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タグ: 迅夜

雨降り

 雨は辺り一面を打ち鳴らしていた。
 バシャバシャと音を立て、狭い世界中をその音で包み込む。呆然とその様を見つめ続けていると、あっという間に彼らに自分の世界を制圧されたような気がしてくる。実際、されているのかもしれない。
 何もない、冷たい音だけがただただ響いている。
 気持ちいいと。洗われるようだ、と。頭の片隅でそんな言葉がよぎった。その直後に、一体何が洗われるのだと思った。どちらが本心なのか、そもそも今のは自分の言葉なのか、それすらも分からない。自分の言葉であると、認めたくないだけかもしれない。

「何やってんの」
 雨音に支配された世界に唐突に入り込む不協和音。けれどそれは、雨音よりも聞き慣れた声だった。
 走ってきた音は聞こえなかったが、どうやら迅夜もこの雨の中をずぶ濡れになりながら駆け抜けてきたらしい。軽く息を切らし、訝しげにこちらを見ている。それはそうだ。あと数歩で宿の庇の下へ入れるという距離で、雨から逃げる事もせず突っ立っているのだから。走ってきた努力も報われずずぶ濡れになった迅夜は、それ以上の回避を諦めたらしい。目の前に立ったまま、室内に促す事もしなかった。
「何かあった?」
 呆れられているのか、怒られているのか、睨むように見上げ問い掛けてくる時は、大抵返事ができない。今もこうして、声が出ないのだ。そしてそれは、彼も知っているはずで。それでも彼は、事ある毎にそう問い掛けてくる。
「別に。何となく、だ」
 少しだけ目を逸らして、そう呟いた。
 嘘ではない。そういう気分の時もある。ただそれだけだった。何かあったのなら、きっとここには戻ってこない、そんな気もしていた。
「……風邪引いたら仕事できないからね」
「ああ」
「そしたら俺一人で頑張るんだけど」
「……そうだな」
「その後同じだけ俺も休むからね」
「……、……好きにしろ」
 そして同時に溜息を吐いた。
「ってかこれで中入ったら怒られそうじゃん、どうすんの?!」
「お前もどうするつもりだったんだ」
 コロコロと表情を変える迅夜は、まるで子供だ。突然土砂降りの中駆け出して水溜まりで遊びだしても違和感は無い。呆れはするが。それでも極稀に見せる表情がいつも気に掛かって、ただの子供扱いをできなかった。例えばつい今し方のあの表情。あの表情がなければ、とうの昔に彼を置いて一人で逃げていただろう。そう、逃げていた、だろう。
 
 やはり、あれは洗い流していたのかもしれない。逃げ去りたい、消し去りたいという気持ちを。
 雨はまだ降り続いていて、遠のく気配もない。全てを消し去る前にやってきた相方は、やはり自分を消し去る事を許してはくれないのかもしれない。
 それなら今、気付いた今この瞬間に逃げてしまえば ―――
「サイ、中入んないの?」
 背を向けようとしたその瞬間に、宿の扉を開けた迅夜の声がガシリと肩を掴んだ。不思議そうにこちらを見ている彼の目に、他意は無いように見える。
「……、あ、あぁ」
 小さく小さく息を吐き、扉へと足が進む。
 どうやら本当に、逃がしてはくれないようだ。

 歩んだ先、背中でゆっくりと扉が閉まった。

CrossTune一次創作

風花の追想

 外へと足を踏み出した時、ふわりと視界を掠めるものがあった。動作を止め、空を仰ぎ見る。薄暗い曇天から舞い落ちてくるのは、白。彼らはゆっくりと、不規則にふらふらと、ゆらゆらと宙を漂っている。ただ見上げ続けているだけなのに、どこかへと吸い込まれるような感覚を覚えるのが不思議だった。不安定に風に流れるそれを目で追い、左翊はそっと手を差し出した。一粒の欠片が手の平に着地し、そして消えた。
「雪、か」
 誰に宛てる訳でもない呟きが溢れた。白い息にすら揉まれて、途端に雪たちは進路を変える。差し出したままの手の平をするすると抜けていく様子は、まるで掴む事の出来ない幻のようにも見えた。
 シャオク大陸は比較的温暖な地域である。冬になれば冷え込むし、今日のように雪が降る事だってある。しかし一面の銀世界、という景色はそうそう拝めるものではない。地面へと辿り着いた雪は、そのまま静かに消えていく。音のない世界で、左翊は雪の降りしきる様をただじっと眺め続けていた。彼の故郷には、辺り一面が白に染まる季節があった。そして、あの日も白の世界。深紅。
「何してんの」
 不意の声にハッとし何度か瞬きを繰り返し、急速に記憶から引き返す。唐突ではあったが、予想していたよりは随分と遅く声を掛けられた。背後の、室内からの声は相方のものである。扉を開けたままにしていたのだからそのうち何かしらの声を掛けられるだろうとは思っていたが、どうやらしばらく様子を見られていたようである。呆れた声が、すぐ隣にやってきた。そして、
「あ、雪降ってるんだ」
 それは、どこか弾んだようにも聞こえる声だった。左翊の隣に並んだ迅夜は、左翊と同じように空を見上げる。じっと見つめる視線はまっすぐで、何を考えているのかは読めない。同じように、左翊が考えている事を迅夜は読めないのだろう。
 はらりはらりと舞う雪が頬に触れると、ひんやりと熱を奪っていった。引き替えに雪は姿を消す。何度も何度もそれを繰り返し、迅夜も、左翊も、言葉を発することなく身体が冷え込むまで立ち尽くしてた。

