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HUM A TUNE

 行きつけの楽器店の地下に備えられている少し狭いレコーディングスタジオ。良心的な値段で貸切る事が出来、思う存分演奏が出来る数少ない場所である。自前の楽器を持ち込む事も、店の――正確には店長の私物を借りる事も可能。これで利用者が殺到しないのは、恐らく店長の人柄の所為だろう。面倒見は良いが何事においても大雑把で適当。好かれやすいが嫌われやすい、と言ったところだろう。店に立ち寄るのは毎回のように店長と話し込む常連ばかりだった。
 スタジオに置かれたキーボードに手を乗せ、目を閉じて深呼吸。五拍の間の後に目を開いた峻は、誰も知らない、自らの脳内だけに存在しているメロディを奏で始めた。静かに、時に激しく。学生としてキャンパスに通っている時は決して誰にも見せていない表情。隠したい訳ではない、単にここが特別な場所なのだ。
 終息へ向かうメロディは次第にその速度を落とし、静かにアルペジオを重ねて終了した。数秒の空白の後、パチパチと乾いた音がスタジオに響く。怪訝そうに振り返った峻の目には、扉の枠に寄り掛かってこちらを見ているこの楽器屋の店長の姿が映った。ここでもう一度峻は眉を顰める。店長といえど、客がスタジオを使用している間は地下に降りてくる事、ましてやスタジオ内に入ってくるなど今まで一度も見た事が無かった。
「なんて曲?」
 峻の不信感を知ってか知らずか、店長はそう声を掛けてきた。
「…考えていない」
「譜面は?」
「無い」
 いかにも不機嫌、といった声で問い掛けに答える。しかし相手には全く詫びの表情など表れておらず、逆に興味深そうに笑みを浮かべるばかりだった。
「何か用があるのか?」
 店に戻ろうとする気配を見せない店長に、つい峻は尖った声を向けていた。仕方ない、自分の安息の時間を邪魔されてしまったのだから。峻の声に、店長は笑う事を止めた。数秒峻の様子をまじまじと観察し、そしてにやりと笑った。
「閉店時間」
「……え」
 集中していると時間を忘れる、それは峻がよく指摘される癖のようなものだった。邪魔になるからという理由で外していた腕時計に目をやると、時計の針はこの店の閉店時間をとっくに通り越していた。閉店時間が来たから店長が呼びに来たのではなく、閉店時間になっても帰る様子がないから呼びに来たのだと、この時になって漸く峻は気付いた。手早く荷物を片付け始める。
「悪い。すぐ出る」
「気にすんな、こっちは気にしちゃいねぇから」
 相変わらずアバウトな性格の持ち主である。定められた開店時間及び閉店時間は店の入り口にも記載されているが、それ通りに店が開かれる事も閉められる事も珍しい。閉店時間が遅くなる原因の多くは今日の峻のように利用客にあるのだが。
 荷物を纏め終え、スタジオを出ようとした時。ふと店長が口を開いた。
「なぁ、さっきの曲。譜面に起こしてくれねぇ?」
「…何故?」
「何故って…、気に入ったから。書いてくれりゃ今日の使用料、それで良いから」
 きょとんとした目で店長を見た。普段よりも少しだけ真面目に見える今の表情から察するに、どうやら冗談を言っているつもりはないらしい。正気だろうかと訝しむと同時に、少しだけ感じる正体の分からない高揚感。何度か瞬きを繰り返した後に、漸く峻は口を開く事が出来た。
「そんなもので良いのか」
「そんなものって思ってねぇから良いんだよ。んじゃ交渉成立」
 くすくすと声を上げながら笑う店長の表情は、心底嬉しそうだった。思わず峻も息を吐いて笑った。

