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タグ: 流黄

お題:祝うその2

「誕生日おめでとう」
そうにこやかに言われて手渡されたのは、小さな袋だった。
口を赤いリボンで結んだ桃色の袋。
咄嗟にどう行動すればいいのかが分からなかったルキは、しばらくその袋を見つめているだけだった。
「……いらないの?」
返事もなく行動もないルキに首を傾げたシズキはそう訊ねた。
袋から視線を外し、ルキは彼へと疑問を込めた視線を向ける。
「なんで、今日なの?」
ルキはこの家に来る以前のことを覚えていない。
いつどこで生まれたのかも何一つ。
そんな彼女が、今日が誕生日だと言われてすぐに納得できるはずがなかった。
「確かに、アレに書いてあったのを自分の名前だと思ってるし、それが名前なんだったら一緒に書いてあった日付も誕生日かもしれないよ。でも、正しいかどうかなんて分からないじゃん」
ルキの名前自体も、本当の名前であるのかどうか定かではない。
身に付けていたプレートに書かれていた字のようなもの、それを名前としているのだ。
生まれた時から持っている名前だとは、彼女は思ってはいなかった。
「なんでシズキは、これが誕生日だって思うの?ただの数字かもしれないのに」
少しだけ疑いを込めて、少しだけ責めるように、プイと視線を逸らして流黄は言った。
シズキの表情は彼女には見えなかったが、いつもの困ったような笑顔であろう事は確信していた。
「うーん。じゃあ、ルキの誕生日がそれじゃないとしたら、いつが誕生日なのか分からなくなっちゃうね」
やっと返ってきた答えは一見正論のようで、しかしルキの問いに対する答えには全くなっていなかった。
え、と声を出す間も置かずにシズキは続けた。
「そうだ、それならルキがここに来た日を誕生日にしようか。あ、でもそれだと今日じゃなくなっちゃうね。パーティとプレゼントはまた今度だなぁ」
「えええ!ケーキお預け!?食べられると思ったのに!!」
突然響き渡った声はシュンのものだった。悲痛な叫び、という言葉がよく似合う。
「だって誕生日じゃないみたいだから。それにどっちみちシュンの誕生日ではないよ」
「ねえルキ、今日じゃ駄目なの?どうしても駄目?プレゼントも用意したんだよ!」
シズキの声を盛大に遮ってシュンはルキへと駆け寄る。
当然、困惑したのはルキの方だった。
疑問はあるが、否定しきる程の理由を持っていない。可能性は僅かでもあるのだから。
「だ、ダメって、わけじゃ、ないけど」
途切れがちのルキの言葉に、シュンの表情はあからさまに変わっていた。
「じゃあ今日にしよ?今日がいいよ!ね、ケーキ食べよう!」
「う、うん」
一体今日が誰の誕生日であるのか、ルキ本人が一番分かっていなかった。
「じゃあ決まりだね」
一連のやり取りを見ていたシズキは、最後にそう言って笑った。
疑うのもバカらしくなるような、この家。
「なんかすごく言いくるめられた気がするんだけど」
ぼそりと呟いたあとに、ま、いっか、とルキは思い直すことにした。

