Press "Enter" to skip to content

タグ: 遊龍

collapsed sweet

「チョコ、欲しい人ー??」
 やけに明るい声が部屋に響いた。各々作業をしていた二人は揃って顔を上げ、そしてきょとんと首を傾げた。あどけない笑顔でこちらを見ている人物の手には、両手持ちの鍋。
「チョ…コ…?」
 ひとまず浮かんだ疑問は、彼女の言葉と所持品との不一致。中身は見えないがどう見てもチョコレートの雰囲気ではない。眉を顰め、青年の方がまず口を開いた。
「ミユ、料理したのか」
 疑問というより詰問である。しかしミユと呼ばれた女性は動じることなく満面の笑みでウィンクをしてみせる。
「料理じゃなくてお菓子作り」
「もっと危険だと思う…」
 ぼそりと呟いたのはげんなりとした顔の少年。青年は無表情だったが、少年の方はすっかり顔が青ざめている。恐る恐る彼は立ち上がると、そっと鍋の中をのぞき込んだ。茶色い、液体。香りは確かにチョコレートである。
「え…っと、これで、完成形…?」
「完成にしようと思ったんだけど、これからどうしたらいいのか分からなくなっちゃって…、どうすればいいと思う?」
「それ聞く前に言って欲しかったです」
 間髪入れずに少年は息を吐いた。もぉ、と頬を膨らます彼女の顔は可愛らしいと形容できるが、容姿と中身は別問題である。鍋の中のドロドロのチョコレートは、次第に固まりつつある。
「あのさ、これってチョコ溶かしただけ?」
 鍋に手を伸ばしながら少年は問い掛けた。意外とすんなりと鍋は手渡され、少年の手元に移る。覗き込んでみた限りでは、チョコレート以外の物質は入っていないように、見える。
「そう、溶かしただけ。鍋にチョコ入れて火に掛けただけだから」
「あ、じゃあ焦げてるね」
「えっ、そんなぁ!」
 ミユの顔には悔しさと落胆とが浮かんでいる。少年にとっては苦笑しか出ないやり取りだがまぁ一応嫌いではない。満更でもないのだ、意外と。椅子に腰掛けたままの青年は何を思っているのか分からないが無表情のままこちらを見ている。安心している訳ではなかろう。
「どうにかしてみるから、待ってて」
 少年は鍋を少し持ち上げると、ミユに向かって笑って見せた。少しだけ彼女の表情が緩んだ。

「ごめんね、はーちゃん」
「別に」
 少年の姿がキッチンに消えた後で、ミユは小さく呟いた。
「二人に贈りたかっただけなの」
「分かってる」
 やがてキッチンからはチョコレートの甘い香りが漂ってくる。

 文字で当てはめるならぺたぺたではなかろうかという足音が聞こえる。聞こえると嬉しい反面、転ばないか不安になる足音。少年はすぐに振り返った。思った通りの小さい姿がそこにはあった。両手を背中に回して、にっこりと笑う。
「おにーちゃん、ぷれぜんと!」
 まっすぐに目を見上げて笑う少女に思わず少年の頬が緩むが、ふと考えて首を傾げる。今日は誕生日でもなければクリスマスでもないし、何か特別なことをした覚えもない。見に覚えがないプレゼントという単語に不思議そうに少女を見ていると、にこっと悪戯に笑い、少女は両手を目の前に出した。その手には綺麗な紙で包まれた何か。少年はますます首を傾げた。
「なーに?これ」
 少女の目線に合わせて身を屈め、優しい声で問いかけた。分かっていないという事を怒られるかもしれないと思ったが、どうやらそれは杞憂だったらしい。少女はサプライズの種明かしをするかのようにVサインをして見せた。
「あのねっ、きょう、ばれんたいんっていうひなんだって!おかーさんがいってたの。だいすきなひとにおかしをあげるひなんだって」
 嬉しそうに、楽しそうに、少女はそう言いながら少年の手に“プレゼント”を渡した。紙のくしゃりという音に混じって、がさっと中身が動く音がした。小さくて固い物が複数入っているような音で、重量はさほど感じない。少年の直感が正しければクッキーといったところだろう。少しだけ意外なサプライズを遅れてじわじわと実感した少年は、思わずにっこり笑って少女の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。少女はくすぐったそうに目をつむる。
「ありがと、これ俺が貰ってもいいの?」
「うんっ、だってだいすきなんだもんっ」
「そっか、ありがと。俺も大好きだよ」
 ぎゅうっと抱きしめると、まだ小さい少女はくすくすと嬉しそうに笑いだした。少年もつられて声を出して笑う。

