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月: 2013年7月

お題:花火

ドン…という低く遠い音が窓の外から響いた。
何事かと思い真鈴が外に視線を向けると、丁度そのタイミングで遠くの空がパラパラと光った。数秒置いて、再び低い音。
しばしきょとんと窓の外を眺めて、
「何事…」
そう呟いた。
遠くの空に咲く花が何であるかを知らないわけではなかった。ただそれが、どう見ても森の上空に打ち上がっているという状況に唖然としたのだった。犯人は考えるまでもない。
「全く、お気楽なんだから」
そう肩を竦めて息を吐くが、視線はつい窓の外へと向いてしまうのだった。
一つずつ、名残惜しむかのようにゆっくり打ち上がる大輪の花。また一つ、先に形だけが現れる。
ドン―――…ガタン
低い音に続いて、すぐ近くで何かが倒れる音が響いた。近くも近く、すぐ後ろである。
今度は何事かと後ろ、部屋の入り口を振り返ると、そこには倒れた椅子と蹲る烈斗の姿があった。
「ちょっと、どうしたのよ!」
真鈴は慌てて烈斗の元に駆け寄るが、少年の小さな身体はカタカタと震え真鈴の事など見ていないようだった。
「烈、烈!」
肩を揺らし声を掛けても、俯いたままの視線は床しか見ていない。もしかしたら床すら映っていないのかもしれない。
烈斗の様子は、真鈴は初めて見るものだった。しかし、知らないものではなかった。
少し考え、真鈴はそっと烈斗の頬を両手でパンと叩く。そして無理矢理顔を上げさせ、そのまま両手で頬を包み込んだ。
「烈」
少年の目を覗き込むように真鈴はゆっくり呼び掛ける。一度、二度。三度。呼び掛ける度に少しずつ、青紫の瞳が真鈴の姿を捉え始めた。
「鈴ねーちゃん…」
五度目の呼び掛けをすると、烈斗の口が微かに動き、か細い声がようやく聞こえる。目はすっかり真鈴の事を見ていた。
真鈴はほっと息を吐くと、優しく笑ってみせる。
「怖いものなんてないんだから。ね、怖がらなくていいんだからね」
そう言い終わると同時に、再び窓の外からドン…と低い音が響く。途端に烈斗の目が固く閉じられた。慌てて真鈴は烈斗の両耳を塞ぎ、ぎゅっと自分の近くへと引き寄せる。身体はまだ微かに震えているようだったが、先程よりは大分落ち着いているようだった。
「烈、向こうの部屋行こっか」
外からの音が聞こえなくなったのを確認し、耳を塞いでいた両手を離す。その手で烈斗の肩と頭を撫でると、烈斗も閉じていた目をゆっくり開いた。
「向こうだったら音もあまり聞こえないと思うし」
そう言いながら真鈴は立ち上がり、烈斗の両手を引いて彼の事も立ち上がらせた。そのまま手を握り部屋を出ようとする。烈斗は一瞬だけ迷ったようだったが、真鈴に手を引かれ、一緒に歩き出した。
手を引いて歩いていると、烈斗は実年齢よりもずっとずっと幼く感じた。普段から強がらなくていいのに、そう思わずにはいられなかった。

「爆弾使うくせに、花火は苦手なのね」
嫌なからかい方のように聞こえてしまうかもしれない。そう思いながらも、真鈴はそう小さく呟いた。
「鈴ねーちゃんには関係ない」
烈斗の答えは思っていたより簡単で、分からないものだった。