+++++
20分

CrossTune

お題:ムラサキ

「何してるの」
手摺りに腰掛け足を揺らす影をしばらく眺めてから、そうシズキは声を掛けた。本当はもっと前に家の中へと入る予定だったのだが、ぼんやりと空を眺める姿の邪魔をしたくなかった。
シズキの声に気付いて、ルキは視線を空から降ろしてきた。どうやら近くまで寄っていた事に全く気が付いていなかったらしい。少しだけきょとんとした顔で、シズキの目を見ていた。
「空。綺麗だったから」
聞かずとも分かる答えだったが、シズキは「そう」と頷いて振り返った。ルキの座る手摺りに寄り掛かり、一緒になって空を見上げた。その様子を見たルキもまた、視線を空へと戻す。
木々の頭上に広く広がる空は、夜の空気と朝の空気を混ぜ合わせた色だった。まだ暗い青の中に、赤がじんわりと滲んでいる。白いはずの雲にもその色が照らし出されていて、不思議な模様が描き出されていた。
「何してたの」
しばらく空に見入っていると、今度はルキから声を掛けられた。振り返らなくても声の位置で彼女がまだ空を見上げたままだと分かったので、シズキも振り返らずに口を開く。
「お互い様じゃないかな」
返事は無かった。というより、まだ待っていた。何も言わずに、ただルキはシズキの答えを待っていたのだ。無言の圧力が降り掛かり、シズキは降参したように肩を竦める。
「ちょっと用事があって出掛けてただけだよ」
嘘ではない。表情も視線も変えないまま、答える。
「少し遠い所まで行ってたから、帰りが遅くなっちゃったけど」
話している間に、空の色はどんどんと変わっていく。雲が風に流されて、ぐるぐると模様は描き直されている。やがて一筋の光が見えたと思ったら、すぐにその光は強さを増していって直視できなくなった。
くるりと振り返りルキを見上げると、彼女も空を見上げるのを止め、視線をこちらへと向けていた。
「そういうルキは、なんでこんな朝早くに?」
「目が覚めたから」
今度はあっさりと答えが返ってきた。多分何も隠してはいないだろうし、ただの事実なんだろう。くすりと笑って、溜息を吐いて見せる。
「風邪引くよ。もう中に入ろう」
そう言って扉までの階段に足を掛けた所で、もう一度声を掛けられる。
「あのさ」
足を止めてルキを見ると、今度のルキは太陽の位置から少しずれた場所の空を見ていた。つまりシズキにはルキの後ろ姿しか見えなかった。
「なんか、もうすぐ帰ってくるような気がしたから。目が覚めたんだと思う」
だからルキが今どんな表情をしているのかは分からなかった。
「おかえり」
何度か瞬きを繰り返して、何度も言葉の意味を頭の中で考え直して。何度もルキの表情を想像して。
「ただいま」
じんわりと暖かいものを感じながら、そう返していた。

+++++
25分

CrossTune

like and dislike or love and hate

「~♪」
 風の流れに乗って微かな旋律が聞こえてくる。外は晴れ、しかし屋内は暗い。それが日常。そんな塔の一室には、確か朝から真鈴が引きこもっていたような気がする。近くを通り掛かった時にふと思い出し、特に用事があった訳ではないが、少しばかりの好奇心で秦羅はその部屋を覗き込んだ。ふわりと漂う、甘い香り。
「やぁぁっと来てくれたわね」
 覗き込むと同時に振り返ってきた真鈴とばっちり目が合う。声は呆れているようにも、歓迎しているようにも聞こえた。こっそりと様子を見るつもりだった秦羅は思わずどきりとしたが、両腕を腰に当て笑いながらこちらを見てくる真鈴にすぐに観念する。きょろきょろと部屋を見回しながら足を踏み入れた。
「何してるの」
「バレンタイン。知ってる?」
「………、聞いたことある」
 真鈴が問い掛けながら首を傾けると、高い位置で結ばれた長い髪がさらりと揺れた。髪を一つに纏めている姿は、実はあまり珍しいものではない。普段は髪を降ろしている事の方が多いが、食事や、今のように菓子類を作っている時は邪魔にならないよう括っているのだ。そしてそんな姿を、秦羅はよく見ていた。
「聞いたことあるレベルなのね…。ね、秦ちゃんも一緒に作らない?」
 秦羅の答えを聞いた真鈴は小さく肩を竦め、そしてにっこりと笑った。というより、元々そのつもりだったのではなかろうか。そうでなければ第一声の意味が繋がらない。視線だけでテーブルを指すと、そこにはこれから焼かれるであろう生地と、既に焼き上がって粗熱を取っている段階のクッキーが沢山並べられている。
「作ってもあげる人いないし」
「そういうこと言わないの。あげ甲斐のあるやんちゃ坊主はいるんだから。それに峻君にあげたらいいじゃない」
「嫌」
「もぉ」
 即答。真鈴は峻が好きで、秦羅は峻が嫌い。連日何かとこの話題で話をしているから今更とやかく言う事でもない。好きな相手を嫌いと言われる真鈴としてはあまり楽しくないのかもしれないが、それは嫌いな相手の話題を振られる秦羅も同じだった。しかし「あげる人いない」とは言いながらも、クッキーを作ること自体は嫌ではないらしいようで。
「形、どうやって作ってるの?」
 秦羅はまだ形の出来ていない生地を見て、そして真鈴を見やった。

