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タグ: 過去

お題:ムラサキ

「何してるの」
手摺りに腰掛け足を揺らす影をしばらく眺めてから、そうシズキは声を掛けた。本当はもっと前に家の中へと入る予定だったのだが、ぼんやりと空を眺める姿の邪魔をしたくなかった。
シズキの声に気付いて、ルキは視線を空から降ろしてきた。どうやら近くまで寄っていた事に全く気が付いていなかったらしい。少しだけきょとんとした顔で、シズキの目を見ていた。
「空。綺麗だったから」
聞かずとも分かる答えだったが、シズキは「そう」と頷いて振り返った。ルキの座る手摺りに寄り掛かり、一緒になって空を見上げた。その様子を見たルキもまた、視線を空へと戻す。
木々の頭上に広く広がる空は、夜の空気と朝の空気を混ぜ合わせた色だった。まだ暗い青の中に、赤がじんわりと滲んでいる。白いはずの雲にもその色が照らし出されていて、不思議な模様が描き出されていた。
「何してたの」
しばらく空に見入っていると、今度はルキから声を掛けられた。振り返らなくても声の位置で彼女がまだ空を見上げたままだと分かったので、シズキも振り返らずに口を開く。
「お互い様じゃないかな」
返事は無かった。というより、まだ待っていた。何も言わずに、ただルキはシズキの答えを待っていたのだ。無言の圧力が降り掛かり、シズキは降参したように肩を竦める。
「ちょっと用事があって出掛けてただけだよ」
嘘ではない。表情も視線も変えないまま、答える。
「少し遠い所まで行ってたから、帰りが遅くなっちゃったけど」
話している間に、空の色はどんどんと変わっていく。雲が風に流されて、ぐるぐると模様は描き直されている。やがて一筋の光が見えたと思ったら、すぐにその光は強さを増していって直視できなくなった。
くるりと振り返りルキを見上げると、彼女も空を見上げるのを止め、視線をこちらへと向けていた。
「そういうルキは、なんでこんな朝早くに?」
「目が覚めたから」
今度はあっさりと答えが返ってきた。多分何も隠してはいないだろうし、ただの事実なんだろう。くすりと笑って、溜息を吐いて見せる。
「風邪引くよ。もう中に入ろう」
そう言って扉までの階段に足を掛けた所で、もう一度声を掛けられる。
「あのさ」
足を止めてルキを見ると、今度のルキは太陽の位置から少しずれた場所の空を見ていた。つまりシズキにはルキの後ろ姿しか見えなかった。
「なんか、もうすぐ帰ってくるような気がしたから。目が覚めたんだと思う」
だからルキが今どんな表情をしているのかは分からなかった。
「おかえり」
何度か瞬きを繰り返して、何度も言葉の意味を頭の中で考え直して。何度もルキの表情を想像して。
「ただいま」
じんわりと暖かいものを感じながら、そう返していた。