「…、そろそろ行く?」
「そうだな」

 雪がやがて小さくなり、少なくなり、そして姿を消していく頃。
 二人は扉を閉め、歩み出した。雲間からは細い光が差し込んでいる。

CrossTune

Somebody Sings for Somebody

 普段なら目の前に居る筈なのは峻一人である。しかし今日は珍しく―――本当に珍しい事に、左翊も目の前に座っていた。
 三人で話す事が珍しい訳でも、喫茶店に三人が集まる事が珍しい訳でもない。組み合わせは何通りかあるが、どの組み合わせでもこの喫茶店は利用している。では何が珍しいのかと言うと、答えはテーブルに広げられた数枚の紙の中にあった。走り書き、言葉の羅列、五線譜にアルファベット。そしてそれらを組み立てたもの。
 迅夜は一枚の紙を手に取ると、さっと視線を斜めに流した。しっかり読み取った訳ではないが、全く読んでいない訳でもない。三回程視線を流すと、紙を持つ手を静かにテーブルへ降ろした。表情は先程から変化無し。峻は無表情に彼の挙動を眺めていたが、隣の左翊はどこか落ち着かない様子で迅夜の手の動きを眺めていた。
「これ」
 一枚目の紙を手にしたまま、迅夜が口を開く。左翊は思わず顔を上げた。
「サイも書いたの?」
 どきりと心拍数が上がったのは、実のところ左翊だけではなく峻も同じ事だった。

サヨナラの詞
込めた別れ
約束は散る
明日また交わすから

スキの言葉
言えないのはあなたの所為だ
ずるい表情
また出会えた奇跡―――?

「――っと、あとここがサイ。…当たり?」
 四色ボールペンの青と緑を使ってフレーズ毎に丸印を付け、迅夜はニッと笑った。全てのフレーズに丸が付け終わる頃には、峻も左翊も複雑な表情で項垂れる他無かった。
「………よく分かったな」
「何年の付き合いだと思ってんの。……なんかあった?」
 作詞や作曲といった曲作りの殆どは普段から峻が手掛けている。作詞であれば迅夜もする事はあるのだが、それが“曲”として成立するか否かは別問題であり、その言い分は九割以上峻の方が正しい。良く言えば独創的である迅夜の詞は、悪く言えばでたらめである。ともかく、それだけなのだ。左翊が今まで曲作り―――取り分け作詞に手を出した事は数少なく、音源として形になったものは一つも無かった。因みに、シングルカットされる曲は作詞者も作曲者も共に表記は“EA”である。アルバム収録曲の時だけ表記を個人名にする、というのは迅夜の気紛れなこだわりだった。
 まだ完成しきってはいない“新曲候補”の曲を再び眺めながら迅夜は答えが返ってくるのを待った。店内に流れる静かなBGMと、カウンターの奥から聞こえるグラスのぶつかる微かな音、そして迅夜が紙を捲る音しか、この場には響かない。待てども待てども二人からの返事はやってこなかった。
 そして曲の始めから終わりまでを四往復したところで、痺れを切らした迅夜が先に口を開いた。
「二人揃ってさぁ、恋してんの?」
 唐突な言葉と同時に、ピシリ、と場の空気が凍った。比喩でも何でもなく凍ったように動作を止めた作詞者二人を眺め、迅夜は呆れたように溜息を溢す。
「歌うの、俺なんだけど」
 一度だけ大袈裟に溜息と吐くと、迅夜は手元の紙面へと視線を落とした。描かれている五線譜のメロディラインに合わせてハミング、あぁでもないこうでもないとリズムを模索。溜息を吐いておきながらも迅夜の表情はどこか楽しげで、あっという間に一人の世界だった。動作が凍ったままの二人の事は完全に放置状態だったが、放っておいても暫くは溶ける気配がなかった。