 用意されていた生地は全て使い切り、テーブルの上は焼き上がったクッキーだけになる。オーブンの中の様子をじっと見つめる秦羅の後ろで、真鈴はカチャカチャと音を立てながら使った道具類の片付けをしていた。それもまた日常。普段この調理場を活用しているのは真鈴だけで、作業に手慣れているのも真鈴だけ。期待していないと言えば聞こえは悪いが、秦羅が進んで片付けを手伝ってくれるとは思っていなかった。真鈴は何も言わず、秦羅の様子を片目に手を動かし続けた。
 やがてオーブンの熱気に当てられたのか秦羅は顔を離し、そして真鈴の方へと振り返る。その頃にはとっくに洗い物は終わり、真鈴は手にした最後の道具を綺麗に拭き上げている所だった。
「あ…ごめん」
「いいのいいの。焼けてそう?」
「うん。大丈夫だと思う」
 そんなやり取りを終え、休憩とティータイムを兼ねたお茶を淹れ、二人は椅子に腰掛けた。目の前には甘い香りを放つクッキーが置かれており、つい手を伸ばしそうになる。秦羅がじっとクッキーを見つめていると、くすりと笑って真鈴の手がクッキーへと伸びた。
「味見、してみる?」
 差し出されたクッキーを一枚手に取り、秦羅は無言で頷いた。
 テーブルの周りに置かれている椅子は五つ。今は空いている三つの椅子には、普段は烈斗や臣が腰掛けていることが多い。稀に、ふらりと立ち寄っていく雨亜が座っていることもある。調理場と同じスペースにあるこれらは、休憩スペースとして使われることもあるが大体が真鈴の作った食事を食す場である。ただし、峻やシーズがここに訪れているところは見たことがない。真鈴は部屋をぐるりと見て、そして視線を秦羅へと戻した。
「どう?」
「……、普通」
「素直に美味しいって言いなさいよ」
 ピンと秦羅の額を人差し指で弾き、真鈴は大袈裟に溜め息を吐いて見せた。むっと頬を膨らます秦羅が、本気で怒っている訳ではないことくらいお見通しなのだ。クッキーを一枚摘み、真鈴は自分でも口に運んだ。バターの香りと風味、柔らかな甘み、それらがゆっくりと口の中へと広がっていく。

 籠いっぱいに出来上がったクッキーは、量が量だけに全てを包むことなど出来ない。そこで渡す分だけ包装し、残りはこのテーブルに置いておこうという事になった。そうすれば、臣も、作った本人である真鈴や秦羅も摘むことが出来るし、包装した分だけでは満足しないであろう烈斗も喜ぶだろう。透明なシートでクッキーを数枚包み、更にそれを少しだけ光沢のあるピンク色の紙で包む。リボンでもあればもっと良かっただろうが、生憎手元にはなくくるりと口を捻るだけの簡単なもので包装は完了した。出来上がった包みは四つ。
「峻君にあげてシーズにあげないのも、あんまり気乗りはしないけど可哀想だものね」
 そう言う真鈴に、秦羅は心底嫌そうな顔を浮かべてみせるのだった。
「烈はすぐ見付かりそうだからいいけど、峻君とシーズは今日中に外に出てきてくれるかしら。出来れば直接渡したいんだけどねぇ、シーズにはあまり頼みたくないし。雨亜君は………見掛けた時で良いかしら」
 包みを軽くつつきながら真鈴はそう呟く。行動パターンを把握している、などと大層なことは言えないが、塔も閉鎖的な空間ではある。大体いつ頃どこに出没するかという程度であればなんとなく分かってきてしまうものだ。真鈴の様子を見ながら、ふと思い付いたように秦羅は口を開いた。
「真鈴ってさ、雨亜の事好きなの?」
「は?」
 あんまりにも唐突な秦羅の問い掛けに、真鈴は素っ頓狂な声を返してしまう。きょとんと首を傾げる秦羅に、真鈴はぽかんとすることしか出来ない。何せ調理中から今の今まで散々峻のことを話していたというのに、というか秦羅と出会った時から延々峻が好きだと言ってきているというのに、この切り返しは一体なんだろう。呆れを通り越して「意味不明」とでも言いたげに真鈴は秦羅を見た。
「秦ちゃん、私の話今までちゃんと聞いたことなかったの?」
「え、だって…」
 問い返されたことを不思議に思ったのか、うーんと秦羅は首を捻る。
「峻の事すごい好きなんだってのは耳タコなくらい知ってるけど」
「悪かったわね」
「で、烈斗はあげないと拗ねるだろうし、シーズはなんか嫌味言ってきそうだから分かるんだけど。雨亜って別に、あげなくても良くない?欲しかったとか言ってきそうにもないし」
 淡々とそう繋げる秦羅に、真鈴はやがて息を吐いて笑った。この子ともっとずっと話をしていたい、そう思いながら。
「秦ちゃん。バレンタインにはね、義理チョコっていう、とりあえずあげとこうっていう風習もあるの。雨亜君一人にあげないのも可哀想じゃない。…ううん、別に可哀想だからあげるってわけでもないんだけど…なんて言うのかしら、いつもお世話になってます、みたいな感じかしら」
「お世話になってるんだ」
「そんな雰囲気っていう例え話よ」
「ふぅん」
 どことなく腑に落ちないといった顔ではあるが、否定的では無さそうだった。真鈴は気付いているし、秦羅にも自覚はあった。真鈴が持っている感情の何かを、秦羅は持っていない。完全に欠落しているのか、ただ不足しているだけなのかは分からない。ただ、今はそれが二人の会話をすれ違わせているのだった。
 そして二人は気付いていなかった。部屋の外の丁度死角になっている所、帽子を深く被った青年が動くに動けず、不機嫌そうに立ちすくんでいることに。

