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お題:ゆりかご

少年はいつからかずっと不機嫌だった。
理由はとても簡単で、少年の母親が、少年を遠ざけ始めたからだった。
遊んで貰おうと駆け寄ると「だめ」と言われ、散歩に行こうと声を掛けると「お父さんと行ってきて」と言われる。
父親のことは嫌いではない。けれど、ずっと母親とも散歩に行きたいのだ。
その事を父親に言っても、やはり「だめ」と言われるのは少年の方だった。
そんな日々が、もう1年近く続いていた。
母親の様子が段々と変わっていく事に、流石に少年も気付いていた。

少年にとっての大事件が起きたのは、そんな矢先の事だった。
母親が苦しげに倒れ込み、父親は慌てて外へ出て行き、そして少年の知らない男の人と女の人を連れてすぐさま戻ってきた。
一体何が起きているのか少年には全く理解ができず、しかし子供ながらにも分かる緊迫した空気に、誰に聞く事もできず、ただ事態が治まるのを待つ事しかできなかった。
それはそれは長い時間だった。
やがて突然、見知らぬ声が聞こえ始める。
今までの母親や父親の叫び声よりもずっとずっと大きな泣き声で、しかしどこかほっとするような、そんな不思議な声だった。

家中がまたいつも通りの静けさを取り戻した頃、男の人と女の人は家を出て行った。少年の父親に2人は見送られ、女の人は少年に微笑み、男の人は少年の頭を撫でていった。それがどういう意味なのか、少年にはまだ分からなかった。
2人の姿が見えなくなった頃、少年の父親は少年と目の高さを合わせるように屈むと、ゆっくりと話し始めた。
「心配掛けてしまったね。何が起きてたのか、分からなかっただろ」
優しい目に、少年は少し涙ぐみながら頷く。
怖かったのだ。母親がどこか遠くへ行ってしまうのではないかという、不安に押し潰されそうで。
父親はぽんぽんと少年の頭を撫でると、おいで、と言って母親のいる部屋へと少年を促した。

そこにいたのは、母親だけではなかった。
母親のいるベッドの隣には小さなかごが置いてあり、母親は優しい目でその中を見ている。
少年がそっと近付くと、母親はにっこりと笑い、少年にかごの中を見るよう視線で伝えた。
意味も分からないまま少年がかごの中を覗き込むと、中には、小さな小さな命が眠っていた。
ぎゅっと閉じた目、手。
きっとあの泣き声は、この子のものだ。
そう少年にも分かった。
「じん君は、お兄ちゃんになったんだよ」
母親の声が少年に届く。
言葉の意味が分からず、少年は疑問符を浮かべながら母親を振り返った。
母親に遠ざけられていた時にも少年は何度かその言葉を聞いていたのだが、意味を考える事もしていなかった。それよりも、母親に構ってもらないイライラの方が強かったのだ。
「”お兄ちゃん”ってかっこいい?」
少年は、初めてその意味に興味を持った。
「うん、すごーくかっこいいよ」
母親の声が、弾むように答える。
ゆったりと流れる時間に、少年の不機嫌はどんどんと薄らいでいく。
「この子は、じん君の妹」
母親が、かごの中を見ながらそう言う。
「いもうと?」
「そう。かわいいでしょう?」
母親がそっと”妹”の手を撫でると、微かにその小さな手が動いた。
真似して少年も手を撫でてみる。すると、微かに小さな指が開かれ、きゅっと少年の指を握り締めた。
驚いて少年が母親を振り返ると、嬉しそうに笑う母親と、そして同じ表情の父親がいるのが見えた。
もう一度、少年は”妹”の顔を覗き込む。
まだぐっすりと眠っていて少年の事は見ていないが、指だけはきゅっと握ったまま。
「……かわいい」
少年はそう、頷いていた。

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30分