+++++
25分

CrossTune

お題:線香花火

パチパチと音の鳴る花をじっと見ていた。
いつか終わってしまう事も、その時が案外あっという間にやってきてしまう事も頭の中では分かっていた。
けれどその同じ頭の中で、ずっとずっとずっとこの音が鳴り続いていればいいのに。そう思っていた。
火花が飛び散り、その反動で花は小さく揺れている。
微かな振動がじんわりと指先に伝わってきて、あまり揺れるな、と念じた。
念じたって、祈ったって、何も変わる事はない。そう分かっているのに。
「深刻な顔しすぎだって」
急に声を掛けられて、ビクッと腕を大きく揺らしてしまった。
慌てて手元を確認すると、そこにはまだ必死に咲き続ける花が揺れていた。
バレたくなくて、小さく小さく息を吐いた。それから返事をした。
「なんか、夢中になっちゃって」
しゃがんでいた自分の隣に、声を掛けてきた人物―――峡もしゃがみ込む。
さっきまで向こうではしゃいで騒いでいたのに、こういう時だけ声が全然違う。そう気付いていた。
峡はしばらく何も言わなかった。
ただじっと、手元に揺れる花を見ていた。
邪魔するわけでもなく、競うわけでもなく。ただじっと、見ているだけだった。
そしてやがて―――ぽとんと最後の命が落ちた。呆気ない終わり方だった。
目一杯咲いて咲いて咲いた花は、何も残さずに終わっていった。
「綺麗だったな」
峡はそう話し掛けてきた。
きっと、何を思っていたのかくらいは見通されている。
きっと、それを分かってて隣に来て、一緒に眺めて、言葉を選んでる。
期待しすぎている部分がありそうな気もしている、でも裏切られはしないような気がしていた。
「うん。綺麗だった」
こくんと頷いて、そう答えた。
「何も残らなくてもさ、いっぱい盛り上がるし、綺麗だし。ずっと覚えていられるよな」
しゃがんだまま、こちらを見ることなく峡は呟いていた。
話し掛けるのと同時に、それは自分に言い聞かせているようにも見えた。
「うん」
それには、頷く事しかできなかった。