「ところでこれ、じゅんが作ったの?」
 クッキーを口に運びながらふと素朴な疑問を浮かべた。少女が料理をしている光景は今のところまだ見たことがない。目を向けると、丁度少女もクッキーに手を伸ばしているところだった。
「んーん、おかーさんがつくってくれた!」
「あっ、…そっか」
 そりゃそうだよな、と思いつつ、それでも少年は嬉しそうに三枚目のクッキーを口に運んだ。

「さて、今日は何の日でしょう」
 やけににこやかな声が二人の耳に届いた。にっこりと笑った表情を見上げても、あぁまたかくらいにしか思わない程度の仲にはなっている。目線だけで何?と聞き返す少女に、興味深そうに見上げる少年。結局最初の少年に対する答えが出てこないまま、部屋はシーンとした。
「答えてくれてもいいじゃない」
「だって意図が分かんない」
「誕生日?」
「それだったら分からなくないでしょ」
 少しだけ苦笑を浮かべて少年は、そっとテーブルの上に丸い皿をおいた。盛り付けられているのはチョコレートケーキ。三人分には丁度良い大きさのワンホールだった。きょとんとしたまま、少女は彼を見上げた。
「………何?」
 心当たりがない。暦を思い返し、今日の日付を脳裏に書き出す。正確には心当たりが無くもないのだが彼からの問い掛けとしては少々違和感がある。
「もしかしてバレンタイン?」
 先に口を開いたのは座っていた方の少年だった。ケーキを映す目がキラキラと輝いている。テーブルの横に立ったままの少年は、にっこりと笑った。
「うん」
「男なのに?」
「そこ気にしなくても良いじゃない…。大事な人に贈らせてよ」
 少女の辛辣なつっこみに少年は苦笑し、困ったように頭を掻いた。2月14日、バレンタイン。大切な人にチョコレートを贈るというイベントだが、女性から男性に贈るのが一般的だと聞いていた。少女は怪訝そうに表情を顰めた。
「そういう趣味だったんだ…」
「ねぇ、もう少し素直に喜んでくれないかなぁ」
「俺は嬉しいよっ、ケーキ貰えるんでしょ?」
 少しだけ空気が重くなった残念なやり取りの後、少年の弾んだ声が響いて場の空気は緩んだ。まあ、そうだけど、と少女が呟く。何だかんだ言って甘いものが好きな二人である。サプライズのケーキが嫌な訳がない。
「よかったら、お茶にしようか」
「うんっ」
 昼下がりのティータイム。そう言えば三人がこの時間に揃うことはそう多くない。言葉に出さずとも、どうやらそれは三人に共通する感情だったらしい。一緒に過ごすだけで、こんなにも楽しい。

「あっ、あのさ」
 お茶を淹れようと踵を返した少年に向かって投げた少女の声は、思ったよりも大きくなっていた。びくっとした少年二人が少女を振り返る。途端、パタパタと少女は自分の部屋へと走っていってしまった。突然の行動に意味を理解できず顔を見合わせる二人の元に、思ったより早く戻ってきた少女は何かを力任せに押しつけた。二人がそれぞれ手元を見ると、それは小さな箱だった。一瞬だけ理解が遅れるが、思い付いた結論は会話の流れ上間違ってはいないと思われた。
「お、女の子が、男の子に贈る日だって、聞いてたから」
 真っ赤になった少女はすっかり顔を俯かせている。再度顔を見合わせた少年たちは打ち合わせすることなくにっこりと笑い、そして。
「……っ?!」
 声にならない声を上げて、少女は状況を理解できずに二人を見上げた。ぎゅっと、両側から抱き締められている。
「ありがとう。僕も大好きだよ」
「俺の方が好きだって!ありがとっ」
 少女の顔は真っ赤になったまま、完全に動作を停止させている。少年二人は、おかしそうに笑ったままその腕を離そうとはしなかった。

「好きなんて、言ってない」
 少女がようやく絞り出した言葉は、二人には通じない嘘だった。

CrossTune

Evening 7 7

 今日は多分、珍しい日だったのだと思う。
 同居人の二人の帰りが遅いというのは、朝方に聞いた事だった。一方は普段通りだが、珍しいのはもう一方。不思議に思い理由を訊ねると、地域のイベントに参加するだとか付き添いを頼まれただとか。困ったような、嬉しそうな表情を見て、涼はあぁと納得した。そういえば今日は年に一度の祭りがある日だ。存在は知っていたが日付の感覚が少々間違っていたらしい、まだ先の事だと思い、何の予定も組んでいなかった。
 聞き流すように頷いていて、そしてその表情がどうやら酷くつまらなさそうにしていると映ってしまったのだろうか。予定帰宅時刻が通常通りであるもう一人の同居人からメールが来たのは、昼休み時間の事だった。内容は軽い心配と、誘い。メールを開いた涼は、思わず溜息混じりに笑ってしまった。直接彼に原因は無いというのに、いちいち律儀だなぁと思わざるを得ない。しかし周囲に「楽しそう」と指摘されるくらいには、自分の表情は崩れていたらしい。OKの返事をし、そして待ち合わせ場所と時間を決める。送られてきた場所は既知の公園で、時間は18時半。