「んー…、ルキってのは分かるんだけど」
 メロディラインから突然外れ、ぼそりと迅夜は呟いた。前後に繋がりの無い急な物言いは彼の言葉の特徴であり癖であり、欠点である。慣れない人が聞けば話が伝わらないのも無理はない。慣れている左翊や峻だって、不意を突かれる事が多いのだ。個人名が出された事で勢い良く顔を上げたのは峻だった。油断していたのだろう、明らかに目が動揺している。言うならば、“分かり易過ぎる反応”。迅夜はきょとんと首を傾げ、そして悪戯っ子らしい表情で笑った。
「あれ、違うの?」
 彼の疑問形は確信だ。視線はきっちり峻へと向けられている。何も返せずにいる峻の顔はさっと朱に染まり、そしてそのまま為す術無くテーブルに手を付いて目を伏せた。降参である。
「サイのはなぁ…心当たりのある女の子、居ないんだよね」
 白旗を上げた峻から、ターゲットは固まったままのもう一人へと移される。ここにきてようやく左翊は動作を再開させた。
「勘違いだからだろう、それは単に書いてみたくなっただけだ」
「あのねぇ、サイ。歌詞ってのは一番自分が現れる表現方法なの。何となくで書いたもの程、深層心理現してるものはない」
「それはお前の考えだろ」
「…ホントにそう思う?」
 面白そうな玩具を見つけた子供ような目で、迅夜は左翊の顔を覗き込んだ。じーっと左翊の目を見つめ、動きを観察する。不機嫌そうに眉を顰める左翊の瞬きの回数は、平常時に比べて多かった。クスッと迅夜は笑う。
「ま、俺も恋愛してない時に恋愛詞書く事はあるけど。理想?とかそんなので」
 言葉の途中で迅夜は視線を落とし、そして再び五線譜を目で追い始めた。小さくハミングするその様子に、危うく目を逸らしそうになっていた左翊は誰にもバレないよう静かに息を吐いた。

 歌詞の直しもメロディの大きな変更も無かった。基本的に迅夜は、峻が作った曲を頭ごなしに否定はしないし自分の作った曲を否定させない。“歌いたいように”、“演奏したいように”曲を作るのが彼らのモットーである。勿論、三人で演奏する以上軽く文句の一つや二つや三つや四つ出るのは常である。その度に何度も喧嘩腰の言い合いが発生しており、納得するまで喧嘩するのはプラスだ、と迅夜が言ったのはもう大分前の事になる。しかしどうやら今回は、激しい言い合いは発生しないまま終わりに向かいそうである。あとは実際に音を付けた時にどう意見が変わるかどうか次第。迅夜が大きく両手を伸ばして身体を仰け反らせると、峻と左翊は同時に息を吐いた。言い合いは発生しなかったものの、いつになく緊張した曲作りだったと、二人は感じていた。
「んーじゃぁ、あとは明日?空いてるんだっけ」
「明日…いや、明後日の午前からでいいか。明日は空いてない」
「あれ、そうなの?…分かった、勝手に歌っとく。峻は?」
「俺も明日は空いてない」
「………。何それ、二人ともデート?あ、二人でデー」
「「それは違う」」
 二人分の否定に、冗談なのに…とふて腐れる迅夜の声が続いた。バサバサと紙を纏め、半透明のクリアファイルへと仕舞い込む。筆記用具と共にファイルも全て鞄に入れ込むと、テーブルの上はすっかり片付いていた。ぽつんと残された三つのグラスは、どれも空だった。迅夜は鞄を手に持つと、じとっと目前に座る二人を眺めた。
「“それは”って、二人共付き合ってる人居ない癖に」
 ぶすっとした表情のまま、迅夜はそう言って立ち上がった。と同時にガタンとテーブルが音を立てる。おもむろに迅夜が見下ろすと、固まったままの表情で彼を見上げる二人と目が合った。今更気に留める事はない。思わず吹き出した迅夜は、鞄から財布を取りだしひらりと千円札を二枚落とす。
「んじゃ、また明後日。お二人はごゆっくり」
 くすくすと笑いながら財布を鞄にしまうと、迅夜は返事も待たずに店を出ていってしまった。残された二人は暫し呆然と、閉まってしまった扉を眺めていた。