+++++
15分

Chestnut

お題:爆音

広大な大地を、呆然とした目で少年は見ていた。
辺り一帯にはほとんど何もなく、少し薄い色の青空と乾いた薄茶色の大地がどこまでも続いていた。
所々に大地と似た色の岩が転がっていたり、葉っぱのない木がぽつんと立っていたりする景色は、少年には信じられないものだった。
「そんな大口開けてっと、格好悪いぞ」
快活な声が隣から聞こえる。
太陽のような表情に、そんな雰囲気の髪の色。肌の露出が多い割には、直視しても気にならない健康的な体付き。
………嘘だ。それは少し言い過ぎで、腰に手を当てニカッと笑う動きに少し遅れて揺れた胸に、少年は少しだけ目線を外した。
女は右手を腰に当て、左手を四輪自動車≪グラン≫の扉に掛け、面白そうに少年を見ていた。
少年がまた景色に目を戻すと、女も景色をぐるりと見回す。
「全然見慣れないってか」
「見慣れないってゆーか、知らない世界みたいです」
「そりゃそうだろうね。リュートだっけ、アンタが住んでたの」
言葉には出さずに少年は頷く。
うんうんと、やはり面白そうに頷き、女は今度は両手を腰に当てた。背中に体重を持っていき、グランに寄り掛かる。
「アタシは行った事ないけど、聞いた事はあるよ。小さくて閉鎖的で謎だらけって噂」
「そんな謎だらけって程でもないと思いますけど…」
「住んでた身だったらそうだろうけどね。他からわざわざあんな所に行く人、いないだろ」
そういえばこの人の笑っていない姿を見た事がない、と思いながら少年は女の横顔を見上げた。
“あんな所”から飛び出して、あまりの違いに立ちすくんでいた所を、この人に拾われた。
そして自分の知らなかった常識を大量に知る事になった。
少年には何もかもが新しくて、何もかもが自分をちっぽけなものに変えていっていた。
突然、地面が軽く揺れ始めた。
その揺れは段々と大きくなってくるようで、それに合わせるように遠くから微かにガタガタと音が聞こえ始める。
「お、来たね」
女の弾むような声が聞こえる。見るとその視線は右の遠く、地平線の辺りを見ていた。
少年も倣うように同じ方向を見る。
何も見えない地平線の先に目を凝らしていると、少しずつ何かが動いているのが見え始める。
そういえば、面白いものが見れるよ、と言って乗っていたグランを急停車させて立ち止まってから小一時間くらいは経っていた。
グランを停めた数歩先には、何に使うのかもよく分からない長い長い板のような物が地平線の端から端まで伸びている。
動いている何かは、その線上にいるようだった。
やがて音も振動もはっきりと聞こえるようになると、その発生源もはっきり見えるようになる。
長い板―――レールの上を、大きな箱のような物が猛スピードで走っていた。
この大陸にやってきてグランという乗り物に驚かされたが、その比ではなかった。
箱の先頭からは黒い煙が上がり、あっという間にこちらに近付いてくる。
思わず一歩後ずさるのを見て、女がアハハと笑う。
「避けなくたって、ぶつかりはしないよ」
その女の声も、もうすっかり聞こえないくらいに箱の音は間近に迫っていた。
遠くから見えていたよりもその箱は随分と長く、先頭が目の前を通り過ぎたと思ったら長い体はしばらく目の前を通過し続ける。
突風に煽られ、髪はバサバサと暴れ回った。