 待ち合わせ時間よりも少し早く到着してしまい、ぼんやりとベンチに座る。思えばこうやってゆっくりと空を見上げるのは久し振りのような気がする。まだ明るい空である。雲を見上げたまま、思わず身体を倒しそうになった。斜めに傾けたまま固定、不自然な格好で思わずメロディを呟きそうになる。恐らく数秒の時間が、不思議な事に数分の時間に感じる錯覚。
 不意に携帯が着信を告げた。急速に戻ってくる現実に非現実を感じる。それがなんだか無性に勿体無くて、目に入った同居人に対して理由のない八つ当たりをぶつけてしまう事になった。
「遊、何やってんの、おっそい!」
「ユウ君、こっち!」
 ぶつけてしまったのだが、その少しだけ棘の入った言葉はすぐ後ろから聞こえた柔らかい声に中和された。同時に発せられた言葉、そしてワンテンポだけ遅れて気付く言葉の一致に、涼は思わずきょとんとした。視線の先にいる同居人の姿はまだ少しだけ遠い。涼はほんの少しの興味で声の主へと振り返った。目が合った。穏和という言葉がよく似合いそうな青年は、にっこりと笑って会釈をしてきた。どうやら彼も一致した言葉に気付いていたようである。笑顔につられて涼も会釈を返した。
「ご、ごめん涼、待った…?」
 心配そうな声が背後から聞こえ、涼は振り返る。叫ばれて思わず走ったのだろう、少しだけ息を切らした遊は、不安そうにこちらの様子を伺っていた。何気なく見た携帯のディスプレイには18時半の文字。時間通りの到着に、彼を責める要因は何一つ無い。それに一瞬だけ発生した苛立ちは、偶然を共有したあの笑顔にすっかり掻き消されている。
「ううん、待ってない」
 でも謝るのは好きではないから。ついさっきの自分の発言は対しては言及しない事にした。矛盾する言葉に首を傾げられているが、細かいことは気にしないでいてくれる彼である。涼が立ち上がると遊は既に息を整えていて、出発の準備は整った。
 小さな出来事を、なんだか忘れる事がないような気がする。そう思っていたらどうやら感情は表情に出ていたらしく、「どうかした?」と声を掛けられた。それを涼は軽くかわしてくすくすと笑う。
「なんか、良いことありそうな気がするんだ」
 首を傾げたままの遊を置いて、涼は足取り軽く歩きだした。

Jump into the Sideway

Sing a Song for…

 この時期になると毎年聴くようになる、定番のクリスマスソングが流れている。特にクリスマスに強い思い入れがある訳ではないが、気分は自然と高揚しているのだろう。遊の口から、響きを知っている部分だけのフレーズが零れた。生憎英語詞を空で全て言える程、聞き込んではいないし英語も得意ではない。ついでに言うと歌詞に込められた意味も、申し訳ないが理解してはいない。
 隣から、同じメロディラインに乗せた言葉が聞こえた。ふと振り向くと、見知った顔と声。目が合うと愉快そうに、しかしメロディは停止させずににっかり笑った。思わず遊は吹き出し、そして彼に合わせて音程を変えた。歌詞が分からない部分はリズムだけ、歌詞が分かる部分も両者の歌詞は一致しないから、結局ずっとちぐはぐな歌のままだった。
 恋人たちのクリスマス、だなんてよく言うけど、そんなもの無くたって十分だ。そう言っていたのは隣の彼だ。唄が恋人の彼だって十分、恋人たちのクリスマス、なんじゃないかと遊は思った。
 パンと弾けた噴水は、クリスマス用にアレンジされたウォーターショー。思わずメロディを止め、魅入る。純粋に“凄い”と感じている遊の隣、きっと彼の頭の中では新しいメロディと詞が生まれているのだろう。口ずさんでいるリズムは遊の知らないものだった。