 立ち上がった秦羅はふと、怪訝そうに手に取ったクッキーの包みを見つめた。じっと見つめるその様子に真鈴は首を傾げる。やがて秦羅は小さな声でぼんやりと、
「なんか、すっごい昔に、作ったことあるような気がする…」
とだけ、呟いた。その後に続く言葉はなかったし、真鈴も意味を問うことはしなかった。代わりに真鈴は少しだけ寂しそうな顔をして、そしてふわりと笑った。
「さぁて、配りに行くわよ」

CrossTune

cold wind

 ヒュウ、と。冷たい空気が流れた。つられるようにカサカサと音を立てる木の枝を、歩みを止めた左翊は見上げた。
 この世界のどこかに居るであろう少女のように風の声を聞く事は出来ないが、この風がどのような風であるかくらいは判別できる。冷たい北風は冬の訪れ。風量はそよぐ程度、時折少しだけ強まり小枝を揺らす。どこにもおかしい点などないはずなのだが、自然に流れる風とはどことなく違うような気がして、首を傾げる。辺りに人の気配はなかった。気に留めるほどのことではなかったかもしれない。しかし一度気になると暫くは気を紛らわす事の出来ない性格である。珍しい好奇心だったのかもしれない。左翊は風の流れてくる方、風上へと足を進めた。
 ぶわりと、マフラーを揺らす風が強く左翊にぶつかった。その途端、身を震わせる程の冷気。ひんやりという生半可な言葉で表現するには物足りない程の冷たさが、露出した肌の部分の体温を一気に奪った。思わず両腕をぎゅっと握るが、あまり効果はなさそうである。身に感じる冷たさを和らげる事を諦め、ふと顔を上げた左翊の目に一つの影が映った。どうやら、風の”発生源”はここで間違いないようだ。左翊の目の前には、ひらりと薄手の服を翻す少女が立っていた。彼女の周囲をくるくると風が周り、風に触れた空気中の水蒸気が凍り、そして雪となって舞っている。風に乗ってふわりと飛んできた雪の欠片が、左翊の頬に触れた。触れた途端に感じる冷たさと引き替えに欠片は消えてしまう。後ろ姿を眺めてみるが、少女はまだこちらに気付いていない。そっと、彼女に近付いた。
「寒い」
 風を操る為にか上げられていた少女の左手を、掴み上げると左翊はそう呟いた。掴んだ手が驚く程冷たく、体温も感じず、思わず離しそうになるのをそっと堪える。言葉と行動で、ようやっと少女は左翊に気付いたようだった。ビクリと肩を震わせると、おずおずと振り返ってきた。薄い茶色の髪に、同色の瞳。驚いているのか睨まれているのか分からない視線には、まだ幼さを感じた。彼女の意識がこちらに向くと同時に風が止み、やはり彼女がこの風の原因だったのだと確信を得る。こちらを見てくるだけで、少女は何も言葉を発しない。この冷たい手を握り続けていたら、いつか温かくなるのだろうか。その前に、自分も冷たくなるのだろうか。不意に、左翊の脳裏にはそんな考えが過ぎった。

「…触らないで」
 どれくらい動作を止めていただろうか。先に動いたのは少女の方だった。パシンと左翊の手を払うと全身でくるりと左翊に向き直り、キッと睨み付ける。顔の作りのせいか険しさを感じない少女の表情には、どこか戸惑いに似たものが見えた気がした。
「私、冷たいんだから」
 ぼそりとそう言うと少女は、ぷいと顔を逸らしてまた全身でくるりと背を向けた。そしてそれ以上何も言わず、どこかへと立ち去ってしまった。少女と共に風は走り去り、やがて少しだけ暖かいような気がする風が吹き込んでくる。これはきっと、いつもの北風。後ろ姿も見えなくなった頃に、左翊は払われた右手をそっと降ろした。すぐに追えば追いつけたであろう少女のスピードに、しかし左翊は追い掛ける気にはなれなかった。追い掛ける理由がある訳でもない。ただ、戸惑ったような少女の表情と、「冷たい」という言葉が、妙に頭に残った。