あまりにも速くて、それがどういった物なのかを見定める事ができなかった。ただ、長い箱がいくつか連なってすごく長く見えていたのだと分かった事と、箱のそれぞれに窓のような物が付いていたのは見えた気がした。
一番最後の箱が通り過ぎて、急速に音が遠ざかる。段々と揺れも収まってきた。
余韻のような風がやっと収まると、何事もなかったかのようにまた静かな荒野が目の前に広がっていた。
「どうせ今のも見るの初めてなんだろ」
女の問いに、少年はまだ呆然とした顔でこくんと頷いた。
途端にぐしゃっと髪をなで回される。
「何するんですか!」
「一箇所に立ち止まってっと、人生損するよ」
耳のすぐ近くで笑い続ける女の声は正直煩かったが、不快なものではなかった。
ただでさえ風でぐしゃぐしゃになっていた髪は、なで回されて更にめちゃくちゃになっている。
少年の頭の中で、女の言葉がぐるぐると回っていた。
分かってる、と少年は声に出さずに返事をした。分かってるから、こうやって知らない場所にやってきたのだ、と。
最後にドンと頭を叩かれ、少年は思わず転びそうになるのを必死に堪える。
「ほら、次行くよ。ぼさっとしてたら置いてくからね」
扉を開けることなく、ヒラリと女は運転席へと飛び乗っている。
それを見て慌てて少年は隣の席の扉を開けて乗り込む。
扉を閉めると同時に、さっきの箱程ではないがけたたましい音が鳴り響く。
レール沿いを、箱が走っていた方向へとグランは走り出す。そのスピードは徐々に上がっていく。
走り去っていく景色を呆然と見ていた少年は、ぼそりと呟いた。
「今度、運転の仕方教えて下さい」
「イイよ、飛びっきりのテクニックも教えたげる」
前を向いたままの女のニヤッとした笑みに、少年の額には冷汗が滲む。
「………普通の運転でいいです」
「遠慮しなさんなって」
女の大きな笑い声と同時に、グランのスピードは最高速度へと達していた。

+++++
30分

CrossTune

お題:雑音と砂嵐

ふわふわと浮かぶような感覚に気付いて、次に感じたのは風だった。
ふわりと何かが揺れて、静かに撫でられるような感触。
それが何かに気付く前に、遠くから何かの音が聞こえてくる。
話し声のような、けれど何を話しているのか分からない音。
耳を澄まそうとしても、意識を耳に集中させる事ができなかった。
ゆっくりと身体が傾いてくるような気がする。
ゆっくり、ゆっくりと身体が浮かんで、放り出される。
そのスローモーションの感覚の中で、不意に話し声がぷつんと止まった。
あれ、と、意識の割と浅い所で疑問を感じた途端、急に世界にスピードが戻ってきた。
座っていた椅子が斜めの角度に耐えきれなくなって一気に倒れ落ちる。
慌てて机の端を掴もうとしてもとっくにそれは間に合わなくなっていた。
ガタンッ
大きな音と木の床が音を吸収していく余韻、僅かな揺れ。
幸い下の階には誰もいなかったが隣近所くらいになら余裕で聞こえる音だった。
ワンテンポ遅れてやってきた激痛に、背中と右肘を思い切り打ち付けたのだと気付かされる。
しばらく起き上がる事もできず、投げ出された床に転がっていた。
じんわりと痛みが全身に広がっていく中で、音が世界に戻ってくる。
頭の上の方から聞こえてくる音に、ゆっくりと首を持ち上げて振り返る。
うたた寝しながら点けっぱなしになっていたテレビの画面は、深夜番組を通り越して灰色の雑音を流し続けていた。