+++++
25分

CrossTune

ある日の平凡な日常

静かな森の中の少し開けた場所は、周囲に木が多い茂っていて空は丸く切り取られ、まるでどこかの闘技場のようだった。観客は、いない。
その空間にヒュンと短い風切り音が響いた。
一度だけではなく二度、三度。
その音に混じって軽い足踏みの音も聞こえる。
じり、と地面を強く踏み込む音がして、次の瞬間にはより一層大きな、地面を蹴る音が響いた。
そんな音も、景色も、霧氷の耳にも、目にも届いていなかった。
彼の目に入るのは目の前にいる男の姿のみ。聞こえる音は男の動きが発する微かな空気の揺れだけ。
飛び込んだ速度は霧氷の方が早かった。躊躇の欠片もない目で男を睨みつけ、右手に握る刀を大きく薙ぐ。完全に男を斬り裂いたように見えた。
だがその切っ先はほんの僅かに届いておらず、男を何一つ傷つけることなく空中で静止した。
届かなかった訳ではない。
わざとギリギリの距離で避けていた。
むっとした顔で霧氷が口を開こうとするよりも先に、男の方が口を開いた。
「惜しい、けど不正解」
霧氷に顔を向けながらも目を閉じている男の声は笑っている。霧氷は表情を堅くしたまま男をじっと見ている。
「あんなに大きく薙ぎ払わなければ当たっていたかもしれない」
「どうせ避けますよね」
「だから言ってるでしょ、”かもしれない”、って」
霧氷があからさまに悔しそうに唇を噛むのを見て、一層男は楽しそうに笑った。
「どうせ避けるって思ってて、どうやって人が殺せる?」
男が目を開いて霧氷を見据える。
声も表情も笑っているが、目だけは凍てついたアイスブルー。一瞬、霧氷の身が強ばった。
その一瞬で男は一気に距離を縮めた。まるで腕と一体化しているかのように持っていた細長い棒は、霧氷が刀を振るう速度よりもずっと早く空を切る。すんでのところを霧氷は避けるが、それはさっき男がやって見せたような余裕のあるかわし方には到底及ばないギリギリのものだった。歯を食いしばりながらバランスを保とうとするが、それを許す男ではなかった。
さっと身体を沈めた男を見て、霧氷はとっさに刀を構える。太陽の光がキラリと反射し男の目に差し込む。しかしそれすら見えていないかのように棒はまっすぐに霧氷へと向かう。ガツンと鈍い音がして一瞬だけ刀と棒が交差した。そしてそれは本当に一瞬で終わり、次に見えたのは宙をくるくると回り飛んでいく刀だった。トスッと軽い音がして、霧氷の背後の地面に刃が食い込んだ。
振り返る間などない。続く三撃目は霧氷の右肩の関節を的確に、そして容赦なく撃ち付けた。声を上げる間もなく吹き飛ばされ地面に転がる。すぐに立ち上がれないところを見ると、ダメージは見た目以上に大きいようだった。左腕一本で身体を支え起き上がるのを男は見守るように眺めていたが、その口元が不意に笑みの形を作る。立ち上がった霧氷は左手で右肩を押さえており、その右肩からはだらりと力なく右腕が垂れ下がっていた。
「きー君、まだやる?」
笑いながら男はそう訊ねた。霧氷の足は少しふらついていて、顔はすっかり険しくなっていたが、男を睨み付ける目は少しも変わっていなかった。
「やる」
返事を聞いて、嬉しそうに男は棒を振り上げた。
やる、そうは言っても、霧氷には男の攻撃を防ぐ手段はもう残っていなかった。刀までの距離と男までの距離、走る速度、どう考えも間に合わない上に、間に合ったところで刀を握れるような手ではなかった。
容赦のない攻撃を避けられたのは二撃目までで、三撃目はこめかみを直撃した。勢いよく飛ばされ再び地面に転がった霧氷だが、まだ立ち上がろうと左腕を動かしていた。その首元にゴンと棒が当てられる。
「終わりかな」
霧氷が見上げると、にっこりと笑う男が見下ろしていた。
「まだ…」
「最初に言ったよね。これは棒じゃなくて、刃物だと思え、って」
ぐっと力が込められ、首元が棒に強く押される。これがもし霧氷の使っていたような刀だったら、とっくに動脈が切られている。その前に、右腕は断ち切られているし顔が半分なくなっていた。
悔しそうに霧氷がギリリと歯を鳴らすと、男はあははと笑いながら棒を自分の肩に担ぐようにして持ち上げ、一歩下がった。その様子を見て霧氷もゆっくりと起き上がる。足を投げ出したまま左手で首元を触ると、その手にはうっすらと赤が滲んでいた。男の持つ棒は何の変哲もない棒だったが、一瞬太陽の光にキラリと光ったように見えた。
「肩、動かないでしょ」
今までのやり取りが何一つなかったかのように男は霧氷の元へと歩み寄る。対する霧氷もまた、何もなかったかのように男に向かって頷いた。
男は霧氷の隣に屈み込み彼の肩の様子を見る。そしてすぐに両手に力を込めた。バキッと音がして霧氷は顔をしかめたが、男は至って涼しい顔だった。
「覚えた?ここ狙えば案外すぐ外れる」
ぽんと右肩を叩き、男は立ち上がる。恐る恐るといった具合で霧氷が肩に力を入れると、ぎこちなくもすんなりと動くようになっていた。
「今度試してみます」
霧氷も男の隣に並んで立ち上がった。
「きー君は生き延びそうな感じで根性あるね」
棒で自分の肩をぽんぽんと叩きながら、男は笑いながらどこかを見つめた。
「あー君の方が根性はあるんだけど、あいつは最後まで飛び込んでいくからすぐ死にそうだ」
男の言葉に、霧氷は苦笑いを返すだけだった。
「起きたら適当に宥めておいてよ」
「嫌ですよ面倒くさい。季雪さんが面倒見てくださいよ」
「やだよ俺だって面倒くさいんだから」
笑いながらそう言う横顔に見えた瞳がすっと冷えきっているのを見て、霧氷はそれ以上何も言わなかった。
男が、季雪が面倒くさいなどと思っていない事などはどう見ても明らかだった。