 言いたくない事は言う必要はない、暗黙の了解でこのルールが適用されているEncAnoterであるが、実の所迅夜には、全てがバレているのだ。彼の類稀な、直感という荒技で。

Jump into the Sideway

collapsed sweet

「チョコ、欲しい人ー??」
 やけに明るい声が部屋に響いた。各々作業をしていた二人は揃って顔を上げ、そしてきょとんと首を傾げた。あどけない笑顔でこちらを見ている人物の手には、両手持ちの鍋。
「チョ…コ…?」
 ひとまず浮かんだ疑問は、彼女の言葉と所持品との不一致。中身は見えないがどう見てもチョコレートの雰囲気ではない。眉を顰め、青年の方がまず口を開いた。
「ミユ、料理したのか」
 疑問というより詰問である。しかしミユと呼ばれた女性は動じることなく満面の笑みでウィンクをしてみせる。
「料理じゃなくてお菓子作り」
「もっと危険だと思う…」
 ぼそりと呟いたのはげんなりとした顔の少年。青年は無表情だったが、少年の方はすっかり顔が青ざめている。恐る恐る彼は立ち上がると、そっと鍋の中をのぞき込んだ。茶色い、液体。香りは確かにチョコレートである。
「え…っと、これで、完成形…?」
「完成にしようと思ったんだけど、これからどうしたらいいのか分からなくなっちゃって…、どうすればいいと思う?」
「それ聞く前に言って欲しかったです」
 間髪入れずに少年は息を吐いた。もぉ、と頬を膨らます彼女の顔は可愛らしいと形容できるが、容姿と中身は別問題である。鍋の中のドロドロのチョコレートは、次第に固まりつつある。
「あのさ、これってチョコ溶かしただけ?」
 鍋に手を伸ばしながら少年は問い掛けた。意外とすんなりと鍋は手渡され、少年の手元に移る。覗き込んでみた限りでは、チョコレート以外の物質は入っていないように、見える。
「そう、溶かしただけ。鍋にチョコ入れて火に掛けただけだから」
「あ、じゃあ焦げてるね」
「えっ、そんなぁ!」
 ミユの顔には悔しさと落胆とが浮かんでいる。少年にとっては苦笑しか出ないやり取りだがまぁ一応嫌いではない。満更でもないのだ、意外と。椅子に腰掛けたままの青年は何を思っているのか分からないが無表情のままこちらを見ている。安心している訳ではなかろう。
「どうにかしてみるから、待ってて」
 少年は鍋を少し持ち上げると、ミユに向かって笑って見せた。少しだけ彼女の表情が緩んだ。

「ごめんね、はーちゃん」
「別に」
 少年の姿がキッチンに消えた後で、ミユは小さく呟いた。
「二人に贈りたかっただけなの」
「分かってる」
 やがてキッチンからはチョコレートの甘い香りが漂ってくる。

 文字で当てはめるならぺたぺたではなかろうかという足音が聞こえる。聞こえると嬉しい反面、転ばないか不安になる足音。少年はすぐに振り返った。思った通りの小さい姿がそこにはあった。両手を背中に回して、にっこりと笑う。
「おにーちゃん、ぷれぜんと!」
 まっすぐに目を見上げて笑う少女に思わず少年の頬が緩むが、ふと考えて首を傾げる。今日は誕生日でもなければクリスマスでもないし、何か特別なことをした覚えもない。見に覚えがないプレゼントという単語に不思議そうに少女を見ていると、にこっと悪戯に笑い、少女は両手を目の前に出した。その手には綺麗な紙で包まれた何か。少年はますます首を傾げた。
「なーに?これ」
 少女の目線に合わせて身を屈め、優しい声で問いかけた。分かっていないという事を怒られるかもしれないと思ったが、どうやらそれは杞憂だったらしい。少女はサプライズの種明かしをするかのようにVサインをして見せた。
「あのねっ、きょう、ばれんたいんっていうひなんだって!おかーさんがいってたの。だいすきなひとにおかしをあげるひなんだって」
 嬉しそうに、楽しそうに、少女はそう言いながら少年の手に“プレゼント”を渡した。紙のくしゃりという音に混じって、がさっと中身が動く音がした。小さくて固い物が複数入っているような音で、重量はさほど感じない。少年の直感が正しければクッキーといったところだろう。少しだけ意外なサプライズを遅れてじわじわと実感した少年は、思わずにっこり笑って少女の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。少女はくすぐったそうに目をつむる。
「ありがと、これ俺が貰ってもいいの?」
「うんっ、だってだいすきなんだもんっ」
「そっか、ありがと。俺も大好きだよ」
 ぎゅうっと抱きしめると、まだ小さい少女はくすくすと嬉しそうに笑いだした。少年もつられて声を出して笑う。