「そうそう、」
 まだ笑ったままの店長は話題を切り替えた。もしかしたら彼は単に世間話をしに来ただけなのかもしれないと峻は思った。人付き合いは得意な方ではないが、嫌いという訳でもない。初めてこの店に訪れた時はバイト生にも関わらず客そっちのけでドラムを叩いていた彼を好ましいとは思えなかったが、店に通う内、会話を繰り返す内にどうやらすっかり慣れてしまったようである。呆れる事はあるが咎める事はない。バイト生だった彼はいつの間にか店長へと昇格していた。
「例の“歌姫”、拾われたらしいよ」
 途端に峻の表情が変わった。驚きと焦燥と少しだけの安堵が混ざった複雑な表情。変化を眺めていた店長はやはり楽しそうに笑ったままである。
「この間本人から連絡あって。ギターの出来る奴が拾ったらしいから安心しとけ?」
 からかうような笑みを向けられてもそれが彼の表情だから今更気にはしない。彼の話にはやたら比喩が多い事も以前よりは気にならなくなってきた。意味は凡そ見当が付く。
 歌姫―――、たまたま通り掛かった地下通路で下手くそなギターと共に歌声を奏でていた見知らぬ人物を称した呼び名。見当はあるかと店長に訊ねたのはかれこれ一月程前の事である。“歌姫”と名付けたのは店長だがいつの間にか峻もその呼び名を使うようになっていた。本名も素性も見知らぬ人物、他に呼びようが無かったのだ。しかし当然違和感はある、姫と称せるだけの歌声は持っているが対象は自分と同じ年頃の少年。
「そうか…」
 短い返事を溜息混じりに呟いた。気には掛けていたがそれだけだ。どうやらいつの間にか知り合っていたらしい店長にも、“歌姫”の詳細を聞いてはいない。跡を追うつもりも今後を模索するつもりも無い。ギターが出来る奴、の点にだけは心底安堵したが、それで充分。今だって何も思っていない、筈だ。峻の表情を観察していた店長は、ふっと小さく笑った。
「気になんねぇの?」
「何が?」
「一目惚れして気に掛けてた相手が見知らぬ奴に取られた、とか思うと思ったんだけど」
「それは無い」
 店長はニヤニヤとからかうように笑い、峻の返事に声を上げて笑った。「冗談だよ」と言うも、本人はそれを冗談だとは思っていないのだろう。以前真顔で「音を好きになるのは人を好きになるのと同じだから」と言っていた人物だから。“あいつに惚れた”という言葉は、彼にとっては“あいつの「音」に惚れた”という意味になる。一つ息を吐き、峻は荷物を持ち上げた。
「帰る?」
「あぁ」
「なんか用事ある?」
「あぁ」
 同じ言葉で二度返事をすると、なんだそっかと残念そうな声が返ってきた。首を傾げ、視線だけで理由を問い掛ける。峻の動作を理解したのか、店長は小さく笑った。
「今夜、例の二人と飲みに行くんだけど。予定無いならはっしーも誘おうかと思って」
「………。俺はまだ未成年だが」
「安心しろ、あいつらも未成年だ」
「それは安心出来ないだろう」
「酒は飲まねぇって事だよ」
 呆れたように見ると、呆れたような笑いが返された。酒好きを豪語する彼だから「飲み」と言われればアルコールを連想するのも無理はない。本当に大丈夫だろうかと、ほんの少しだけ気に掛けておく事にした。因みに、あだ名で呼ぶ事に許可を与えた覚えは無い。
「来たかった?」
 興味本位の目で、訊ねられる。
「いや、別に」
 首を振るが、表情は少しだけ笑っているという自覚はあった。ただの興味だが、“歌姫”と話をしてみたいと思わなかった訳ではない。どんな事を考えて音を奏でているのか、聞いてみたいとは思っていた。きっとその表情を察したのだろう。楽しそうに笑ったままの店長は、ぽんと峻の肩を叩いた。
「ま、次暇な時にでも。また誘うから」
「…あぁ」
 三度目の同じ返事。しかしそれは違いの分かりづらい、嬉しさの混じった声だった。

 地下のスタジオを後にし、店舗へと戻る。閉店後の店らしく照明は薄暗い。ガラス窓から見える外の景色は真っ暗闇だった。峻は一直線に出入り口である扉へと足を進めた。その後ろを店長が着いていく。この店長は出口まで客を見送る事はあっても「有り難うございました」とは言わない。自分に対してだけなのかと思っていたが、どうやら店に来る客全てに対してこの対応をしているらしい。きっと彼に商売人としての才能はゼロである。峻は扉を開けた。
「譜面、宜しく」
「分かった」
 双方の簡潔な二言で、店は閉店した。扉が閉まり、「Close」と書かれたプレートが減速しながら揺れる。本日の閉店時間は記載された閉店時間の約一時間半オーバー。プレートの動きが治まり、明かりの消えた店の奥に向かって峻は小さく吹き出して笑った。忘れないよう小さな声でメロディを呟きながら帰路を歩く。タイトルも歌詞もまだ何もない、けれど確かに自分の中に存在しているメロディライン。
 足取りが少しだけ、軽かった。