう一人の存在で。
 朧気な姿の少年とは対照的に、極々普通の人間のように佇む真っ黒な衣服に身を包んだ少女。長いコートで身を包み足下は見えないが、どこも透けているようには見えない。
 数度の瞬きを繰り返し、椏夢の視線は少女に固定される。すると少女の方も少し驚いたように目を軽く見開き、口を開き…かけたところで、別の足音が響いた。
「お客さんかい?」
 はっと椏夢が振り返ると、奥の部屋から丁度幸子が出てきたところだった。スッと歩き椏夢の隣に並ぶと、彼女の視線は朧気な姿の少年へと向けられた。
「おやおや、また迷子かい?ここにいたって独りだろう。早く行かなきゃいけないところに行きなさい」
 幸子の口調は柔らかく、けれど叱っているようで。少年は少しだけ淋しそうな顔をしたあと、それでもどこか嬉しそうに微笑み、幸子に一礼するとすっとその姿を消した。少年は椏夢の事を見ていなかったが、少年を見ていた椏夢を、少女はじっと見つめたままだった。
「迷い込んでくるお客さんはね、呼び止めちゃ駄目だよ。少しだけ話をして、満足して天国に行けるようにしてあげないと」
 優しく微笑みそう話す幸子は、少女に視線を向けようともしていない。人の存在を無視するような性格をしている幸子ではない。ここでようやく椏夢は気が付いた。幸子にはこの少女の事が見えていないのだと。
「どうかしたかい」
「…いいえ、なんでもないです」
 黙ったまま考え込んでいた椏夢の様子に幸子は首を傾げたが、椏夢はゆっくりと首を振った。
 ふと振り返ると、少女の姿はもうどこにもなかった。

「たまにいるの。私の事が見える人が」
 不思議そうに、だがどこか不機嫌そうな高い声が暗闇に響いた。パタパタと動き回る人影は少女に目も留めず足を止めない。
「死期が近い人なのかと思っていたけど、そうじゃないのね」
 少女の視線は部屋の奥へと注がれているが、その奥の様子は暗闇で何も見えない。少女にも見えてはいない。
「居るかもしれないね。ニンゲンはまだまだ分からない事だらけだから、何が起きても可笑しくない」
 姿は見えないが声だけは響いてきた。クスクスと笑い声の混じる声に、少女は少しだけムッとした。彼の言う事が、本当の事なのか偽りなのか、少女に区別を付ける事はできない。
「そう機嫌を損ねないで。次の仕事があるんだろう?」
「ある。だから空き時間に聞きに来たの、気になったから。でも答えは無いのね」
「何か分かったら教えてあげようか?」
「………、何か分かったら、ね」
 どうせ何も教えてくれないんでしょ。
 声には出さずに、少女はくるりと部屋に背を向けた。そして音もなく歩いて行く。
 終わる事のない仕事へ。

悲しみのサイザ憂き世の胡蝶

古色霖雨

 バシャバシャと音を立てる足元は、水溜まり。暗い空を映すそれらは、ぐしゃりと歪む。しとしとと静かに、しかししっかりと雨は降り続けていた。
「けんちゃん、ねこ!」
 唐突に女の子は叫び、傍らを歩いていた男の子は顔を上げる。甲高い声は露地に響き、そして雨音に掻き消される。溝を流れる水の音が、ごぽごぽと聞こえた。
 女の子は立ち止まり、一心に指を指していた。小さな人差し指の先には、電柱の下にうずくまっている小さな猫。女の子の叫びにも動じず、ただじっと座っていた。
「ホントだ、ねこだ」
 その姿を視界に認めると、男の子は関心が無いかのように静かに言った。猫を見ていた彼の視線は、しかしすぐに女の子へと戻される。じっと猫を見つめる彼女は、男の子が思った通りにダッと走り出した。電柱の傍、猫の元に向けて一目散。水溜まりを跳ね上げる長靴で、それでも危なげ無く駆けていた。
 バシャンと大きな水溜まりに飛び込んで、女の子は足を止めた。男の子も首を傾げて歩み寄った。驚いて逃げると思っていた猫は、全くその体勢を変えずにその場にうずくまっていた。女の子がしゃがみ込んで手を伸ばしても、猫はぴくりとも動かなかった。
「ねーこーぉー?」
 ツンツンと猫の背をつつきながら、女の子は声を掛ける。そこでようやく猫は、面倒臭そうにのんびりと顔をこちらへ向けた。重そうに濡れた毛は灰色。今の空をそのまま写し取ったかのような、曇天の色だった。
「みーちゃん、早く行こう?濡れちゃうよ」
 女の子のレインコートをついと引いて、男の子は声を掛けた。けれど女の子は、灰色の猫の顔を覗き込んだまま動こうとはしなかった。
「みーちゃん」
 もう一度呼び掛けたとき、答えたのは女の子ではなかった。にゃあと一声鳴いた灰色の猫は、ゆっくりと立ち上がると、やはりゆっくりとした足取りで、男の子の足元へと寄り添った。男の子も女の子も、黙ってその様子を眺めていた。
 ごろごろと喉を鳴らした灰色の猫は、もう一度男の子を見上げると、雨の中を歩き出した。びしょ濡れの猫は、水溜まりを避けることもせず歩いていた。
「あ、まって、みーちゃん!」
 女の子はそう叫ぶと慌てて猫を追い掛けた。
「けんちゃんもはやく」
 ちらっと後ろを振り返り、男の子に向かって手を振るとまた猫を追い掛けた。
 男の子は首を傾げて、女の子を追い掛けた。