+++++
15分

一次創作

さがしもののゆくえ

その日クラロスが役所に向かうと、狭い室内には他の利用者は誰も来ていなかった。
それぞれがそれぞれのタイミングでやって来るものだから、たまたまタイミングが合えばごった返しているし、合わなければ誰もいない。
視線を彷徨わせようと少しだけ動かした首をすぐに止め、まっすぐに受付口へと歩いた。そこには男の役人が立っていたが、たまたまなのか、クラロスを見掛けてからなのか、すっと立ち上げるとどこかへ歩いて行き、そして入れ替わりに女の役人が現れた。長いうさぎの耳を隠そうともしない、この辺りでは珍しい獣人の役人、ルクスだった。
ルクスはクラロスの姿を見ると、そのままの視線で彼が近くまで来るのを待った。
「時間できたから。何かする」
クラロスが短くそう言うと、ルクスは呆れたように軽く笑って見せ、受付口の下から大量の紙が挟み込まれたファイルを取り出す。その中の何枚かを素早く抜き取り、クラロスの手元へと差し出した。
「あんたが好きそうなの、その辺りかな」
差し出した後もパラパラとファイルを眺めるルクスをちらりと見たクラロスは、手元に出された紙へと目を落とす。そこに書かれているのは、引っ越し手伝いや、知人への配達や、隣の町への買い出し。どれも何かを“運ぶ”ものばかりだった。
その中の一枚に手を伸ばした時、その手のすぐ横に、スッとルクスの手が伸びた。静かに視線をそちらに向けると、その手の下には他の依頼の紙よりも小さな、カードと表現するのに丁度いい大きさの紙が置かれていた。クラロスは辺りを見回したが、受付口の奥の部屋にいる役人達と、入り口側の空間にいるクラロス以外に姿はなかった。なので、隠そうともせずそのカードを手に取った。カードに書かれたアルファベットと数字の羅列を見て、表情も変えずそのままポケットの中へと滑らせる。
「これにしとく」
再び依頼の紙に視線を戻し、最初に手を伸ばした紙とは違う物を手に取ると、クラロスはそう言った。その目の前でルクスはにっこりと笑うと、慣れた手付きで承認の印を押す。
「いつもご苦労様。よろしくね」