「ところでこれ、じゅんが作ったの?」
 クッキーを口に運びながらふと素朴な疑問を浮かべた。少女が料理をしている光景は今のところまだ見たことがない。目を向けると、丁度少女もクッキーに手を伸ばしているところだった。
「んーん、おかーさんがつくってくれた!」
「あっ、…そっか」
 そりゃそうだよな、と思いつつ、それでも少年は嬉しそうに三枚目のクッキーを口に運んだ。

「さて、今日は何の日でしょう」
 やけににこやかな声が二人の耳に届いた。にっこりと笑った表情を見上げても、あぁまたかくらいにしか思わない程度の仲にはなっている。目線だけで何?と聞き返す少女に、興味深そうに見上げる少年。結局最初の少年に対する答えが出てこないまま、部屋はシーンとした。
「答えてくれてもいいじゃない」
「だって意図が分かんない」
「誕生日?」
「それだったら分からなくないでしょ」
 少しだけ苦笑を浮かべて少年は、そっとテーブルの上に丸い皿をおいた。盛り付けられているのはチョコレートケーキ。三人分には丁度良い大きさのワンホールだった。きょとんとしたまま、少女は彼を見上げた。
「………何?」
 心当たりがない。暦を思い返し、今日の日付を脳裏に書き出す。正確には心当たりが無くもないのだが彼からの問い掛けとしては少々違和感がある。
「もしかしてバレンタイン?」
 先に口を開いたのは座っていた方の少年だった。ケーキを映す目がキラキラと輝いている。テーブルの横に立ったままの少年は、にっこりと笑った。
「うん」
「男なのに?」
「そこ気にしなくても良いじゃない…。大事な人に贈らせてよ」
 少女の辛辣なつっこみに少年は苦笑し、困ったように頭を掻いた。2月14日、バレンタイン。大切な人にチョコレートを贈るというイベントだが、女性から男性に贈るのが一般的だと聞いていた。少女は怪訝そうに表情を顰めた。
「そういう趣味だったんだ…」
「ねぇ、もう少し素直に喜んでくれないかなぁ」
「俺は嬉しいよっ、ケーキ貰えるんでしょ?」
 少しだけ空気が重くなった残念なやり取りの後、少年の弾んだ声が響いて場の空気は緩んだ。まあ、そうだけど、と少女が呟く。何だかんだ言って甘いものが好きな二人である。サプライズのケーキが嫌な訳がない。
「よかったら、お茶にしようか」
「うんっ」
 昼下がりのティータイム。そう言えば三人がこの時間に揃うことはそう多くない。言葉に出さずとも、どうやらそれは三人に共通する感情だったらしい。一緒に過ごすだけで、こんなにも楽しい。

「あっ、あのさ」
 お茶を淹れようと踵を返した少年に向かって投げた少女の声は、思ったよりも大きくなっていた。びくっとした少年二人が少女を振り返る。途端、パタパタと少女は自分の部屋へと走っていってしまった。突然の行動に意味を理解できず顔を見合わせる二人の元に、思ったより早く戻ってきた少女は何かを力任せに押しつけた。二人がそれぞれ手元を見ると、それは小さな箱だった。一瞬だけ理解が遅れるが、思い付いた結論は会話の流れ上間違ってはいないと思われた。
「お、女の子が、男の子に贈る日だって、聞いてたから」
 真っ赤になった少女はすっかり顔を俯かせている。再度顔を見合わせた少年たちは打ち合わせすることなくにっこりと笑い、そして。
「……っ?!」
 声にならない声を上げて、少女は状況を理解できずに二人を見上げた。ぎゅっと、両側から抱き締められている。
「ありがとう。僕も大好きだよ」
「俺の方が好きだって!ありがとっ」
 少女の顔は真っ赤になったまま、完全に動作を停止させている。少年二人は、おかしそうに笑ったままその腕を離そうとはしなかった。

「好きなんて、言ってない」
 少女がようやく絞り出した言葉は、二人には通じない嘘だった。

CrossTune

White world

一面の、白。

「すっげぇ…」
 思わず感嘆の声を漏らした迅夜は次の瞬間には相方の眠る布団の上へと飛び乗っていた。
「ね、サイ、雪!雪積もってる!」

 季節毎のなにかしらのイベントの度に人が集まってしまう事にはもう慣れている。呼んだ訳ではないしそう決めている訳でもない、ただの溜り場。だから莅黄は朝起きて外の景色を見た途端に、今日一日が騒々しい日になる事を悟ったのである。何か温かいものを用意しておいた方が良いだろうか、なんて思ってしまう程には彼らが遊びに来るのを期待している自分が居るのも、もう認めてしまっている。あぁでもどうせ暴れるんだろうな、だったらいっそ冷たいものでも用意した方が良いかもしれない。いやでもそれだと暴れない人達が気の毒だろうか。ぐるぐると考え込んでいた莅黄は自分の顔がいつの間にか綻んでいた事に気付かない。