 クリスマスイベントはやがて歌へと変わる。伸びやかなハーモニー、高音と低音。食い入るように見つめ、聞き入っていた迅夜はやはり唐突にぼそりと呟く。
「あの人たちも歌ってるのかな」
 声量は独り言、しかし“誰か”へと向けられている。何もない空中を見上げてはいるが、その目は何かを探している。
「山下さん、ほんっとお気に入りですよね」
 個人名を出していないにも関わらず、迅夜が指しているのが誰なのかあっさり見当が付く。分かり切っている事を、敢えて遊は呆れたように笑って言った。自分の“お気に入り”よりもずっとずっと深く気に入っている事は誰が見ても一目瞭然だった。
「だって好きなんだもん」
 ふわりと笑った顔は、心底幸せそうだった。きっと彼には唄の他にも恋人がいるんだと、遊はぼんやりと思った。
「…って、仕事中だったらどうするんですか」
 おもむろに携帯電話を取り出した迅夜にぎょっとし慌てて遊は制止する、が、それしきの言葉で止まってくれる人ではなかった。
「ん?留守電に入れとく」
 ニッと笑った表情。始めからそのつもりだったのかもしれない。「メーワク」と呟いた遊も、既に吹き出したあとだった。コール音を聞いているのか応答メッセージを聞いているのか、暫く黙り込んだ迅夜はやがて口を開く。

「メリークリスマス。ね、歌って?」

Jump into the Sideway

first…

 声の入っていないメロディラインが静かに流れている。微かに入ってくるコーラスは、きっとアーティストの裏声だろう。まるで二人の別人のようだと感心する。曲調はあまり好まないものではあったが、目を付けておくのも悪くないだろうと思う。テンポが落ち、ボリュームが下がる。もうすぐインストルメンタルを含めた全6曲が終了する。ケースを手に取り、表と裏を交互に眺める。アーティストの写真ではない、デザイン重視のジャケット。図柄が好みで購入を決めたものの、あまりに懲りすぎている為だろう、曲名もアーティスト名も一目見ただけでは分からない。崩されたフォントで書かれたアルファベットの羅列を辿ってみたが、それらの内どれが曲名なのか、アーティスト名なのかの判別も難しい。裏側にも抽象的なイラストが描かれているだけで、どうやら中身を開かなければタイトルは分からないという造りらしい。机に置かれていた付箋を一枚剥がし、CDケースにぺたりと貼り付ける。音楽が止まり、回転音すらも沈黙した。実物を見ずに音だけでそれを確認すると、机に重ねていたCDケースに手を伸ばし―――しかしその手前、光と振動だけで着信を知らせる携帯電話に気付き、動作を止めた。音楽に音を重ねることを好まないので、この携帯が音を持つのは外出時くらいのものである。CDケースよりも簡単に開く画面を数秒見つめ、あぁと気付く。まだ見慣れているとは言い難い、最近知り合った人物の名。しかし用件の方は容易に想像出来、何気なくひとつ頷いてから通話ボタンを押した。
「もしも―――」
『あ、ロンちゃん?なんかあった?』
 自分の声を盛大に遮り、主語述語と言った文法を一切無視した大声に、思わず携帯を耳から離した。この手の電話が掛かってくるのはもう4回目になるだろうか。未だに、最初から耳を離しておけば良かったと思ってしまう。来週こそはと、カレンダーを眺める。来週も同じ時間帯に携帯が鳴るということは分かりきっているのだ。
「今週は今の所……うーん、ストライクってのはないです。ちょっと目を付けてみようかと思ってるのが1枚。あと2枚残ってますけど。山下さんの方は?」
『こっちも微妙かなぁ。好みってのはあるんだけどストライクってのは中々……。俺もあと1枚残ってるんだけど』
「え、まだ聴き終わってないのに電話してるんですか?珍しい……」
『んー、申し訳ない程度にコレ好みじゃなくて』
 声音は薄く苦笑いである。受話口から流れてくるメロディラインに耳を傾け、ふんふんとリズムを取っていた遊は、ふと声を漏らす。
「この曲調、オレ好きですけど」
『え、マジで?』
 少し驚いたような声のあと、アーティスト名とタイトルを告げられる。手近にあった紙にメモを取り、積まれた数枚のCDを眺めてみたが、同じタイトルの物は置かれてはいなかった。その旨を伝えると、弾んだ声で「明日持って行く」と返ってくる。「お願いします」と伝えたあと、今度は遊が、今週の収穫であるCDのタイトルとアーティスト名を伝える。まだ聴けていない2枚を含めて全部で5枚。内訳としてはシングル4枚とアルバム1枚なので、今週の出費は少ない方である。5枚全てがアルバムだった週は財布が悲惨なことになってしまう。伝えた5枚の内、2枚はどうやら相手も持っていたようである。音楽の好みが一致することは少ないが、ジャケットデザインの好みは割と一致することが多い。被った2枚もイラストを使用した物だった。
 