役所を出て南下し、中央街を抜けてもまだ歩き続けると、次第に街並みが変わっていく。
二回目の変化を横目に見ながら西へと方向を変え、また歩く。中央街の雑踏とは違う人並みが、そこが居住地区である事を教えていた。街を東西に貫く大通りはいつ来ても人が多かった。そしてその大通りから細い通りに入っても、そこには沢山の人々の生活があった。
クラロスは折りたたまれてポケットに押し込まれていた紙を取り出し、広げる。依頼内容は、古くなった棚の廃棄。依頼主は女性。番地まで書かた住所の下には、丁寧に地図まで書かれている。十字路で足を止めて地図と周囲を見比べる。この角を曲がれば依頼主の家はすぐそばだった。
しかしクラロスの頭には、依頼内容も、住所も、この街の地図も全て入っていた。
クラロスが見ていたのは、依頼の書かれた紙と共にポケットから取り出したカードだった。そのカードに書かれた“番地”も、この十字路を依頼主の家とは反対方向に進んだ所にあるはずだった。
それだけ確認し、カードごと紙をたたみ込み無造作にポケットへと突っ込むと、クラロスは迷うことなく依頼主の女性の家へと向かった。
周囲の家とさほど変わらない平凡な扉を二回ノックし、様子を伺う。思ったよりもすぐに扉は開き、中から少しだけ疑問の表情を浮かべた中年の女性が現れる。扉に鍵は掛かっていなかったようで、クラロスは胸中で溜息を吐いた。その感情を悟られないうちにと、すぐに依頼の紙を取り出して女性に向け、言葉を続けた。
「レインの者です。ご依頼、引き受けに来ました」
「あぁ!どうぞ、お願いしますね」
すぐに気付き納得した様子の女性に室内へと招かれ、見えない所でクラロスはもう一度息を吐いた。こんな無防備な所にアイツみたいなのが来たらどうするんだ。そう考えては、頭を振ってその考えを打ち消した。今はそれを考える時ではない。女性の背を追いながら、クラロスも家の中へと入って行った。
「ありがとう、助かるわぁ」
数分後、入った時とは逆順に、今度はクラロスが女性の前に立っていた。部屋の片隅に置かれた棚を持ち上げ、扉の大きさよりも一回りだけ大きいそれを傾けながら、どこにもぶつからないようにと気を配ってゆっくり外へと出て行く。棚は壊れてもいいものだったが、家は壊してはいけないし、壊れれば持ち運びが不便だった。
完全に外へと出しきると棚を一旦地面に降ろし、クラロスは女性へと振り返る。
「これは責任持って廃棄致しますので」
爽やかな笑みに、女性は嬉しそうに頷いた。壊れているようには見えなかったこの棚を廃棄する理由はクラロスには分からなかったが、それを詮索する気は一切なかったし、興味もなかった。この棚を廃棄場へと運ぶ、ただそれだけ。
「よろしくね」
「はい。では、失礼します」
もう一度にっこりと笑いかけ、一礼。バランス良く棚を背に担ぐと、あとは振り返らずに歩き出した。少しの間を置いて、後ろで扉が閉まる音がした。鍵を掛ける音はしなかった。もうすぐ役目を終える棚が、背中の上で揺れる。この棚が置いてあった場所は棚がなくなりがらんとしていたが、そう遠くないうちにその場所を他の何かが占拠するのだろう。
柔らかい表情をあっという間に消滅させて、クラロスは歩いていた。
嘘の笑みではない。ただ、本物の笑みでもなかった。

街の区画に何ヶ所かある廃棄場の一つにドンと棚を降ろすと、それでこの仕事は終わりだった。
あとは役場に戻り、ルクスから報酬を受け取ればそれで完了。いつもの流れだった。
そして、いつもの流れにいつものおまけが付いていた。
廃棄場を抜け、大通りを避けて少し狭い通りを歩く。隣を子供たちが数人笑いながら走ってすれ違っていった。気にも留めずにさらに南下して、三回目の街並みの変化を確認する。今までの規則正しく並んだ道はぱたりと途絶え、目の前に広がるのは無造作に配置された小道と、背の低い建物の区画だった。
複雑に区切られたその街へ足を踏み入れると、明らかに先程までいた場所とは空気が違う事が分かる。密集した建物同士の隙間は狭く、通り抜けていく風はない。人気はあり生活感だって感じるというのに、のし掛かる空気が重いような気がした。
足は止めずにカードに書かれていた文字を頭に思い浮かべる。あの文字列が現すのは、この区画に入ってすぐの場所だった。その場所を目指して周りを見回すことなく、まっすぐに進む。不思議そうにこちらを見ている子供たちの姿があったが、気付かないふりをしてクラロスは歩き続けた。北の方からやってくる来客はそう滅多にいないのだから、そこは仕方がなかった。
目指す先、目的の場所には、一つの影が立っていた。
古びたフードを目深に被った姿は、街の北部であれば酷く目立って人を呼ばれるだろう。しかしこの辺りではそんな姿は珍しくはなかった。隠す為に使う人もいれば、それが普段着である人も多かった。
こちらよりも先に向こうは気付いていたようで、クラロスが姿を認めると同時にそばの脇道へと姿を消した。
僅かな間を置いて、クラロスも脇道へと足を踏み入れる。道の両側は窓のない建物の壁に挟まれて狭く、反対側から人が来てもすれ違うのも困難な場所だった。その道の始まりと終わりの丁度中間くらいの場所に、フード姿の人物が立っていた。今度はまっすぐクラロスを見ている。今の所は一応、敵意は感じない。それはあくまで、“一応”だった。
道の真ん中まで近付くと、クラロスはようやくそこで足を止めた。
狭い道でフード姿と対峙する事になったが、深く被ったフードの中は薄暗く、輪郭しか見えない。その姿がゆっくりと右手を差し出してくる。長い袖の先から少しだけ見えている指先は、まだ若い女のもののように見えた。
「これを、ここに」
フードの下から聞こえた声も、やはり女のものだった。意外だな、とだけ胸中で呟き、クラロスは無言で女の手に握られたものを受け取る。それは小さな木箱と紙切れだった。それほど重さのない木箱の方にはきっちりと封がしてあり、中に何が入っているのかは分からない。もう一方、紙切れには意味の無さそうな数字の羅列が書かれている。“ここ”と言われた、木箱の届け先だった。数字を確認すると、クラロスは二つをサイドポーチに入れ込んだ。
「了解」
一言だけ呟くように伝え、すっと右手を上げる。何の反応も返さないフードの女を気に留める事もせず、クラロスは上げた右手を引くようにして高く跳躍した。耳元で風を切る音一瞬が聞こえ、すぐに止まる。女の頭上を飛び越えて、あっという間にその背後に音もなく着地した。そのまま歩き出し、入ってきた道の入り口とは反対側の入り口へと進む。背中に女の視線を感じたが、そこにはもう興味はなかった。