「無理、勘弁」
「なんでですか?莅黄さんが美味しいもの用意して待ってて下さってますよ」
「確実性が無い」
「温かいですよ?」
「そこに行くまでと帰る時に冷える」
「…弱気ですねぇ、らしくない」
「不可抗力には逆らわねぇ主義だ」
「そうでしたっけ」
「大体異常気象を喜べる程の感性は持ってねぇよ」
「“稀少なモノ”、“特異なモノ”が大好きな方が何を言ってらっしゃるんですか」
「…分かったら一人で行ってこいっての」
「分かりませんので黒翔さんが行く気になって下さるまで行きません」
 常々思う、何故この笑顔に逆らえずに行動を共にしてしまうのだろう、と。溜息。似合わないのは百も承知だ、無理なものは無理。外の空気はまるで肌を刺すかのように凍り付いている。

 扉が開くと同時に鳴るベルに、莅黄は顔を上げた。最初に現われるのはどちらだろう、そう思ったのだが答えはそのどちらでもなかった。そして騒動の悪化を覚悟する。
「今日は非番で…。何か温かいものは貰えないか?」
 人を追い返す事の出来ない莅黄でも思わず「帰った方が良い」と言い掛け、しかしそれよりも先にまた、扉が開いた。二対の視線の先にはやはり二対の目、軽く見開いた後に楽しげに細められるのは片方。肩から髪から、もう降っていない筈の白い雪がぱらりと落ちる。
「あれ?うっちゃんも来てたのー?!」
 嬉々とした声に表情を陰らせたのは同席者三名。

「タイミングが悪かったな」
「申し訳ありません…」
「いや、店長が謝る事ではないだろう。どう考えても」
「………はい、…あ、いいえ」
 スローテンポなローテンション。カウンターテーブルの奥に入る莅黄と、どうせなら、と共に入っている役所の受付人。当然莅黄は彼が雑用の手伝いを名乗り出た時点でその提案を断ったのだが、彼曰く、“料理や掃除をしている方が連中の騒動に巻き込まれずに済む”。思わず納得して頷いてしまった莅黄は、役人や受付人と呼ばれながらも一応軍人という肩書きを持つ彼に布巾を握らせる事になってしまった。引き返せぬ今となっては、目前に広がる喧騒から回避する為には致し方が無い、そう思う事しか出来ない。

「だからっ、なんでいっつもいっつも!」
「それはこっちの台詞だっつってんだろうが、ここはお前らの溜まり場じゃねぇっての」
「店長の店はみんなのものでしょ、俺らが居て何が悪いの!」
「だったらこっちが居ても文句言うんじゃねぇよ」
「盗人の癖に!」
「だったら捕まえてみやがれこのガキ」
「……どっちもガキだろ」
「あら、貴方も喧嘩売っちゃうんですか?」
「………。…お前には売らない」
「つれないですねぇ」
 ぎゃんぎゃんと喚く二人の傍らで絶対零度の笑みが空気を凍らす。逆らわない方が良いとは思いつつ、これでも負けず嫌いな部分のある左翊である。結果面倒を引き起こす事になろうとも何もせずに黙っているのも癪で、思わず小さく溜息を吐いた。首を傾けて疑問符を浮かべるような顔をする彼の頭の中にきっと疑問符は存在していない。