 受話口から聞こえていた音色が変わる。購入したCDを聴き終わってから電話を寄越すのが相手の日課だったが、今日のように、全てを聴き終わる前に電話を寄越すこともある。その時いつも不思議に思うのは、彼は電話口で会話をしながらCDも聴いているという事である。会話の内容も覚えているし、どうやら歌詞も耳に入っているようである。「よく両方聴けますね」と訊ねた所、返ってきた答えは「だって耳って2つあるじゃん」というものだった。時折遊は、彼の言葉をどこまで信じて良いものなのか分からなくなる。

『あ、』
 暫くの無言の後、小さく声が聞こえた。唐突に会話が無くなっていた所為で電話を切るに切れずにいた遊は、携帯を耳に当てたまま机に置かれたCDケースを眺めており、相手のちょっとした変化に気付くのに少し遅れた。ワンテンポ遅れてから、「どうしたんですか?」と声を投げ掛けてみるも、相手が集中しているのであれば声を掛けても返っては来ないだろういうのは分かりきっていた。思った通り相手の声はそれ以降聞こえず、変わりに聞こえてくるのは彼が現在聴いているであろうCDのメロディライン。あぁこの曲が好みだったんだろうな、と遊は思った。遊の持つCDコンポよりも随分と良いものを使っているのだろう、携帯で聴いても分かる程度にクリアな音が聞こえる。加えて、遊の部屋ではこの音量で音楽を聴くことは出来ないので、彼の生活環境というものを少し羨ましく思う。
 メロディラインはやがて終焉へと向かう。嫌いな音ではない。

『この人ら好きかも』
 無音が数秒続いた後、そう声が聞こえた。いくらか弾んでいるこの声は、何度か聞いたことがある。お気に入りを見つけた時の声だ。彼が「曲」と言わず「人」と言うこともその指標である。電話口だった所為もありはっきりとは曲を聴くことが出来なかった遊には、まだ良し悪しを判断出来ない。「誰のですか?」と問い掛けた。
『んー、ん……横文字読めない』
「またですか」
『なんで最近のアーティストって横文字多いンかなぁ』
「山下さんのとこも横文字ですよね」
『俺が決めたんじゃないもん』
 賢いのだか頭が悪いのだかさっぱり判断出来ない相手である。電話越しに曲名やアーティスト名を伝えられる時などは、アルファベットの羅列で伝えられることが多い。メモした遊がその発音を伝えるのである。因みに彼の所属するグループ名は「EncAnoter」。造語であるこの名を付けたのはリーダーだという話はちらりと聞いたことがある。
『えーっとねぇ、……シレン?』
「試練?」
『ん。エス・アイ・アール・イー・エヌ。SとRが大文字』
「あれ、…あ、英単語ですか。あー」
 最初に聞こえた単語を真っ先に漢字へと変換していた遊は、直後に聞こえたアルファベットを急いで紙へと走り書く。出来上がった単語を眺めて、その発音を脳内から探し出して頷く。
「それ多分、サイレンだと思います」
『サイレン?……あぁ、そう読むんだ』
 分かっているのかどうかはさておき、どうやら理解はしたようである。自分よりも7つは年上であるはずの彼の教養レベルには不安に思ってしまう所が多々あるが、恐らく何を言っても改善はされないであろうという事は残念ながらこの一月の付き合いで分かってしまった事である。知力はあるのだが学力がないと言い切っても良い程度だろう。訊ねられた事一つに対して一つ答えていけば一応大問題には発展しない、ハズである。
『ロンちゃんは聴いてない?』
「あー、はい、持ってないです」
『んじゃコレも持ってくわ』
「お願いします」
 二人揃って水曜日にCDを買うのが日課であれば、自然と木曜日は貸し借りのラッシュとなる。固定された就業時間というものとは無縁の世界で働く彼の時間に合わせて、遊は学校帰りに近くの喫茶店へと寄るのだ。電話と同じく、これも明日で4回目になる。
 
『一緒に仕事出来たりしないかなぁ』
「……えらい飛躍しましたね」
『夢は持つモンでしょ』

 彼の言葉に苦笑しながらも、案外叶わない夢でもないんじゃないかなんて思ってしまった遊は、自分に対しても肩を竦めて笑った。早く明日になれと、思わざるを得ない程度に彼らの曲を聴きたいと思っている自分がいるのも、事実なのだった。

Jump into the Sideway