面倒な手順が発生する時は、大概面倒な事態が付きものだった。
陽は沈み始めていたが、構わずに街の外へと出る。足を止めて辺りの様子を伺うが、まだ気になる気配はなかった。
運び屋は、物を運ぶのが仕事。
その物がどういった物なのか、どういった理由なのかを知る必要はない。
そう思っていたから、クラロスはルクスからの仕事も気にせずに引き受けていた。
昼間でさえ滅多に人の通らない街の外は、もうすぐ夜がやってくる時間ともなると風と音と虫の声しか聞こえない世界だった。西の空はまだ赤いが、東の空はすっかり宵の色。その中を、クラロスはやはり無表情で歩き始めた。届け先は、隣町へ向かう道の途中を森の奥へと逸れた所。ルクスが持ってくる仕事らしい場所だった。
人の姿は見えない。だが誰もいない訳ではない。クラロスはそう確信していた。
その確信は、道を逸れて森へ足を踏み入れた時に正確に形となって表れた。ヒュンと風を切る音が聞こえ、クラロスのすぐ後ろで乾いた音がする。素早く右に飛ぶと、更に乾いた音が続く。見ると木には、細いナイフが三本刺さっていた。じっとそれを見ていると、丁度ナイフの飛んできた方向から足音が聞こえる。隠そうとしていない足音を聞き、そちらへゆっくりと振り返った。
「要件は分かるだろう」
そこには見知らぬ男が立っていた。森の入り口に背を向けるように立っている所為で、背後の空に月を配置するシルエットになっている。神々しくもないし、似合いもしない。それを顔に出さず、クラロスは男を見ていた。
「大人しく渡せば逃がしてやる」
男がナイフを持った手を肩の位置まで上げると、残照がキラリとナイフを光らせた。それでもクラロスの表情は変わらなかった。代わりに、呟くように言い放つ。
「見逃してくれるなら、逃がしてやる」
最初男は、言われている意味が分かっていないようだった。しかしすぐに気付き、あからさまに怒りの表情を浮かべる。「調子乗りやがって…」と呟いてギリリと歯を鳴らすのを見て、クラロスは無表情で呆れた。また、ハズレだ、と。
瞬間、男が素早くナイフを投げる。腕は良い、狙いも正確だ。だがこの場所が悪かった。
ナイフが当たる直前にクラロスは横に跳び、続けて地を蹴り上へ飛ぶ。次に着地した場所は男のすぐ目の前だった。男が一歩足を引き、その目の前をクラロスの右手が通過していく。手に武器は何も握られてはいない。それに気付いた男は今度は一歩踏み込み、手にしたナイフで大きく斬りかかった。―――つもりだった。
振り上げた右手は振り上げたままの形で固まっていた。何が起きたのか分からないといった顔で男は自分の右手を見上げる。その隙にクラロスは何かを投げるように左右に右手を振った。クラロスの動きに気付き男はそれを目で追うが、追った先には何も見えない。男の顔には次第に焦りの表情が浮かびだしていたが、右手はまだその場に固まったままだった。
「お前…何を…」
男が呟くように言ったが、クラロスはそれには答えなかった。代わりに後ろへと大きく跳ぶ。
途端、男の身体がふわりと宙に浮いた。重力に逆らって胴体が浮かび上がりながら、それより少し速いスピードで左手と右足も上へと上がっていく。上がった先にあるのは右手で、やがてその三つはぶつかる事になる。
抵抗する間もなく、両手と右足を上にした状態で、男は何もない空間にぶら下がっていた。
「な、なな、何が」
動く左足をばたつかせてるが、ぐらぐらと身体が揺れるだけで状況は何も変わらなかった。
「暴れていればそのうち降りれるだろ。今は俺の邪魔をするな」
そう言ってクラロスは男に背を向け歩き始めた。
「な、なんだとお前、おい!降ろせ!戻ってこい!逃げるのか!!」
対する男はそんなクラロスの背に目一杯の怒鳴り声をぶつける。その大声はクラロスがしばらく進んでも変わらずに聞こえ、どうやら森の外にまで響いているようだった。
「……、…うるさい」
後ろを振り返ることなくクラロスの右手が左右に振られる。
ほんの数秒後、バサバサッと何かが大量に落ちる音がして、急に男の声が静かになった。直後、ドサッと鈍い音が響く。それきり、何の声もしなくなった。
クラロスの背後では、大量の木の葉を被った男が地面の上で目を回しているのだった。