 窓の外には静かに白の世界が広がっている。一年を通して比較的温暖な気候であるシャオク大陸に雪が降る事は、そう滅多にある事ではない。中央部に位置するアクマリカも沿岸部に比べ幾分か降雪し易いとは言え、それだけである。降るのは年に一度か二度、積もるのは数年に一度有るか無いか。その数年に一度がどうやら昨夜だったらしい。辺り一面を白に染め上げた雪雲は、次第に風に押し流されていく。太陽が存在を主張し始めると共に、屋根の上の白は地面へと滴り落ち始めていた。
 扉の前に立ったままだった迅夜は、ふと気付いたように口を尖らせた。狭い喫茶店内、視線をぐるりと回してカウンター席に腰掛ける三人とその奥の二人を見やる。
「っていうか何でみんな部屋ん中に居んの?勿体ないじゃん」
 指差す方向は窓の外。店に来る途中の道端でも既に雪を握り締めたり投げたり飛び込んだりと延々はしゃいでいた相方に、いつか言い出すだろうと分かっていた左翊は溜息を零す事しか出来ない。そしてその現場を見ていない四人からも、合わせたように溜息。
「十分騒いだろうが」
「だって積もるなんて滅多に無いよ?」
「だったら一人で行ってこい」
「僕とお役人様はやる事沢山ありますから…」
「どこまでもお子様ですねぇ」
「お前は犬か」
「何、みんなして猫側なの?」
「…、誰が猫だ」
 あからさまに不機嫌な声に、一瞬で空気が変わった。全ての犬猫がそうだという訳ではないだろうが、印象としては犬は外、猫は中。恐らく今の迅夜が本当に犬だったとしたら、千切れんばかりに勢い良く尻尾を振っているに違いない。迅夜の走り回り具合は犬というより寧ろ猪だったが。座ったままの黒翔は、立ったままの迅夜を見上げて睨み付けた。
「もしかして黒翔、寒いの苦手?」
 ニヤニヤと笑みを浮かべながらからかいの声。人の弱点を見つけた時の彼の表情は新しい玩具を見つけた子供のようで言ってしまえばタチが悪い。一瞬で顔色を変えた黒翔は思わず立ち上がり、その瞬間に内心で後悔した。感情を表に出さないよう、見下ろすように迅夜を睨み付ける。
「誰が苦手だって?」
「“黒翔”が、“寒い”のが苦手?だってそうじゃん、誰も外出ないし」
「ほーぉ、俺に苦手があると思ってんのか、上等だ表出ろ」
「苦手な癖に無理しちゃってー、大丈夫?」
「今この場で息の根止めてやろうかこのガキ」
「…黒翔さん、そんなお子様の挑発に乗る事なんて無いですよ?なんなら私が」
「お前は黙っててくれると助かる」
「あら、酷いですねぇ。先に貴方から始末しましょうか?」
「あの…店内で喧嘩はやめて下さい…」
「………これ以上やったらお前ら全員連行するぞ」
 手に鮮やかな赤の光を携える迅夜と、その胸倉を掴む黒翔。互いに己の武器を取り出す左翊と影凜。この光景に見慣れてしまった自分はどうすればいいのだろうかと莅黄は一度本気で役所の受付人に相談した事があった。残念ながら明確な回答はまだ得られていない。実際に喧嘩が行われた事は幸いにもまだ一度も無いのだが、いつか現実になるのではと気が気でない。彼らが本気で暴れたら店が一溜まりもない事くらい、莅黄の想像でも分かるのだ。
 チッと舌を鳴らし、黒翔はその手を離す。口喧嘩の後の行動に発展しないのは、黒翔の場合は莅黄の存在の所為だとも言える。“莅黄の言う事なら聞く”という程ではないが、彼はどうやらこの店の店長にはあまり逆らえないようである。お陰で大体の騒動は莅黄がストップを掛ける事で粗方治まる事が多い。但し動作限定、言い争いに関してはさほど効果はない。
「連行されたら困るって、こいつら俺らが捕まえるんだから」
「だったらさっさと捕まえて連れてこい」
「捕まるかバーカ」
「捕まえるし。報奨金貰うし」
 見上げるように睨み付ける、表情は余裕。因みに莅黄の提案で、この店内にいる間は何でも屋と盗賊の追い掛けっこは“一時休戦”扱いとなっている。役所非公認、受付人除く。左翊はカウンターテーブルに肘を着き、随分と前に出された珈琲の残りを飲み干した。すっかり冷め切っており冷えた身体は温まらないが、気を落ち着かせる為には十分である。ひとまずこの店から宿へと帰る方法を考える。何となく視線をぐるりと回し、そして彼は窓の外の光景に気付いた。暫し思考回路を巡らせ、室内に差し込む陽光から経過時間をぼんやりと考えて、納得。呆れたように相方へと視線を向けた。
「迅。雪、溶けてる」
「え、うっそぉ!?」
「あらあらぁ」
 相方の発言が耳に届くと同時に、迅夜は弾かれたように窓枠へと飛びついた。窓の外は白。しかし左翊の言うように、所々にもう地面が見えていた。無理もない、出された飲み物を啜りつつケーキを食し、延々と不毛な言い争いを繰り返している内に時間は昼を回っていたのだ。曇りならばいざ知らず、天候は晴天、気温は徐々に上がってきていた。
「うっそぉ…つまんねぇ、折角降ったのにさぁ」
「お前はもう十分遊んだだろ」
「足りないって、雪合戦してねぇもん」
「……人を巻き込むな」
 窓にぺったりと張り付いたまま、口を尖らせた迅夜は盛大に溜息を溢した。一連の様子を見ていた黒翔はふぅと息を吐く。
「残念だったな、遊べなくて」
「誰も出てくんないからじゃん」
 声を掛けられ迅夜はぐるんと首を回して後方を見る。角度の所為でもあるがその視線は黒翔を睨み付けているようでもある。黒翔は再度、呆れたように大袈裟に溜息を溢した。
「っとに、ガキ」
「寒いの嫌いな奴に言われたくない」
「ガキは寒い中延々と遊ぶんだろが」
「うっさい。…懐かしかったんだもん、騒ぎたくなるじゃん」
「…は?」
 不意に小さくなった声。黒翔が疑問符を浮かべるのとほぼ同時に、迅夜はハッとして窓の外へ視線を戻した。自分は今何も言っていないと、そういう雰囲気を醸し出して。窓ガラスに映る顔は情けなく口を尖らせている。本当に、どこの子供だろうか。いきなり会話を終了させられた黒翔は首を傾げるばかりだった。