 ゆっくりと歩く猫を追い掛けるのは、たやすいことだった。すぐに追い付いて、横に並んで歩く。猫は逃げようとはしなかった。
「なんでみーちゃんなの?」
 追い付いた男の子は、女の子に尋ねた。
「みーちゃんがみーちゃんだよ」
 女の子を指差して、男の子は首を傾げた。女の子はくるりと男の子の方を見て、不思議そうな顔をした。
「だってけんちゃんがみーちゃんってよんだから、おへんじしたんでしょ?」
「でもぼくはみーちゃんのことよんだんだよ」
「でもぉ、みーちゃんだよ」
 女の子が指を指してそう呼ぶと、猫はほんの少しだけ足を止めて振り返った。すぐにまた歩き出すが、女の子は手を叩いて喜んだ。
「ほらねー!」
「ほんとかなぁ…」
 にっこりと笑う女の子とは反対に、男の子はどこか不満げに相槌を打った。

 迷う事なくすたすたと歩いた猫は、やがて1件の古い家の門へと入っていった。女の子と男の子は、足を止めた。
「ここのねこさんなのかなぁ」
 女の子がそう言った。
「でもこのいえ、だれもいないってママがいってたよ」
 答えるように男の子が言った。小さな傘からは雫が零れている。まだ雨は止みそうにない。
 コンクリートブロックに囲まれた古い家は、雨の景色に溶け込んでいた。
「みーちゃーん」
 女の子は控え目に呟いた。しとしと降り続く雨は、そんな小さな声を打ち消した。返ってこない返事に、女の子は頬を膨らませた。男の子はオロオロと様子を見ていた。
 女の子は、家の敷地へと一歩踏み込んだ。続いて門をくぐり、あちこちを見回す。それでも猫は見つけられなかった。
「みーちゃん、ダメだよ」
 男の子の声が女の子の背に届いても、女の子はすたすたと中へと足を進めた。男の子は仕方なく、女の子のあとを着いていった。

 雫が滴り落ちる木の下で、灰色の猫はうずくまっていた。向かい側に見える家の中に、動く影はひとつも見えない。薄いガラスの引き戸の奥は真っ暗で。
 灰色の猫は、決して開くことのない窓を開けてほしくて、にゃあと鳴いた。
 遠くから、女の子の声がする。灰色の猫は、ぴくりと耳を動かした。動かして、そのままだった。
 ザァと降り続く雨は、静かながらも止む気配はなかった。

 傍らの木から、まっかな椿がぽとりと落ちた。

アズレ側

もう腕まくりしたくなる季節なのね

 なんだかいつもと違う様子に気付いて、ふと横を見る。何が違うんだっけ?と首を傾げて幼馴染みを凝視すれば、何ジロジロ見てんだ、と嫌そうに返された。一呼吸置いて、あぁ、と手を打つと、やっぱり変な目で見られるハメになった。
「峡やん、半袖なのか」
 一瞬、はぁ?とした目で見られて時が止まる。どうやら向こうはこちらの言葉の意味を理解しようと思考モードに入ったようである。単純な言葉にそう長く考え込むことはなく、数秒後には再び時は回り出した。
「それがどうした?」
 言葉の意味というよりそれを言葉にした者の思考回路に疑問が射したのか、まるで無表情で問い返す。
「や、ね。なんか今日はいつもと違うなーって感じがして」
「………それだけ?」
「それだけ」
 やれやれと溜め息を零しながらうっかり遅くなっていた歩みを速める。このペースで歩き続けていたら確実に始業のチャイムに間に合わない。幼馴染みのマイペース振りはいつものことだったから、そう毎回リアクションを返しているわけにもいかない。
「俺も腕捲っとこうかな」
 やはりマイペース。隣でシャツの袖を無造作に捲り上げた深次は、得意げに峡に笑顔を見せた。

Chestnut