CrossTune

collapsed sweet

「チョコ、欲しい人ー??」
 やけに明るい声が部屋に響いた。各々作業をしていた二人は揃って顔を上げ、そしてきょとんと首を傾げた。あどけない笑顔でこちらを見ている人物の手には、両手持ちの鍋。
「チョ…コ…?」
 ひとまず浮かんだ疑問は、彼女の言葉と所持品との不一致。中身は見えないがどう見てもチョコレートの雰囲気ではない。眉を顰め、青年の方がまず口を開いた。
「ミユ、料理したのか」
 疑問というより詰問である。しかしミユと呼ばれた女性は動じることなく満面の笑みでウィンクをしてみせる。
「料理じゃなくてお菓子作り」
「もっと危険だと思う…」
 ぼそりと呟いたのはげんなりとした顔の少年。青年は無表情だったが、少年の方はすっかり顔が青ざめている。恐る恐る彼は立ち上がると、そっと鍋の中をのぞき込んだ。茶色い、液体。香りは確かにチョコレートである。
「え…っと、これで、完成形…?」
「完成にしようと思ったんだけど、これからどうしたらいいのか分からなくなっちゃって…、どうすればいいと思う?」
「それ聞く前に言って欲しかったです」
 間髪入れずに少年は息を吐いた。もぉ、と頬を膨らます彼女の顔は可愛らしいと形容できるが、容姿と中身は別問題である。鍋の中のドロドロのチョコレートは、次第に固まりつつある。
「あのさ、これってチョコ溶かしただけ?」
 鍋に手を伸ばしながら少年は問い掛けた。意外とすんなりと鍋は手渡され、少年の手元に移る。覗き込んでみた限りでは、チョコレート以外の物質は入っていないように、見える。
「そう、溶かしただけ。鍋にチョコ入れて火に掛けただけだから」
「あ、じゃあ焦げてるね」
「えっ、そんなぁ!」
 ミユの顔には悔しさと落胆とが浮かんでいる。少年にとっては苦笑しか出ないやり取りだがまぁ一応嫌いではない。満更でもないのだ、意外と。椅子に腰掛けたままの青年は何を思っているのか分からないが無表情のままこちらを見ている。安心している訳ではなかろう。
「どうにかしてみるから、待ってて」
 少年は鍋を少し持ち上げると、ミユに向かって笑って見せた。少しだけ彼女の表情が緩んだ。

「ごめんね、はーちゃん」
「別に」
 少年の姿がキッチンに消えた後で、ミユは小さく呟いた。
「二人に贈りたかっただけなの」
「分かってる」
 やがてキッチンからはチョコレートの甘い香りが漂ってくる。

 文字で当てはめるならぺたぺたではなかろうかという足音が聞こえる。聞こえると嬉しい反面、転ばないか不安になる足音。少年はすぐに振り返った。思った通りの小さい姿がそこにはあった。両手を背中に回して、にっこりと笑う。
「おにーちゃん、ぷれぜんと!」
 まっすぐに目を見上げて笑う少女に思わず少年の頬が緩むが、ふと考えて首を傾げる。今日は誕生日でもなければクリスマスでもないし、何か特別なことをした覚えもない。見に覚えがないプレゼントという単語に不思議そうに少女を見ていると、にこっと悪戯に笑い、少女は両手を目の前に出した。その手には綺麗な紙で包まれた何か。少年はますます首を傾げた。
「なーに?これ」
 少女の目線に合わせて身を屈め、優しい声で問いかけた。分かっていないという事を怒られるかもしれないと思ったが、どうやらそれは杞憂だったらしい。少女はサプライズの種明かしをするかのようにVサインをして見せた。
「あのねっ、きょう、ばれんたいんっていうひなんだって!おかーさんがいってたの。だいすきなひとにおかしをあげるひなんだって」
 嬉しそうに、楽しそうに、少女はそう言いながら少年の手に“プレゼント”を渡した。紙のくしゃりという音に混じって、がさっと中身が動く音がした。小さくて固い物が複数入っているような音で、重量はさほど感じない。少年の直感が正しければクッキーといったところだろう。少しだけ意外なサプライズを遅れてじわじわと実感した少年は、思わずにっこり笑って少女の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。少女はくすぐったそうに目をつむる。
「ありがと、これ俺が貰ってもいいの?」
「うんっ、だってだいすきなんだもんっ」
「そっか、ありがと。俺も大好きだよ」
 ぎゅうっと抱きしめると、まだ小さい少女はくすくすと嬉しそうに笑いだした。少年もつられて声を出して笑う。