「用が済んだなら帰るか?」
 堪らず左翊は立ち上がり、迅夜に声を掛ける。会話の強制終了の直後から店内はすっかり静まりかえっていた。平和とも取れるが慣れではない。少しの間唸り続けていた迅夜も、漸く振り返って笑顔で頷いた。ほんの少し前の彼の表情は既に影も形もなく、これだから彼の考えている事が読めないと思ってしまうのだ。
「ん、もういいや。雪溶けちゃったし」
 くるんと向きを変えた迅夜はカウンター席へと寄り、ポケットに突っ込んだままでくしゃくしゃになった紙幣をひらひらと莅黄の前へと落とした。釣り銭を用意しようと慌てた莅黄に対して、迅夜は手をひらひら振って笑う。
「いつも言ってんじゃん、お釣り要らないって」
「え、いえ、でも…」
「遠慮無く受け取っとくの、そういうのは」
 ニカッと笑った顔に、莅黄は申し訳なさそうに礼を言った。いつもの事だった。今この場にいる五人に、莅黄は釣り銭を渡した事がない。僅かな差ではあるが、回数が重なればそれなりの量となる。そしてそれは悲しくも有り難い収入源だった。
 立ち上がった左翊を連れ、迅夜は扉へと向かう。雪は止み、溶けている。しかしそれでも気温が低い事には変わりなく、冬はまだまだ終わらない。扉を開けた迅夜は外気の冷たさに身を震わせた。陽射しはあるものの澄み切った空気は尚更冷気に拍車を掛ける。寒がりな割に薄着が好きな迅夜に対して、左翊は呆れたように何度か上着を投げ付けた事があった。そういえば今日に限って投げ付けていないな、と今更左翊は思い出した。
「迅」
 丁度外へ一歩踏み出した迅夜に声を掛けたのは、先程から黙ったままだった黒翔だった。寒さに顔を顰めながら迅夜は動きを止め、「何?」と面倒臭そうに振り返った。言外に「早くしてよ」と言っている。黒翔を除いた全員が、訝しげな目で彼を見ていた。座ったままの黒翔は視線を迅夜に合わせると、仕方なさそうに…という上から目線で彼を見た。
「次、雪降ったら遊んでやるよ」
「……は?」
 表情はニヤニヤとしたからかいだ、しかしどうやら本気も含まれている。それに気付かない程バカじゃない、冷静に考えた迅夜はついさっきの自分が見せてしまった表情を思い出し、軽く後悔した直後に盛大に笑い飛ばした。
「寒いの嫌いな癖に。強がり」
「嫌いとは言ってねぇだろが」

 外に出て、宿に向かう途中。道の端々に残る白には沢山の小さな足跡が残されていた。街に住む子供たちはきっと、積もった雪というものを初めて見たのだろう。今は丁度昼食の時間帯だからか、動き回る姿は少ない。しかし子供たちが声を上げてはしゃぎ回っている光景は容易に想像が付く。迅夜の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
「ねー、サイ」
 呼び掛けられ、左翊は足を止めずに視線だけ迅夜へと向けた。どこか楽しそうな彼の表情は、妙な企みや策略のない純粋な笑顔。この顔を見てしまうと、彼もまだまだ子供なんだと、そう思ってしまう。
「次雪降るの、いつだろ」
 思わず左翊は溜息を吐きたくなって、小さく笑った。

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