CrossTune

collapsed sweet

「チョコ、欲しい人ー??」
 やけに明るい声が部屋に響いた。各々作業をしていた二人は揃って顔を上げ、そしてきょとんと首を傾げた。あどけない笑顔でこちらを見ている人物の手には、両手持ちの鍋。
「チョ…コ…?」
 ひとまず浮かんだ疑問は、彼女の言葉と所持品との不一致。中身は見えないがどう見てもチョコレートの雰囲気ではない。眉を顰め、青年の方がまず口を開いた。
「ミユ、料理したのか」
 疑問というより詰問である。しかしミユと呼ばれた女性は動じることなく満面の笑みでウィンクをしてみせる。
「料理じゃなくてお菓子作り」
「もっと危険だと思う…」
 ぼそりと呟いたのはげんなりとした顔の少年。青年は無表情だったが、少年の方はすっかり顔が青ざめている。恐る恐る彼は立ち上がると、そっと鍋の中をのぞき込んだ。茶色い、液体。香りは確かにチョコレートである。
「え…っと、これで、完成形…?」
「完成にしようと思ったんだけど、これからどうしたらいいのか分からなくなっちゃって…、どうすればいいと思う?」
「それ聞く前に言って欲しかったです」
 間髪入れずに少年は息を吐いた。もぉ、と頬を膨らます彼女の顔は可愛らしいと形容できるが、容姿と中身は別問題である。鍋の中のドロドロのチョコレートは、次第に固まりつつある。
「あのさ、これってチョコ溶かしただけ?」
 鍋に手を伸ばしながら少年は問い掛けた。意外とすんなりと鍋は手渡され、少年の手元に移る。覗き込んでみた限りでは、チョコレート以外の物質は入っていないように、見える。
「そう、溶かしただけ。鍋にチョコ入れて火に掛けただけだから」
「あ、じゃあ焦げてるね」
「えっ、そんなぁ!」
 ミユの顔には悔しさと落胆とが浮かんでいる。少年にとっては苦笑しか出ないやり取りだがまぁ一応嫌いではない。満更でもないのだ、意外と。椅子に腰掛けたままの青年は何を思っているのか分からないが無表情のままこちらを見ている。安心している訳ではなかろう。
「どうにかしてみるから、待ってて」
 少年は鍋を少し持ち上げると、ミユに向かって笑って見せた。少しだけ彼女の表情が緩んだ。

「ごめんね、はーちゃん」
「別に」
 少年の姿がキッチンに消えた後で、ミユは小さく呟いた。
「二人に贈りたかっただけなの」
「分かってる」
 やがてキッチンからはチョコレートの甘い香りが漂ってくる。

 文字で当てはめるならぺたぺたではなかろうかという足音が聞こえる。聞こえると嬉しい反面、転ばないか不安になる足音。少年はすぐに振り返った。思った通りの小さい姿がそこにはあった。両手を背中に回して、にっこりと笑う。
「おにーちゃん、ぷれぜんと!」
 まっすぐに目を見上げて笑う少女に思わず少年の頬が緩むが、ふと考えて首を傾げる。今日は誕生日でもなければクリスマスでもないし、何か特別なことをした覚えもない。見に覚えがないプレゼントという単語に不思議そうに少女を見ていると、にこっと悪戯に笑い、少女は両手を目の前に出した。その手には綺麗な紙で包まれた何か。少年はますます首を傾げた。
「なーに?これ」
 少女の目線に合わせて身を屈め、優しい声で問いかけた。分かっていないという事を怒られるかもしれないと思ったが、どうやらそれは杞憂だったらしい。少女はサプライズの種明かしをするかのようにVサインをして見せた。
「あのねっ、きょう、ばれんたいんっていうひなんだって!おかーさんがいってたの。だいすきなひとにおかしをあげるひなんだって」
 嬉しそうに、楽しそうに、少女はそう言いながら少年の手に“プレゼント”を渡した。紙のくしゃりという音に混じって、がさっと中身が動く音がした。小さくて固い物が複数入っているような音で、重量はさほど感じない。少年の直感が正しければクッキーといったところだろう。少しだけ意外なサプライズを遅れてじわじわと実感した少年は、思わずにっこり笑って少女の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。少女はくすぐったそうに目をつむる。
「ありがと、これ俺が貰ってもいいの?」
「うんっ、だってだいすきなんだもんっ」
「そっか、ありがと。俺も大好きだよ」
 ぎゅうっと抱きしめると、まだ小さい少女はくすくすと嬉しそうに笑いだした。少年もつられて声を出して笑う。