「ところでこれ、じゅんが作ったの?」
 クッキーを口に運びながらふと素朴な疑問を浮かべた。少女が料理をしている光景は今のところまだ見たことがない。目を向けると、丁度少女もクッキーに手を伸ばしているところだった。
「んーん、おかーさんがつくってくれた!」
「あっ、…そっか」
 そりゃそうだよな、と思いつつ、それでも少年は嬉しそうに三枚目のクッキーを口に運んだ。

「さて、今日は何の日でしょう」
 やけににこやかな声が二人の耳に届いた。にっこりと笑った表情を見上げても、あぁまたかくらいにしか思わない程度の仲にはなっている。目線だけで何?と聞き返す少女に、興味深そうに見上げる少年。結局最初の少年に対する答えが出てこないまま、部屋はシーンとした。
「答えてくれてもいいじゃない」
「だって意図が分かんない」
「誕生日?」
「それだったら分からなくないでしょ」
 少しだけ苦笑を浮かべて少年は、そっとテーブルの上に丸い皿をおいた。盛り付けられているのはチョコレートケーキ。三人分には丁度良い大きさのワンホールだった。きょとんとしたまま、少女は彼を見上げた。
「………何?」
 心当たりがない。暦を思い返し、今日の日付を脳裏に書き出す。正確には心当たりが無くもないのだが彼からの問い掛けとしては少々違和感がある。
「もしかしてバレンタイン?」
 先に口を開いたのは座っていた方の少年だった。ケーキを映す目がキラキラと輝いている。テーブルの横に立ったままの少年は、にっこりと笑った。
「うん」
「男なのに?」
「そこ気にしなくても良いじゃない…。大事な人に贈らせてよ」
 少女の辛辣なつっこみに少年は苦笑し、困ったように頭を掻いた。2月14日、バレンタイン。大切な人にチョコレートを贈るというイベントだが、女性から男性に贈るのが一般的だと聞いていた。少女は怪訝そうに表情を顰めた。
「そういう趣味だったんだ…」
「ねぇ、もう少し素直に喜んでくれないかなぁ」
「俺は嬉しいよっ、ケーキ貰えるんでしょ?」
 少しだけ空気が重くなった残念なやり取りの後、少年の弾んだ声が響いて場の空気は緩んだ。まあ、そうだけど、と少女が呟く。何だかんだ言って甘いものが好きな二人である。サプライズのケーキが嫌な訳がない。
「よかったら、お茶にしようか」
「うんっ」
 昼下がりのティータイム。そう言えば三人がこの時間に揃うことはそう多くない。言葉に出さずとも、どうやらそれは三人に共通する感情だったらしい。一緒に過ごすだけで、こんなにも楽しい。

「あっ、あのさ」
 お茶を淹れようと踵を返した少年に向かって投げた少女の声は、思ったよりも大きくなっていた。びくっとした少年二人が少女を振り返る。途端、パタパタと少女は自分の部屋へと走っていってしまった。突然の行動に意味を理解できず顔を見合わせる二人の元に、思ったより早く戻ってきた少女は何かを力任せに押しつけた。二人がそれぞれ手元を見ると、それは小さな箱だった。一瞬だけ理解が遅れるが、思い付いた結論は会話の流れ上間違ってはいないと思われた。
「お、女の子が、男の子に贈る日だって、聞いてたから」
 真っ赤になった少女はすっかり顔を俯かせている。再度顔を見合わせた少年たちは打ち合わせすることなくにっこりと笑い、そして。
「……っ?!」
 声にならない声を上げて、少女は状況を理解できずに二人を見上げた。ぎゅっと、両側から抱き締められている。
「ありがとう。僕も大好きだよ」
「俺の方が好きだって!ありがとっ」
 少女の顔は真っ赤になったまま、完全に動作を停止させている。少年二人は、おかしそうに笑ったままその腕を離そうとはしなかった。

「好きなんて、言ってない」
 少女がようやく絞り出した言葉は、二人には通じない嘘だった。

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