森の中にひっそりと佇んでいる建物には、人の気配を感じなかった。
窓から漏れる明かりもなく、辛うじて残っている残照と強みを増してきた月の明かりにだけ照らされている。
入り口の目の前に立ち、クラロスは辺りを見回す。指示された届け先ではあるが、無防備に置いて帰る訳にはいかない。
しかし見回してもやはり人の姿は見当たらない。その代わり、微かな足音を捉えた。
家の裏、乱れた足音。
状況に心当たりがあり、クラロスはそっと動いた。
サイドポーチから黒い革手袋を取り出しぐっと手にはめる。そして何度かあちこちに手を振り、最後に建物に向けて何かを投げた。一瞬だけ月明かりに照らされ糸のようなものが現れるが、すぐにそれは見えなくなる。丁度その糸を引くような形で何かを確認すると、クラロスはトンと地面を蹴り上げた。するとクラロスの身体は軽々と宙を跳び、建物の屋根にトンと着地する。わざと立てたその音に気付いたのか、聞こえていた足音が止まった。
屋根の上を駆け出し、そこから一気に飛び降りる。飛び降りた先には二人の男が唖然として立っていた。
「な、なんだお前は…」
一人がそう声を漏らした。その左手はがっしりともう一方の男の口元を押さえつけ、右手はナイフを首元に押し付けている。口を押さえられた男は怯えた目でクラロスを見ており、その様子にすぐに二人の関係図に気付いた。
「仕事の邪魔をしないでもらえるか」
「そっちこそ邪魔をするな!」
いきなり激昂した男の声に、クラロスは何度目かの溜息を吐く。やはり、ハズレ。正直期待はしていなかったが、と。
ナイフに力が込められ、押し当てられた男の顔は恐怖に引き攣っていた。助けを求めるようにクラロスに視線を向け、首を振ろうとしてナイフに気付いてすぐに動きを止める。溜息を見えないように溢し、クラロスは二人をじっと見た。
「人助けは仕事じゃない。けど、届け先がいなくなるのは困る」
そう言い終わるが早いか、素早く右手を振るう。ナイフを持つ男の視線がクラロスの手に沿って動き、その隙に左手が振るわれる。途端、男の持つナイフが何かに弾き飛ばされた。
「?!」
どこに飛ばされたのかと男が辺りを見回すと、少し離れた木と木の間、そこの何もない空間にナイフが浮いていた。刃を下に向け、まるで柄の部分を何かに吊り下げられているかのようだった。
呆然とナイフを見ている男の手は、すっかり緩んでいたようだった。捕らえられていた男はすぐさま抜け出し、クラロスの背後へと走り抜ける。
「あ、待て!」
取り逃がした事に気付き男は慌てて駆け出そうとし、直後その足がピタリと止まった。反動で前のめりになり反射的に両手を前へ突き出すが、その手が地面にぶつかる前に身体全体の動きが止まる。地面すれすれの所で両手は浮いていて、そしていつの間にか、がっちりと両手首がくっついていた。
それは、糸だった。あちこちの木から伸びている糸が、男の両足と腰、そして両手に複雑に絡まっている。
しかし光の少ない森の中でその糸を視認できるのは、糸を張った本人であるクラロスだけだった。
「煩いと面倒だから、少し黙っててもらう」
クラロスはそう言うと、男に向けてピンッと糸を投げる。無論その糸は男には見えていないので、何をされているのかは男には分からなかった。投げられた糸はくるくると男の首に巻き付き、何かが巻き付いてくる感触に男が気付いた時にはもう解く事ができなくなっていた。そして糸が最後まで巻き付くと、糸の先端に取り付けられていた小さな針が男の首元に刺さる。
「…っ」
微かな痛みに顔を歪めた直後、男の身体からは力が抜け、だらんと見えない糸にぶら下がるだけとなった。
ぴくりとも動かない様子に、ひぃと息が漏れるような小さな悲鳴が聞こえる。
「し、死んだのか…?」
後ろに隠れていた男が恐る恐る顔を出し、訊ねてきた。
「いや、寝てるだけだ」
振り返ることなく、そう返した。
空中に向け指を伸ばし、何本かの糸を操る。そして最後にグッと引き込むと、どさりと音を立てて男の身体が落下した。両手両足、ついでに口元も透明な糸にぐるぐる巻きになっている姿だったが、近付いて確認してみてもよく眠っていて当分起きそうにない。
それだけ確認すると、くるりと振り返り怯えていた男の元へと近付く。ビクッと一瞬震えたように見え、クラロスはわざと見えるように溜息を吐いて見せた。
「依頼されていた品を届けに来ました」
ぶっきらぼうにそう言うと、サイドポーチから小さい木箱を取り出す。
声を掛けられてもまだ怯えていた男だったが、差し出された木箱を見て、ようやく肩の力を抜いたようだった。
「は…ははは…」
安堵が乾いた笑い声となって、そして木箱を受け取りながら男はべしゃりと地面に座り込んでいた。
木箱を渡し終え、請け負った仕事を完了したクラロスは、冷めた目で男を見下ろす。
「襲われたのがそれを渡す前で良かったな」
まだ腰を抜かしている男は、言われている意味も分からずクラロスを見上げる。その視線も気にせず、溜息を吐きながらぐるぐる巻きの男の方へと歩みを進める。
「渡す所までが俺の仕事だ。渡した後は知らない」
そう言いながらひょいと気を失っている男を担ぎ上げると、クラロスは一度だけ振り返る。
「いつまでもそこに座り込んでいない事をお勧めする」
男はようやく言われている意味に気が付いたようで、冷汗をだらりと流しながら慌てて立ち上がった。
辺りに人の気配は無かったが、暗い森に夜は始まったばかりだった。

「お疲れさま」
受付口で明るくそう言われ、クラロスはムッとした表情で報酬を受け取った。受け取った報酬の内訳は、最初の一件分と、次の一件分と、そして夜盗の取り締まりに対する礼金の分だった。
夜遅くに担ぎ込んだ夜盗を役所に放り込み、役人に複雑そうな顔で礼を言われる事には慣れていた。そのまま建物の裏で仮眠を取り、朝方に見回りの者に起こされるのもいつもの事だった。だが仕事後に笑顔で対応してくるルクスの表情は、いつまで経っても好きになれなかった。
「どうだった?」
表情も声音もいつものままで、音量だけを下げてさり気なく聞いてくる態度も気に入らなかった。
「どっちもハズレだ」
吐き捨てるようにそう返すと、「そう」と小さく返される。
「今日は何かやってく?」
「いい」
ファイルを取り出そうとするルクスの声を遮るように短く言い、クラロスはくるりと背を向けた。
「そ。じゃあ、また今度で」
振り返らずともルクスがにっこり笑っているのは分かっていて、だからこそそれには答えず、クラロスは役所の外へと出て行った。
扉の隙間から朝の陽射しが入り込み、細く明るいラインを作っていた。

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