「ところでこれ、じゅんが作ったの?」
 クッキーを口に運びながらふと素朴な疑問を浮かべた。少女が料理をしている光景は今のところまだ見たことがない。目を向けると、丁度少女もクッキーに手を伸ばしているところだった。
「んーん、おかーさんがつくってくれた!」
「あっ、…そっか」
 そりゃそうだよな、と思いつつ、それでも少年は嬉しそうに三枚目のクッキーを口に運んだ。

「さて、今日は何の日でしょう」
 やけににこやかな声が二人の耳に届いた。にっこりと笑った表情を見上げても、あぁまたかくらいにしか思わない程度の仲にはなっている。目線だけで何?と聞き返す少女に、興味深そうに見上げる少年。結局最初の少年に対する答えが出てこないまま、部屋はシーンとした。
「答えてくれてもいいじゃない」
「だって意図が分かんない」
「誕生日?」
「それだったら分からなくないでしょ」
 少しだけ苦笑を浮かべて少年は、そっとテーブルの上に丸い皿をおいた。盛り付けられているのはチョコレートケーキ。三人分には丁度良い大きさのワンホールだった。きょとんとしたまま、少女は彼を見上げた。
「………何?」
 心当たりがない。暦を思い返し、今日の日付を脳裏に書き出す。正確には心当たりが無くもないのだが彼からの問い掛けとしては少々違和感がある。
「もしかしてバレンタイン?」
 先に口を開いたのは座っていた方の少年だった。ケーキを映す目がキラキラと輝いている。テーブルの横に立ったままの少年は、にっこりと笑った。
「うん」
「男なのに?」
「そこ気にしなくても良いじゃない…。大事な人に贈らせてよ」
 少女の辛辣なつっこみに少年は苦笑し、困ったように頭を掻いた。2月14日、バレンタイン。大切な人にチョコレートを贈るというイベントだが、女性から男性に贈るのが一般的だと聞いていた。少女は怪訝そうに表情を顰めた。
「そういう趣味だったんだ…」
「ねぇ、もう少し素直に喜んでくれないかなぁ」
「俺は嬉しいよっ、ケーキ貰えるんでしょ?」
 少しだけ空気が重くなった残念なやり取りの後、少年の弾んだ声が響いて場の空気は緩んだ。まあ、そうだけど、と少女が呟く。何だかんだ言って甘いものが好きな二人である。サプライズのケーキが嫌な訳がない。
「よかったら、お茶にしようか」
「うんっ」
 昼下がりのティータイム。そう言えば三人がこの時間に揃うことはそう多くない。言葉に出さずとも、どうやらそれは三人に共通する感情だったらしい。一緒に過ごすだけで、こんなにも楽しい。

「あっ、あのさ」
 お茶を淹れようと踵を返した少年に向かって投げた少女の声は、思ったよりも大きくなっていた。びくっとした少年二人が少女を振り返る。途端、パタパタと少女は自分の部屋へと走っていってしまった。突然の行動に意味を理解できず顔を見合わせる二人の元に、思ったより早く戻ってきた少女は何かを力任せに押しつけた。二人がそれぞれ手元を見ると、それは小さな箱だった。一瞬だけ理解が遅れるが、思い付いた結論は会話の流れ上間違ってはいないと思われた。
「お、女の子が、男の子に贈る日だって、聞いてたから」
 真っ赤になった少女はすっかり顔を俯かせている。再度顔を見合わせた少年たちは打ち合わせすることなくにっこりと笑い、そして。
「……っ?!」
 声にならない声を上げて、少女は状況を理解できずに二人を見上げた。ぎゅっと、両側から抱き締められている。
「ありがとう。僕も大好きだよ」
「俺の方が好きだって!ありがとっ」
 少女の顔は真っ赤になったまま、完全に動作を停止させている。少年二人は、おかしそうに笑ったままその腕を離そうとはしなかった。

「好きなんて、言ってない」
 少女がようやく絞り出した言葉は、二人には通じない嘘だった。

CrossTune